第45話 世界ⅱ山の民

 ヒノクニは国土の八割近くが森林地帯である。

温暖多雨な気候と、複雑な地形が入り交じった結果、多種多様な木々の生育に適した環境だったことが大きい。


 そんな森林地帯の奥深く、国民にはほとんど存在を知られることなく、古代より生活する人々がいた。


 “メムの民”または“メム人”と自他共に呼称される人々である。


 いつ頃から彼らがこの国に住み着いていたのか、国が成立する以前からの土着の民か、正確に把握する者は少ない。


 古くは狩猟採集生活を主としたメム人たちは、時代の変化と共に生活様式を少しずつ変化させていった。時には人里に降り、ヒノクニ国民と交易を行ったり、出稼ぎに出たりする。

 中には完全にメム人としての生活から離脱していく者も少なくはなかったが、再び戻ってくる者もいた。


 メム人たちの村は、全国各地に点在した。しかし、彼らは現代においても一箇所に定住することはない。

 一定期間住み着いた後、別の場所へと移動していくのだ。


 彼らが道もない山間部や深い森の中を、どのように移動しているのかは分からない。


 メム人が自らの居住地からヒノクニの街へ移動することは容易だが、ヒノクニの人々がメム人たちの居住地を突き止めることは、不可能である。



***



「出発しましょう」


 聞き慣れた若い声だった。

ミネコは腰掛けていた切り株から、ゆっくり立ち上がった。


 振り返ると、身体のシルエットからはみ出る程大きく膨らんだザックを背負った、小柄な男がそこに立っている。

 

 日に焼けた肌に、黒い瞳が輝いている。瞳と同色の毛髪は猫っ毛で、フードの下でふわふわと揺れていた。


「まだ膝は痛みますか」


「大丈夫。大分いいわ」


 トレッキングポールを握る手に力が入った。


「山歩きは随分慣れたと思っていたのに。加齢には抗えないわねえ」


 苦笑するミネコに、メムの青年は親しげに微笑み返す。

 共に過ごしてきた時間は、年単位になっていた。


 気心の知れた居心地の良さを感じる中で、ミネコはこの青年に息子の面影を見ることが多かった。息子は彼よりも幾分年上だが、一定より下の世代は全て子供に見えてしまうのだった。


「休憩ばかりでごめんなさいね」


「大丈夫です。もうひと踏ん張りですよ。多分明日の早いうちには、ソウイチロウさんの待っている拠点に到着します」


「頑張る」


 青年が示す方向へ、足を踏み出した。


 そんなミネコの背後から、軽やかに土を踏む音が近づいてきた。足音と同じ拍子を取るように、小さな鈴の音がリンリン鳴っている。


「ヤチヨちゃん」


 幼さの残る丸顔に、赤い頬。美しい顔立ちの少女である。艷やかな長い黒髪に、一輪の野花がささっていた。

 ヤチヨはその靭やかな手の中に、同じ野花を一輪、携えている。それをミネコの方へおもむろに差し出してきた。


「きれいな野菊ね。ありがとう」


 白い花弁の中心に、鮮やかな黄の管状花があった。顔を近づけると、仄かに朝露の香りがする。


 ミネコの笑顔を確認すると、ヤチヨは相好を崩した。彼女の赤い唇から声が放たれることはなかったが、形良い白の歯がきらりと輝いた。


「行こうか、チヨ」


 妹を呼ぶ時、ヤヒコは頭の一音を外して彼女のことを呼ぶ。


 頷いたヤチヨは、ミネコの後方を守るように歩を進め始めた。

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