舞台裏:変わらぬ平穏を

「もうあんたに用はないから」

 そう言うと、母は自分を車から降ろして扉を閉める。無情にも鍵が掛かる音を耳にした。

 些細な事故で両腕を失った。それが全ての切っ掛けだった。走り去る車を追うが、アスファルトが裸足に食い込んで痛む。両腕でバランスが取れず、足取りも覚束ない。

 母や父の愚痴から、子供ながらに事情は把握していた。母の両親が自分を引き取り、遺産の相続条件に自分を引き取ることを入れたらしい。おまけに遺産を一気に使い果たせないように仕掛けがしてあるらしく、月に一回自分を連れてATMの指静脈認証をしないといけなかった。

 だが、両腕を失って陽歌は鍵としての役割を失った。その結果、どことも分からないこの廃墟近くに置き去りとなったのだ。

(どう……して?)

 ただ自分は両親に構ってほしくて、頼まれた通りに商品をかっぱらったり、弟の悪事を被ったりした。その結果がこれだ。全て、自分が実の親を持たない、髪や目の色が違う、他人と同じところがないためなのか。

 ひもじい、寂しい、悲しい、辛い。多くの感情が入り乱れ、立ち尽くすしかなかった。ここがどこなのか分からなければ、帰ることも出来ない。そもそも分かったとして、車でどれくらい走ったのだろうか。そんな場所から歩いて帰れるのか。

 周りの大人は助けてくれないのが当たり前だったため、誰かを頼るという発想も無かった。

 視界が暗くなっていく。どうしたらいいのか分からない。あんなに頑張ったのに、辛くても上手くできなくても我慢したのに。授業に必要なものさえ与えられずに惨めな思いもした。みんなが楽しそうに旅行の思い出やクリスマスのこと、誕生日に貰ったプレゼントのことを話している横で、自分の誕生日を忘れてしまったこともあった。あの日々はなんだったのか。いつかはいつかはと、それだけが頼りだったのに。


   @


「……っ!」

 陽歌は捨てられたあの日の夢を見て、思わずベッドから飛び起きた。両目からは涙がボロボロと零れる。それを強引に拭って窓の外を見る。すっかり朝だ。

 毎日の様に暴力を受けたことや、鬱血して腐敗した両腕を切断される時に麻酔が効いていなかった時よりもあの日が一番、彼の心に傷を残していた。

(ユウヤは起きてるかな……)

 陽歌は週に一回、ショウゴの家からユウヤの家にやってくる。陽歌としては知っている人間一人でそれ以外がいないショウゴ宅が気楽なのだが、生活に不安を感じたユウヤが譲らなかったためそういう取り決めになっている。

(今日は……楽だな)

 今週はユウヤの両親が出張でいない。だったら日取りをずらせとショウゴは言ったのだが、そうすると次が二週間後だとユウヤが譲らない。普段は平日だが今週そこにセッティングすると、彼が学校に行っている間陽歌を一人で残してしまいショウゴの家にいるのと変わらない状態になってしまうのだ。

 ユウヤの母は専業主婦である。見知らぬ他人である陽歌のことも気にかけてくれ、彼もそれは分かっているしありがたいと思っているのだが、どうしても他人への緊張が解けない部分はある。なので結局ショウゴの家が一番落ち着く。

「うーん……」

 理屈の上では、ショウゴとユウヤ、彼らを取り巻く人々で差はないと分かっているが陽歌の主観ではどうにも違いが出てしまう。カウンセラーの先生曰く、一番困っている時に助けてくれた二人だから自然と信頼出来ているのだろうということだ。

「おはよう、陽歌。体調は大丈夫かい?」

「……うん」

 ユウヤは既に起きており、着替えも済ませてリビングの蓄音機にレコードをセットしていた。音楽と共に優雅な朝食を採るのが、この音楽一家の日常だ。彼の父は音楽家でありながら、演奏だけではなく万人が分け隔てなく音楽を楽しめることを目標に活動している。

 楽器の演奏にも耐えうる精度の筋電義肢開発もその活動の一環であり、陽歌はそのテスターをしている。

「さて、まずはお茶だな……」

 ユウヤは電気ケトルにウォーターサーバーからお湯を入れると、IHヒーターに乗せて電源を入れようとした。

「ストーップっ!」

「え?」

 その光景に陽歌は眠気が吹き飛んだ。彼も家電やらなんやらには詳しくないが、ユウヤの母が使っているところを見ているのでその使用法がなんか間違いなのはよく分かっている。そして、ユウヤの生活力が終わっていることも。

「え? どうしたんだい?」

「で、電気ケトルって火にかけたらダメ!」

 陽歌は電気ケトルを乗せる台を指さす。

「あとそれもうお湯!」

「え? そうなのかい?」

 何故か家にウォーターサーバーのあるユウヤは、直にお湯が出ることを知らなかった。大半の人間が日頃使っている道具の仕組みを知らないまま、ブラックボックスの状態で運用しているという言説に説得力が増す。

「さてと、ゆで卵でも作るか」

 ユウヤはそう言うと、生卵を電子レンジに入れようとする。それを見て陽歌は文章にならない悲鳴を上げた。生卵を電子レンジなんてベタなミスをやる人間がまだこの世にいたのだ。

「ダメです! 電子レンジに生卵は!」

「え? そうなのかい?」

 彼は全く知らない様子だった。よく今まで無事で済んだものだ。

「そうだ、冷凍のパンケーキがあるんだった」

 ユウヤが次に取り出したのは冷食のパンケーキ。もう陽歌は気が気でない。嫌な予感以外まるでしないのだ。

「そっちはオーブンですって!」

「え?」

 ユウヤの家には電子レンジのガスオーブンの二つがあるのだが、彼には見分けがついていなかった。こんな調子で、生活力皆無のユウヤと過ごす朝は気を休めるどころか寿命を縮めかねないものとなっていた。


   @


「お前だから言っただろ! 陽歌死んでんじゃねーか!」

 近くの公園でショウゴと合流する頃には、陽歌は口から魂が出て見えるほど疲れ果てていた。

「いや、そんなはずは……」

「なーにがそんなはずは、だ! いくら親が専業主婦でもこんなに生活力ねーのはありえねぇって!」

 ショウゴは逆に家事能力が高く、無駄に購入された家電も使いこなす上、冷食やコンビニ飯だけでは不足すると自炊も出来る。

「しかしこんな公園でなんの撮影だい?」

 ユウヤは話を逸らす。引き渡しなら家でもいいはずだが、今回はアパート群の中心にある公園だ。

「ったく、遊具も全然ねぇな。お前の大好きな政治家先生に頼んじゃくれねぇか?」

「こればかりは時勢だから仕方ないよ。それより公園で何を……」

「ああ、短い動画とこいつのテストをな」

 ショウゴの目的は別のSNSに上げる動画と、ある機材のテスト。それは頭部に装着するヘッドカメラだ。カメラ部分は小さく、耳に挟む鉛筆の様なサイズ感しかない。

「てぃっくなんとかの動画かい?」

「まぁそれだ」

 陽歌の目的を達成する為、ショウゴは一つのプラットフォームのみで動画を配信せず活動の幅を広げていた。

「しかし彼の親を探す為とはいえ、そんなに顔を晒していいのか?」

「逆上がりの動画とか、お前の目的にも合ってると思うが?」

 ユウヤは陽歌が顔を晒して活動することに危険性を感じていた。これだけ特徴的な顔だ。人の目を怖がる陽歌が更に奇異の目を向けられるというのは避けたい。それに、そうでなくとも顔を出しての配信は住所バレなどの危険を伴う。

「僕としては義手の部分だけ映してくれればいいんだけど」

「あいつの決めたことだ。子供ってのは親がいなくても育つ、だけどあいつはそこまで割り切れる年齢じゃねぇよ」

 ショウゴは親の愛情云々についてはもう諦めている。それは彼がもうそれなりに歳を重ねたから期待するのを辞めただけであり、陽歌はまだ幼い。親に愛されたい一心で理不尽を受け入れる程度には、親が絶対的な世界しか知らない。

「しかし、今後のことを考えると彼の平穏に差支えが……」

「差し支えてもやるんだよ。あいつが欲しいものを手に入れるか、すっぱり諦めて前に進むには必要なことだ」

 ユウヤとしては、安穏無事に陽歌には過ごしてほしい。だがショウゴは陽歌の決断を支持している。こればかりは親の愛情の欠如という共通点を持つ二人にしか分からないことだろう。

(ならば、少なくとも早めにそこは埋めないと……)

 ユウヤはこれを解決するには、陽歌に安心できる家庭、変わらぬ平穏を齎すしかないと考えていた。ネットリテラシーに疎い彼だが、陽歌が配信するにあたってそのリスクは調べている。まだ視聴者が少ないからいいが、これ以上大きくなると問題も出てくる。彼の目的を果たすには、正直義手の部分だけカメラで映っていれば済む話だ。

(変わることのない平穏はすぐ傍にある。早く気づいてくれ、陽歌)

 陽歌が求めているものは果てしなく遠く、あてどない。だが、その結果得られるものはすぐ近くにある。これ以上の危険が出る前に、ユウヤはどうにか彼を止めようと画策していた。

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