第40話 世界ⅰ好きな声

 レコードに針が落ちる瞬間を見るのが、侑子は好きだ。


 ゆっくりと回転を始める、艶を帯びた黒い円盤。間近で観察すると、音を封じ込めた溝の一つ一つがはっきりと分かる。


 レコードの溝は音のわだちだ、と侑子は考えていた。誰が発明したものなのか知らなかったが、その人のことを讃えたくなる。


スピーカーから音が流れ出てきた。


 粘り気を感じさせる歌声が響き渡る。


「トム・ペティ、好きなの?」


 ライナーノーツに目を走らせ始めた侑子に、部屋に入ってきた裕貴が声をかけた。


 彼が両手に持つマグカップからは湯気が立ち上っていたが、肌寒く感じるほど冷房で冷やされたこの部屋では、丁度いいかもしれない。


「来た時には必ず聴いているね。やっぱり侑子ちゃんとは気が合うようだ」


 そう笑ったのは玄一だった。長椅子から立ち上がると、侑子がたった今ライナーノーツを取り出したジャケットを手に取る。黒い革ジャンを身につけた男が、不敵な笑みを浮かべて写っていた。


 侑子にとって玄一の音楽部屋――レコードやCDのコレクションが所狭しと並ぶ空間だった――は、すっかり馴染みの場所となっていた。

 中学時代のクリスマスパーティーで初めて訪れてから、少なくとも月に数回は遊びに来ている。


 初めて触れた時にはA面B面の存在すら知らなかったレコードの扱いも、すっかりお手の物である。


「声が好きですね」


「そうなんだ。曲が気に入ってるんだと思ってた」


 裕貴からカップを受け取った侑子は「もちろん曲も好きだよ」と付け足した後、しばらく考えてから再度口を開いた。


「でもやっぱり声が好きだからかな。多分私、声からハマるんだと思う」


「なるほど」


 玄一は長椅子に再び腰を下ろした。


「確かに侑子ちゃんが二度三度リクエストしてくるミュージシャンは、皆声や歌い方に強い個性があるね」

 

 傍らに無造作に置かれた紙袋を覗き込み、玄一はその中身を確認しているようだった。


「そんなわけで、今回は歌声が印象的なシンガーを選んでみた。以前貸したことのあるものも混ざってると思うけど」


 手渡された袋の中身は全てCDで、それらはもちろん玄一のコレクションだった。


「いつもありがとうございます」


 侑子は一つ一つ名前を確認しながら、「あ」と呟いて二枚のアルバムを取り出した。


「これは前に貸してもらった後、自分でも買ったんです」


「フィオナ・アップル」


「はい」


 なぜこのミュージシャンに惹かれたのか、本当の理由を侑子は告げなかった。


 どこか儚い印象を受ける美しい女性ミュージシャンだったが、その外見とは裏腹にドスの効いた、深く広がる低音が特徴の歌声なのだ。

初めて玄一から借りたCDを再生してすぐ、侑子はリリーを連想した。懐かしい歌声だった。


「私はこんな風に歌えないから、とても憧れます」


「そりゃあ、声は天から授かった、その人の唯一無二のものだから」


 ははは、と玄一は愉快そうに笑って、侑子から二枚のCDを受け取った。代わりにと別のアルバムを袋に入れてやる。


「俺はゆうちゃんの歌い方好きだよ」


 祖父と侑子の会話を聞いていた裕貴が言った。侑子のマグカップの中身がほぼ空になっているのを確認すると、彼はテーブルの上に投げ出されていたスマートフォンを手に取る。


「歌いに行かない?」


 プレーヤーの針は、円盤のまだ中程の溝をなぞっていた。


 しかし玄一は「行っておいで」と侑子に手を振った。


「片付けはじーちゃんがやっといてやるから」


「ありがとう」


「ごちそうさまでした」


 貸出袋代わりの紙袋とギターケースを抱えると、侑子は裕貴を追いかけるようにして玄関を後にした。




***




「暑いな」


 外に一歩出ると、真夏の日差しが容赦なく二人の身体を刺すように照らしてくる。


「今日も図書館行く予定だった?」


 少しだけ眉根を下げた裕貴が、うかがうように侑子を振り返った。


侑子は首を振る。


「特に何も考えてなかったけど」


「よかった」


 裕貴は侑子のギターケースを軽く引っ張る。


「持つよ。カラオケ行こう。今日は河原じゃ暑過ぎて無理だろ」


「カラオケなら、誰か誘ってみる?」


「いや、二人で行こう」


 裕貴はぐんぐん歩くが、歩幅は侑子に合わせてくれているようだった。


並んでいると、裕貴と出会ったばかりの頃よりも、随分彼の背が高くなったと感じる。


「ゆうちゃんさ、俺の歌どう思う?」


 部活仲間でよく利用するカラオケ店が見えてきた。目的の場所に真っ直ぐ進みながら、裕貴が唐突に訊いてきた。


「すごく上手だと思うよ」


 侑子は考えることなくすぐに答えた。何の疑問も持たなかったし、お世辞でもない。


裕貴はギターがやりたくて軽音同好会に入ったとのことだが、高校の軽音楽部に入部してからは歌うことも増えていた。彼の歌は上手いと評価されているし、侑子ももちろん同意だった。


「声は?」


 カウンター前に何組か並んでいたので、二人は店先で足を止めた。


「俺の声はどう? ゆうちゃんは声からハマるんでしょ」


 見下ろしてくる裕貴の目が、いつになく真剣だった。


「俺の声は、ゆうちゃんがハマれる声?」


「お次のお客様、どうぞー!」


 侑子が裕貴の歌声を思い起こそうとした時、カウンターの向こうから二人を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。


 答えは保留となった。


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