ヘンリー

ヘンリーは滅多に喋ることがなかった。おまけに彼は目つきが鋭かった。その視線には見るもの全てを恐れ慄かせる何かがあった。彼には勿論友人と呼べる人間は一人もいなかった。彼にはある幼馴染がいたが、もう長く会っていない。いまどこで何をしているか知らなかった。彼自身が望んでそうなるように交流していたので、実際は目論見の通りだった。彼は彼のことを他人から語られることを苦手としていた。そのため友人を作ろうとしなかった。両親が早くに亡くなって母方の祖父母の元で育てられたが、この二人はおおよそ人を信じることを知らなかったので、ヘンリーは嫌っていた。祖父母がヘンリーを引き取ったのも、彼の面倒を見るなら彼の両親から遺産を受け取ることができるという美味なおまけがついていたからだった。ヘンリーは結局、祖父母を悪とみなしながらもその悪意に影響を受けていることを自分で自分のうちに認めていた。何をするのにも温和で利口だと、幼少期に彼を最初に見たものはそう言うが、それは実際のヘンリーとは大きく異なっていた。ヘンリーが十歳のころのある日、家に帰るのが嫌で公園で一人ブランコに座っていた。上級生が公園に入ってきて、お気に入りのブランコにならず者が座っているのを目ざとく発見した。それから、彼の信頼できる部下の目の前でヘンリーに詰め寄った。ヘンリーは謝ったが、生まれつきの目つきのせいで謝罪を謝罪とみなされず、胸ぐらをつかまれて腹を殴られた。ヘンリーは一切抵抗せずにそのあとの暴力も受け続け、大人たちが来るまで反論も反撃もしなかった。なぜ一方的に殴られ続けていたのか聞かれると、ヘンリーは「それで済むならいいと思った」と答えた。彼は自分自身に対して一切関心を持っていなかった。そして、上級生の両親に自分の祖父母がしつこく治療費の建て替えを要求するのを黙って見ていた。彼はずっと奇妙な人間として見られ、大人たちからも次第に疎まれて遠ざけられるようになった。そのヘンリーが十歳の時に、彼の幼馴染と出会った。幼馴染は高貴な家の出身だったので、人と関わることを制限され、人を見下すように強要された。ヘンリーは人の容姿をほとんど見ていない代わりに、仕草や立ち振る舞いをじっくりと観察していた。久しぶりに会う友人のことを思い出すのも遅かった。幼馴染には人の目をじっと見る癖があった。最初、ヘンリーはその癖に不安を煽られて表情を強張らせることがあったが、屈託のない笑顔で笑いかけられるのですぐに打ち解けた。彼の周りの、正確には彼を遠巻きに見ていた人々からは驚きをもってその光景を迎えられた。だがヘンリーが幼馴染に心を許しそうになった時に、彼の名前の由来を尋ねられた。彼はこれまで、どんな質問に対してでも滔々と答えてきた。自分の答えが相手の期待と違うことを察していても、全く構わなかった。しかしその時だけ、ヘンリーは言葉を失った。彼はその日の会話を適当な相槌で済ませ、それ以降も幼馴染が引っ越して疎遠になるまではそっけない態度を取り続けた。彼にとって、彼の名前は全く意味のないものだったということを突きつけられてしまったようだった。彼は彼の人生を楽しむことが何よりも苦手だった。彼は彼自身のことが好きでも嫌いでもなかった。ただひたすら苦手というそれだけのことで、数々の選択や判断を蔑ろにしたが、そこに後悔はなかった。一度、彼は内臓の病にかかって入院したことがあった。彼の人生の中で、最初で最後の入院だった。彼が入院するという時のあらゆる判断を祖父母に放り投げたため、ヘンリーは最も安上がりな治療方法を医者に任せることになった。医者は患者のことを収入源だと考えていたが、そうだと見抜けるのはヘンリーを含めたごくわずかの人間観察に長けたものくらいだった。入院患者のうちの大半は、あんなにいい医者はいないと言ってしきりにその医者を褒めそやしたが、腹の内を知るものからすれば、蔓延る噂すらも不快感の種でしかない。ヘンリーは胃を痛めて入院した。しばらくは横になっていなくてはならなかった。友人もいなかったので、ただ単に寝転がるだけに時間が続いたが、彼にとっては苦ではなかった。その時に再び幼馴染が会いに来た。ヘンリーは怪訝な面持ちでその姿を見た。彼女はヘンリーにとって、明らかに異質で異常な存在だったが、彼女にはその自覚はない。ヘンリーは彼女の目に慈悲を感じ取ったが、憐憫はないと感じた。彼女は果物を差し入れして少し話をして帰った。病気はすぐに治った。祖父母はとにかく医者に、ヘンリーを早く退院させるようにと半ば命令のように連日詰り続けていた。祖父母が迎えに来なかったので、ヘンリーは一人でバスに乗って帰ることに決めた。医者には心配されたが、近くの駅で祖父母と待ち合わせをしていると嘘をついてどうにか納得させた。ヘンリーはバスに乗り込んで窓際でひたすら外の風景を眺めていた。帰路に、正確には帰路の先に待つ未来に不快な何かを感じ取っていた。川沿いが見え始めて、彼は唐突にバスを降りたくなった。料金表を見ながら小銭を財布から取りだす。やたらと金属のこすれる音が甲高く響いたような気がして耳障りだった。川沿いのバス停を降りた。風がぬるく、打ち上げられた不燃ごみに生物の遺骸がまとわりつく不快なにおいがゆっくり流れてきた。「ねえ」ヘンリーは背後からの聞き覚えのある声に振り向いた。例の幼馴染だった。「今日は家に帰るんじゃなかったの」「うん。でも帰りたくないんだ」夕日が芝の色褪せた緑色を橙でずたずたに切り裂いた。ヘンリーは彼女の顔から目を逸らし、ただひたすらに川が流れるのを見ていた。「大丈夫になったの?」「多分」河川敷まで降りて、ヘンリーは水際に座った。幼馴染も隣に座る。「なんで川を眺めることにしたの?他にもすることがあったでしょう」「僕は、これでいいんだ。これしかないんだ」その言葉がきっかけだった。彼女は隠し持っていたマチェットで彼の腹を突いた。赤い染みがじわじわと滲んで服に取り憑き始める。幼馴染はヘンリーの頭を踏みつけて笑った。彼は動かなかった。大きく息を吸って吐く。「素晴らしいわ!こうやって他人を踏みつけることで私がこんなにも幸福でいることができるなんて!」彼は脇腹を抑えて唸りながら幼馴染を見ていた。困惑と恐怖と衝撃が、その黒い瞳の中でとてつもない勢いで渦巻いていた。「安心して。殺したいわけじゃないの。ただ優しいあなたに私のことを信用してほしいだけなの。分かるでしょ?」幼馴染は彼を抱き起こした。体は骨張っていて細かったが、重くて固かった。ヘンリーの体は川に投げ入れられた。深い水深の中に一瞬だけ瞬いたかと思うと、赤く生臭い霧だけを残して沈んでいった。

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