第68話 蓋
「さっきの子が言ってたこと、本当なの」
切り出したのは蓮だった。
抑揚のない話し方は、普段と変わらない。しかし表情は険しく、それが苛立ちを示すものであることが分かった。
「まさかとは思うけど、浮気とか」
「それはない」
否定したのは裕貴ではなく、侑子だった。
「野本くんがそんなこと、するわけないよ」
「侑子」
蓮という第三者がいるのに、裕貴は侑子のことを名前で呼んでいた。
その顔は、不安げに歪んでいる。
「大丈夫。疑ってないよ」
だからそんな顔をしないで。そう続けようとした侑子だったが、裕貴の表情が更に苦悶に変貌していくのを見て、声が出なくなった。
裕貴が怒りに震えているように見えた。
「……なんで怒らないの?」
怒りなのか失望なのか、二つの感情からか。
裕貴の瞳が涙で滲むのを、侑子は見てしまった。
「なんで笑っていられるんだよ。目の前で彼氏が他の女と抱き合ってたら、普通怒るんじゃないの?」
掴まれた腕が痛い。
強い力だった。
「ちょっと」
蓮が手を外そうとしたが、裕貴はそれを振り払った。
「俺のこと……本当に好きなの?」
強くぶたれたような衝撃が身体を走ったが、もちろん侑子は誰からも叩かれていない。ただ裕貴が絞り出すように放った言葉に、愕然としていた。
「……! ごめん!」
すぐにハッとして、我に返った裕貴が、侑子の腕を解放した。
侑子を見て、今度は自責の念にかられた表情を浮かべている。
「ごめん……ごめん……すごく勝手なこと言った……勇輝さん以上になれなくてもいいって言ったの、俺なのに」
久々に誰かの口からその人の名を聞いて、侑子の肩が揺れた。
裕貴は気づいただろうか。
「……本当に、ごめん」
再び触れてきた裕貴の手はいつも通り優しくて、侑子は握り返した。
裕貴を落ち着かせるためか、自分の気持ちを鎮めるためか、分からない。
「気をつけろよ、お前」
はぁーとわざとらしく大きな溜息を吐き出して、雰囲気を変えようとしてくれたのは、蓮だった。
「とんだ修羅場に居合わせたかと思った」
「悪かったよ」
「昼飯奢ってよ。それで水に流してやろう。ゆうちゃんの分も」
「私はいいよ」
「いや、奢らせていただきます」
「よし」
部室を後にした三人の足取りは、その声の調子同様、いつも通りに戻っていた。
しかし侑子は、白波を立て始めた心を、持て余していた。
自分の中で終わらせたつもりでいた気持ちは、全く断ち切れていなかったと、露呈してしまったのだ。
――どうすればいい? どうすれば、野本くんと同じ高さで、向き合える?
ユウキを恋い慕う感情は、皮膚の中に沈着した色素のように、擦っても洗っても、薄まっていなかった。
ただ蓋をして、一時の間見えないようにしていただけだ。
溢れかえるほど膨らんだその感情は、侑子が準備できる容器では狭すぎて、いつだって内側から蓋を押し上げていたのだ。
ちょっとした衝撃で、簡単に外れてしまう。
――野本くんは優しすぎる。私はただ都合よく寄りかかっているだけなのに、そんなこと分かった上で、全部受け入れようとしてくれている
こんな自分のどこが気に入られているのか、侑子には理解できない。
けれど裕貴と体を重ね、快楽に溺れている時間が、離れがたくなる程心地よいのは間違いなかった。
そんな自分を知る度に、侑子は自己嫌悪する。混沌とする時代の渦に身を任せて、いっそ消えてしまいたいと思う。
――話そう
今の自分に出来る限りの誠意を示すことができるとしたら、これしかないと思った。
――ユウキちゃんのこと。並行世界のこと。私が一年間を過ごした場所のこと。全部野本くんに打ち明けよう
話したところで、何かが変わるかは分からない。全く信じてもらえないで終わるかも知れないし、もしかしたら気が狂っていると、距離を置かれるかも知れない。
けれど全て打ち明けて、そこで初めて裕貴と真正面から向き合えるのではないか――侑子はそう直感したのだった。
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