好きな声②
カラオケで歌う時、侑子も裕貴もマイクを使わない。
カラオケ独特の伴奏の音を極力小さくして、自分の声に集中する。河原や部室、スタジオで歌うのとは全く違い、閉塞感から抜け出そうと必死になる。
侑子はあまり好きな場所ではなかった。
小学生の頃の苦い思い出が、蘇るからだろうか。とっくに克服したはずなのに、やはり記憶は侮れない。
一通り歌いたい曲を全て歌い終わってしまうと、それ以上新しい曲を入れる気にならなかった。侑子はただ裕貴の歌声に耳を傾けていた。
先程の質問の答えを考える。
裕貴の歌声は好きだった。
地声が低めだから、歌声にも男性の低音特有の力強さがある。
――ちょっとだけ、ユウキちゃんの声に似てる時あるんだよな
ユウキの声を最後に聞いたのは、三年前になる。正確に記憶しているのか不安になるが、裕貴が歌う時、たまに彼の低音の中にユウキに近い響きを感じることがあった。
――歌い方は全然違うし、喋り声も似てないけど
時折見つけるその音に、侑子は『もっと聴いていたい』と思わずにはいられなかった。しかし、やはり歌声全てがユウキと同じであるはずはなく、別人のものなのだと思い知って終わるだけだ。
「飲み物取ってくるね」
裕貴が歌い終わったのを見計らって、侑子はグラスを手に立ち上がった。
ドアに手をかけた侑子の反対側の腕を、裕貴の手が捕まえる。
「どうしたの?」
再び席に座らされた侑子の問に、裕貴は質問で返した。
「ゆうちゃんの一番好きな声は?」
どういう意味かと更に訊き返そうとした侑子だったが、裕貴が畳み掛けた。
「手塚勇輝さんって、どんな声なの」
「え?」
ここで名前が出るとは予想外過ぎて、侑子の声はひっくり返った。
「そいつのことが好きなの?」
「野本くん」
ちょっと待って、と裕貴の前で両手を広げた侑子だったが、その表情を見て裕貴は顔を僅かに歪ませた。答えを聞かなくとも、返答はそこに全て書かれていた。
手で顎に触れて、考え込むような表情を浮かべた侑子が口を開くまで、裕貴は言葉を挟まなかった。
「ユウキちゃん――手塚勇輝さんのことね。あの声は……とても不思議な声」
気迫を感じる裕貴に焦ったものの、侑子は言葉を紡ぎながら少しずつ落ち着きを取り戻していった。
ユウキの声を思い出す。
「小さな女の子が笑う声。しゃがれたおじいさんが昔を懐かしむ声。お母さんが家族を呼ぶ声。地面が揺れる低い声。包み込む風みたいな声。何もかも託したくなるような、女神様みたいな声」
言葉に出して表現すると、記憶の中のユウキの声が、生き生きとしてくるのが分かった。まるでたった今耳元で囁かれたかのように、その吐息の温度すら感じられるような気がするのだから、不思議だ。
その不思議な感覚に、侑子は知らずに笑みを浮かべていた。
――忘れてしまうのが怖かったのに、こんなに近くに聞こえる
言葉の力を感じた。
言霊とは、表現した物を具現化する力も持つのだろうか。
まるで身体の中でもう一人の彼が歌っているかのように、ユウキの声が頭の中に溢れ出す。
「腹話術師か何かなの……?」
裕貴は困惑していた。
侑子はふざけているように見えないし、むしろ一つ一つ的確な言葉を選んでいるようにすら思えた。
侑子は裕貴の顔に視線を戻した。
裕貴は身じろぐ。
侑子はいつも、真っ直ぐ見つめてくる。
他愛のない話をする時も、ふざけている時も。
――だからこっちも、目が離せなくなるんだ
気づけばいつだって目で追っていた。
記憶が曖昧な期間があるというが、その割に弱々しい顔はしない。控えめな性格なのかと思えば、ギターを構え歌う時には、誰よりも前へ前へと音を飛ばした。
――好きになるなって言う方が無理だ
本当は口にしたかったその言葉を、裕貴は飲み込んだ。
「私の一番好きな声は、確かにユウキちゃん」
結局どんな声をしているのか、そこはあやふやなままだったが、最も確かめたかったことはあっさりと明らかになった。
裕貴は胸が痛みで跳ねたことを感じる。一方で清々しい微笑の侑子を前にして、どうしようもなく身体に熱が上がってくることも、自覚したのだった。
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