第46話 〚少し過去の話〛世界ⅱ剥離

「剥がれた」

 

 零れ落ちたその言葉が、自分のものだと気が付かなかった。


 空中を覆う天膜の一部――十センチ四方に切れ込みを入れた箇所――が、枯れ葉が落ちるように、ヒラヒラと揺れながら落下していく。


 シグラは白い手套を嵌めた両手を椀状にして、それを受け止めた。


 手套の薄い布越しでも、重さは感じなかった。


オブラートのように薄いそれは、吐息が僅かにかかっただけでも、再び舞い上がってしまいそうだ。


守るように手を閉じ、中に閉じ込めた。


「これが、天膜……」


 手と声が震える。


「見て。シグラ」


 ブンノウが指し示すのは、切り取られた天膜があった場所だった。


「切り取った跡は、どうなっていますか」


 シグラは目を凝らす。


 その場所は、ぽっかりと穴が開いていた。切り取った形そのままに、四角い形を保ったままだ。穴が開いたことで、周囲がよれたり、しぼんだり、膜が残った箇所の形が崩れることはないようだ。


 不思議な光景だった。


 見えた通りに説明したシグラは、呟くように締めくくる。


「向こう側が見える。……天膜の向こう側。変わらないのね。色も、温度も」


 ブンノウの促すまま、シグラは手の中の天膜のかけらを、小さな透明容器の中に落とした。シャーレのような薄い円形の容器は蓋も透明で、全方向から中の天膜を観察することができる。


「私には何も入ってるように見えないのですが、あなたには確かに見えるのでしょうね」


「見えるわ」


 シグラは頷いた。


 容器から目を逸し、再び切り取った跡の空中――穴の空いた天膜を見上げる。


 四角い穴の中に、人差し指を差し込んでみた。

 

 穴の向こう側は、確かに気温も変わらないようだ。大気以外の何かが指に触れる感覚もない。

 

 切り取られた天膜の断面にも、触れてみる。


 硝子のように硬くもなく、紙のように柔らかくもなかった。力を入れて押してみても歪まないのに、反発する力が指に伝わってくることもない。


「なんて神秘的なの……」


 ついにやり遂げたのだ。



 天膜を剥がし取ることに成功した。



 押し寄せる興奮と歓喜の波は、計り知れない程大きい。シグラは立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。


 しかし寄せた波が引き始めるのと同様に、今度は相反する感情が、彼女を俯かせた。


――本当に、良かったの?


 もしかしたら自分たちは、何か取り返しが付かないことを、やり遂げてしまったのではないか。


 下から仰ぎ見たブンノウの笑みが、酷く歪んで目に映った。


 シグラはそれ以上の思考を進めることに、足が竦んでしまうのだった。

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