第67話 自惚れ

 大学生の夏休みは長い。

モラトリアムとは、よく言ったものだと侑子は思う。

 授業はないが、講習やサークルで、毎日大学に足を運ぶ日々を送っていた。


「これ、全部運ぶの?」


 階段の踊り場で、侑子は上から降りてきた従兄弟から、声を掛けられた。


「蓮くん」


 スタジオでの練習を終えたので、部室に機材を運んでいるところだった。

侑子が所属する軽音サークルの部室は、サークル棟の最上階に位置する。今日は運悪く、エレーベーターが故障中だった。


「手伝うよ」


「ありがとう。助かる」


 今日はただでさえ、自分の荷物が多かったのだ。教科書類でずっしり重くなったバッグと、ギターも背負っている。蓮の申し出に、有り難く甘えることにした。


「蓮くんも、今終わったとこ?」


「特に活動があったわけじゃないよ。三脚を借りてたから、戻してきただけ」


 蓮は写真部に所属していた。

軽音サークルの部室と同じ並びに暗室があるので、侑子と蓮はサークル棟で顔を合わせることが多い。


「今日は裕貴は来てなかったの?」


「来てるよ。さっきまで一緒に片付けてたから、多分先に部室にいるんじゃないかな」


 侑子の所属するサークルは、他大学の学生も多数参加している。裕貴もその一人だった。彼と侑子は同じバンドの中で、二人共ボーカルとギターを担当している。中学からずっと変わっていない。


「本当に仲良いよね」


「うん」


 素直に頷いた従姉妹に、蓮は微笑んだ。


二年前、並行世界との繋がりが突然途絶えた直後の彼女は、とても見ていられなかった。


そんな侑子をずっと近くで見ていた身としては、彼女に対して暑苦しいほどの好意を持っている裕貴が側にいることは、悪くはないと思うのだ。


 ユウキのことは、まだ想っているのかもしれない。けれど、もう会うことも、手紙で気持ちを交わすことも、ないのだろうから――――


――ゆうちゃんはこっちの世界で、ちゃんと恋愛するべきだ。それがいいはずだ


 その相手として、裕貴は申し分ないだろう。

侑子のことを中学時代からよく知っているし、趣味も合う。お互いの家族とも親交がある。

何よりも裕貴は侑子に夢中だし、侑子だって、信頼を寄せているだろう。


 そのように蓮は考えていた。


 部室のドアを開けるまでは。




***





 押し問答のような、やや不穏な調子の話し声が漏れ聞こえてきたのは、部室へ続く廊下を曲がったところだった。


その声の片方が裕貴のものだったので、侑子と蓮は顔を見合わせて、一時足を止めた。


「やめろって!」


 裕貴が声を荒げるのは、歌っている時だけだった。


仰天した侑子は、両手に抱えた機材とバッグを床に置いて、走り込む勢いのまま部室のドアを開けた。


 ドンという大きな物音は、侑子が勢いよく開けたドアが、壁に打つかる音だったか。それとも、部室内で裕貴ともう一人の人物が、立てた音だったか。


 咄嗟に判断できなかった。


「おい」


 息を呑んでそう発したのは、侑子の後ろから顔を覗かせた蓮だった。

その声には、静かな憤りが含まれていた。


「……! ゆ、うこ」


 驚きのあまり、声をひっくり返した裕貴の顔は、一気に蒼白になる。


彼は部室の中央に据えられた一台のテーブルの上で、一人の女子学生の上に折り重なっていた。組み敷かれているように見える女子学生の腕は、しっかりと彼の首に絡められている。侑子も顔見知りの、同じサークルの学生だった。


「なんだ」


 赤いリップが印象的だった。彼女は裕貴と、侑子の顔を一瞥すると、小さな吐息と共に、上体を起こした。


「その様子だと、本当に付き合ってたんだ」


 裕貴は彼女からさっと身体を離すと、侑子に駆け寄る。


「違う。今のは――」


「良いなと思ってたの。裕貴のこと。でも五十嵐さんと付き合ってるとか言うし、けど五十嵐さんの方は、そんな素振りないじゃない。かわすための適当な嘘だと思ってた」


 乱れた髪を手櫛で整え、床に置いた荷物をまとめると、彼女は侑子の隣まで歩いてきた。


「試しに迫ってみただけだから。抱きついて、引っ張ったら倒れちゃっただけだよ。脅かしてゴメンね、五十嵐さん」


 足を止めて、侑子の顔を覗き込むように見てくる。マスカラが綺麗に塗られたまつげが、侑子の感情を見極めるように、一度だけ上下にゆっくりと揺れた。


「――本当に、裕貴のこと好きなの?」


 改めて問いかけられた言葉に、侑子は声もなく首を前方に傾けるしかできなかった。


頷いたのではなく、俯いたように見えてしまったかも知れない。


 女子学生はそのまま、睨む蓮の存在を無視して、部室を出ていった。


乱れない足音だけが廊下に響いて、残された三人が口を開くことができたのは、完全にその音が聞こえなくなってからだった。

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