ⅰ封書②

「わあ! もうこんな時間!」


 リビングに入った侑子は時計を確認して大きな慌て声を上げた。


 依子はそんな娘の声に仰天して、跳び上がるようにソファから立ち上がる。


「侑子。新しい学校どうだったの?」


 今日一番娘に確認したかったことである。


帰宅早々自室に籠もってしまったので、大変ヤキモキしていたところだった。


「うん。良さそうなクラスだったよ。すぐ仲良くなれそう。軽音も楽しそうな雰囲気だったし、顧問の佐藤先生もとっても面白い先生だった」


 冷えた麦茶をコップに注ぎながら早口に答える侑子の声は、大変朗らかだった。


こんなに大きな声で喋る子だっただろうか、と依子は唖然とする。


「そう。それなら良かった」


 戸惑う心を押し隠すように依子は微笑んで、キッチンに立った。


「お昼ごはんにしようか。うどん作ろうと思うけど」


「ごめん! 愛佳と軽音の人たちと一緒に楽器店に行く約束しちゃったの。約束の時間まであまりないから、パンもらっていい?」


 昼食を食べずに行く選択肢はないようだった。依子はひとまずそんな様子の娘にほっとして、彼女の言葉を振り返る。


「楽器店、てことはギターを買いに行くの? お母さんもついて行ったほうが良い? 楽器って高額でしょう?」


 昨夜「侑子のギター代に」と幹夫から渡された現金は依子が預かっている。昨日の今日買いに行くとは考えていなくて、まだそのままの状態で持っていた。


「あー。そっか。お母さん、来れるんだね」


 はっとした表情の侑子が、次の瞬間ばつが悪そうな顔になる。


「望美ちゃんに一緒についてきて欲しいってもう頼んであるんだ。帰る途中で愛ちゃんが連絡してくれて……そっか、お母さんも来れたんだよね」


 トースターにロールパンを入れる手が止まった。侑子は申し訳無さそうに依子を見た。


「何だか未だに、お母さんがずっと家にいるっていう感覚に慣れてなくて。こういうお願い、いつも望美ちゃんにしてきたからさ……」


「いいの」


 慌てたように依子は侑子の肩を抱いた。


「それは家を留守にしてばっかりだったお母さんの責任なんだから。侑子がごめんなんて言うことじゃないの。そうでしょ?」


 娘の言葉に、少なからずショックを受けたことは否めない。

しかし今はそんな感傷に浸るべき時ではなかった。


依子は明るい笑顔を作って侑子を見つめた。


「じゃあ改めて、お母さんも一緒に行っていいかな? 望美ちゃんともお喋りできるし、楽器店てあまり縁がなかったから、行ってみたいな」


「いいの?」


「もちろん」


 夫のいる海外から帰国して一年余り。その間一度も日本を離れることはなかった。毎日侑子の部屋を掃除して、いつ彼女が帰ってきてもいいように整え続けた。


 しっかりした性格だからと、社会人の兄と弟夫婦がついているからと、娘本人と周囲の恵まれた環境に甘えすぎていた自分を叱責し続ける日々だった。


 もしかしたら侑子は誰にも言えない悩みを抱えて、家出してしまったのかもしれない。


母親の自分が側にいたら、状況は違ったのかもしれない――心の奥の暗い部分で、依子は毎日後悔し続けていたのだった。


 そんな日々が無限に続いていくかに思えたある日、侑子は帰ってきた。


 依子のよく知っている娘から、大きく変わっていたところ(主に内面的な面で)もあって困惑したが、何処にも傷ひとつなく、元気な姿で帰ってきたのだ。 


――もう見失ったりしない


 依子は侑子の手からロールパンを取ってトースターに入れると、タイマーをセットした。


「早く食べちゃおう。約束の時間は何時なの?」

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