第13話 エスカレーター
毎日毎日、人々は必死な顔でエスカレーターを駆け上り駆け下りる。
エスカレータの片側を空けて急ぐ人々のために開放しようという運動はイギリスで始まり、そして社会の木鐸を自任する朝日新聞の評論委員が提唱して日本に導入されたものだ。
実際にやってみると非常に危険であり、また片側を空けるためにエスカレータの運搬能力がガタ落ちになってしまったため、最初に発案した国はわずかに一年で取りやめてしまったが、何故か日本だけはいつまでもこの習慣が残ってしまっている。
日本は外国の方式を取り入れることに抵抗がないが、それを正しく評価して取りやめることができない国である。これを称して主体性が無いと言う。
エスカレータでは老人たちが手すりに必死でしがみ付いている。顔にこそださないが老人の体というのはそういうものなのだ。いつ膝から崩れるかもしれない自分の足が実に頼りにならない。だからその横を荷物を持って駆け下りされるのは恐怖でしかない。もし体の一部がその荷物にでも接触したらエスカレータを落ちて死ぬかもしれないのだ。
年老いた母はいつもそう嘆いていた。
エスカレータを駆ける人たちを見る度に想う。ああ、この人はきっと代数幾何学におけるホッジ予想のエレガントな解答を思いつき、それを忘れないうちに何かに書き残したかったのだが生憎とメモ帖がない。だから一刻でも早く家にたどり着いて答えを書き留めたいのだろうなと。
そうでなければ周囲の人間を押しのけてまで急ぐ必要がない。まさかあの他人を無遠慮に押しのける無様な行動の理由が、一秒でも早く家に帰って冷たいビールを飲みたいからだなどという下らぬ話でなんてあるわけがない。
人間はそこまで愚かではないのだ。
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