第三章

第1話 解錠

 ヤチヨは言葉を話せない。


喉から音を出すことは出来る。

頭の中で思いを巡らせることも、他者が話している内容を理解することもできる。文字を書くことも、問題ない。


けれど声に乗せて話すとなると、途端に音は、彼女の舌の上で消失してしまうのだ。


悲鳴や嗚咽、アーアーという乳児の発する喃語に似た音しか、ヤチヨの口から出てくることはなかった。


 なのでヤチヨが他者と意思疎通する手段は、専ら筆談になる。


(大丈夫。後のことは、心配しないで。決めた通りにするから)


 黒い小型の板の上に、ペンが走る。


そこに書かれた文字を読んで、静かに頷いたのは、ミネコだった。


ヤチヨはミネコの表情に、一点の揺るぎもないことを読み取った。


四角く平べったい板の角の一つに、小型のボタンがあり、そこを押すと上に書かれた文字は消え、新たに何も書かれていない、黒い画面が広がる。

ヤチヨはそこに、新たな文を書き込んだ。


(来訪者、きっと来るよ)


「そうね。きっと来るわ。……来てもらわないとダメよ。いよいよこの国は、立ち行かなくなる。そんなことには、絶対させない……きっとカギだって、そう思っている」


 ミネコはいつもの登山服の上から、真っ白なきぬを羽織っていた。それは丈が長く、立ち上がった彼女の踝近くまでを覆った。


その衣の上――胸のあたりで、首から下げた小さな物が、白く仄かな光を放っていた。


丸みを帯びた形で、下部が僅かに尾を伸ばすように垂れていて、その端が孤を描いている。


――勾玉まがたま


 ヤチヨがその古代の服飾品の名称を覚えたのは、まだ言葉を話すことができた、幼い少女の頃だ。

その名称を示す文字を書けるようになったのも、同じ頃。

文字通りの形を成しているのだな、と思ったものだ。


 なぜ勾玉の形をしているそれを、「カギ」と呼ぶのか不思議だった。あんな形をしていては、鍵穴にどうやって差し込むというのだろう。


「ヤチヨちゃん」


 ミネコに呼ばれて、ヤチヨの意識は過去から戻ってくる。


「どうかお願いね。でも危ないと思ったら、迷わず逃げて」


 ヤチヨは頷いた。


ミネコの顔から、不安を感じとった。


安心させたくて、ヤチヨは彼女の手を握った。


こうすると文字は書けなくなってしまうのだが、あまり困ったことはなかった。手を繋いだり、肌を触れ合わせる時には、文字を書く必要を感じない程、お互いの感情が直に伝わり合うものなのだ。


「ヤヒコくんにもよろしくね。近いうちに、また会いましょう」


 深く頷く。


――また会いましょう


 その意思が、しっかりと彼女に伝わるように。


「開きます」


 その言葉は、ヤチヨに向けて発したものではないのかも知れない。


 ミネコの声は、一人の人物が発したようには聞こえなくて、幾重にも重なった大勢の声のような、不思議な響きを纏っていた。


「解錠」


 ミネコの唇の動きが、確かにその音を生み出したのだと分かった。

 

――扉が開く。開いていく


 ミネコの胸の上で光る勾玉が、一瞬だけその輝きを消したかに見えた。


次の瞬間、あまりの光量に、ヤチヨの視界はブラックアウトした。


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