第50話 世界ⅱ絵の具
「この色を表現するには、何色の絵の具が必要かな」
紡久の部屋に顔を出したのは、ユウキだった。
戸口に長身を寄りかけるように立ち、一枚の大判の布を持っている。
紡久は窓際に座って、スケッチブックを前にしていた。窓の外から見える、通りの様子を描いていたところだった。
半年前よりも大通りの風景は、随分と色褪せて彼の目に映っていた。
春から秋へと季節が変化したからではない。人々から感じられる生気と魔力が、以前よりも減っていたのだ。
「その布」
「俺のステージ衣装だよ」
紡久にも見覚えがあった。
歌う時のユウキが、よく腰に巻いている布だった。スパンコールのように表面に隙間なく縫い付けてあるのは、青い硝子の鱗だ。
「この鱗を描くの?」
布を広げてみる。光に照らされた水面のように輝き、サリサリと涼やかな音が鳴った。
「ツムグくんのように上手には描けないだろうな。色だけでいいんだ。同じように紙の上で表現したくて」
『紙の上』という言葉を聞いて、紡久は顔を上げてユウキを見た。
舞台の前後でこまめに髪色を変えていたユウキは、少し前からその切替を止めていた。魔力を消費させないためである。
ユウキはステージに上がる時に、元の髪色に戻すことをやめたのだった。伸びた分だけ、根本に地毛の灰色が顔を出している。
「侑子ちゃんに送るの?」
「そう。贈り物。最近ずっと、鱗を贈れずにいたから」
鱗と言って指すのは、布の表面を飾る硝子のビーズだ。ユウキと侑子の二人にとって、どうやらこの鱗を模したビーズは、特別なものらしい。
紡久は侑子がいたあの曙祝の席で、目の前で目撃していたのだ。彼女の純白のワンピースが、この青い鱗で覆い尽くされていく様子を。
「いつも手紙の中に入れていたよね」
「魔力節約のために止めていたからな。……後悔してる。微々たるものなんだから、魔力なんてケチらずに、いつも贈るべきだったのかも知れない」
「……? 侑子ちゃん、何かあったの?」
心配そうな紡久の声に、ユウキはすぐに切り替えるように笑顔を作った。
「病み上がりだから。元気がでるように、ね」
そっか、と紡久は応えた。
画材道具を収納する棚を開けて、同系色でまとめた引き出しの中から、寒色の絵の具を取り出し始める。
迷いなく動く紡久の指を、興味深そうに眺めていたユウキは、ふと視線を横にずらした。
飴色のロッキングチェアに、大きなあみぐるみが足を投げ出すように座っていた。
紡久によく懐いていた、巨大なクマのあみぐるみだった。この大きなクマも、他のあみぐるみたち同様、侑子が消えた日から全く動かなくなった。
背もたれからずり落ちているクマの姿勢を、ユウキは整えてやる。
物言わぬクマの顔に、「落ちるなよ」と呟いた。
「こんなもんかな」
絵の具を選び終えたのだろう。
片手に乗せきれない数の絵の具を、紡久がテーブルの上に広げた。
「こんなにたくさん使うの?」
紡久が選んだ色の中には、赤や黄など、ユウキの予想とは大きく外れたものもあったのだ。
驚くユウキに、紡久が笑って頷く。
画用紙を一枚取り出すと、その隣に鱗で覆われた布を広げる。
パレットの上に数色の絵の具を出し、水で伸ばしながら濃淡を調整していく。
大胆に一つの色を伸ばしたかと思うと、色を付けていな水筆で、拭き取るように色を逃した。
新しい色を伸ばし、点を描くように細かく指先を振動させる。
――魔法みたいだ
ユウキは凝視した。
絵筆は踊った。
色と色が混ざり合い、相反したかと思うと、境目は滲んで見えなくなる。
新しい色が小さな紙の上で産声を上げていた。
「すごいな」
はい、と手渡された絵を見て、ユウキは息を飲んだ。
「絶対に黄色や桃色なんて、使わないと思っていたのに」
目の前の紙に再現された硝子の鱗は、紛れもなくユウキが遠い昔から知っている鱗だった。
「本当は使わない色なんて、多分一つもないんだよ」
鱗の布を持ち上げた紡久は、それを窓際まで運んだ。
窓を開け放つと、金木犀の香りが入り込んでくる。
風に揺さぶられた布がはためき、柔らかい秋の光りに煌めいた。
「ほら、ここから見ると黄色っぽく光っている。それに反射して床に落ちている光は、薄紅色に近いでしょ?」
揺れてチロチロと揺れる光を、ユウキはしゃがみながら目で追った。
「本当だ」
「ライブハウスのステージの上……スポットライトの下では、また違った色に見えるはずだよ」
畳んだ布をユウキへと返却した紡久は、先程使った絵の具を籠にまとめた。再び収納棚を開けると、中から更に数色の絵の具を取り出して、籠の中に追加する。
「そこで見える鱗の色、きっと侑子ちゃんを元気にする色だよ」
差し出された籠を受け取ったユウキは、深く頷いたのだった。
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