慈悲、転生
病院の昼はとにかく退屈で、私はただ外の景色を眺める以外のことができなかった。大人しいとも言われたが、ただ何をすべきかどうか思い出すことができないというだけだった。日頃は嫌悪の対象であった選挙活動のメガホンですらも、私の安心を保証する音に変わっていた。しかし相変わらず内容が退屈なので、すぐに飽きて違う音を探してしまう。「体調はどうですか」女性の看護師が私に話しかけてくる。「随分退屈です。仕事の整理でもできたら少しは気持ちも落ち着くんでしょうが」看護師は私の返事を聞いて、困ったように笑いながら答える。「だめですよ、体調を第一に考えてください。腕を骨折している上に、体調不良も判明したんですから、少しは落ち着く時間も必要でしょう」少々不機嫌になった私を宥めながら、看護師は私の朝食を下げる。無理やりに完食したせいで全身が内側から破裂しそうな満腹感に責め苛まれていた。窓の外の入り口から、女性と少年が入ってこようとしている。女性は四十歳ほどで、少年は十歳ほどに見える。少年がちらっとこちらのほうを見たように思えて、慌てて目を逸らした。一瞬見ただけではあるが、少年が置物のように動かないことを確認してしまったために、私の内心が黒く波打った。彼は非常に無機的で、何を話しかけても応じてくれそうにない。それ以降私は窓の外側を見ないようにして自分の病室を見た。窓際からは温い風が吹き込んできて、意識を否が応でも外に向けようとするが、私はついにその気になれなかった。天井には比較的新しいライトが取り付けられている。この病院自体が新しく建てられたものであるため、自分の住んでいる安いワンルームなど思い返したくもないほどに整っていた。私の居心地を最も悪くしている最大の原因はその新しさのために空間を支配する静謐と神聖と均衡によってなる拒絶だった。視線を落とす。ドアは横にスライドさせて開けるらしく、新しく動かしやすいように見える。「お客さんですよ」ちょうどドアの向こうから看護師の声がして、スーツを着た男性が私の目の前に現れる。目にかかる黒い前髪の下から覗く瞳の色は赤銅色だった。硬い手からはトランクケースが均衡を欠いてぶら下がっている。私は彼をどこでも見たことがなかった。「あなたは?」男性は私の問いかけに答えず、淡々と話し始めた。「もしもここで私が両手を組んで信仰を拒絶した場合、私は両手を喪失するでしょうか?」「信仰のもたらす力が卓越するならそうでしょうね」彼は私の返事を聞いて、驚いたように私を見た。私は驚かれると思っていなかったので驚いた。彼は自分の持っていたトランクケースを開けた。口径の大きい拳銃が入っていた。真っ黒い死神がけたけたと笑い声を上げながら、昔からそこにいたかのように彼の掌の裏側に収まる。荘厳ともいえる動きで、男性は自分のこめかみに銃口を当てた。「私はつまり、そうであると信じていなくてはならないのです。信じなくなったということはつまり、私の存在を私自身が許してはならないということです」「あなたの言うことがその通りなら、そうでしょうね」私は告げた。病室の色合いに反して声があまりにも冷たいということに、自分でも驚いた。彼は何かに失望したようにふうっと息を吐いた。子どもが親にほしいものをねだって、どの手段も使い果たした時の表情を浮かべている。彼は引き金を引いた。すぐに絶命した。その顔はあまりに生々しく、まだ生きているように見えた。ベッドに縛り付けられたような態勢のまま、なんとかしてだらしない死体の手首に手を伸ばす。しかし手首の裏側から鳴き声は聞こえず、確実に死んでいる。私はナースコールを押すべきかどうか途方に暮れたが、どたどたと足音が聞こえて、その必要はなさそうだと悟った。看護師が銃声を聞いたらしく慌てて入ってきたが、目の前に倒れる男の屍を見て安堵したように表情を和らげた。「何が起きたかと思いましたよ」そう言って濡れた雑巾やアルコールの入った瓶を持ってくる。手際よく男の屍をブルーシートに包んで血が固まらないうちに拭い去る。私自身もなにか大層なことが起きたとは思えずに、その様子を焦点の合わない目で眺めていた。しかしそれ以降、あらゆる動くものが気になってなかなか落ち着かず、日が暮れて外に人影がなくなってもライトの周りを巡回する蠅が気になって目を閉ざすことができなかった。そのうち尿意に襲われて、立ち上がる理由が見つかったことに安堵するほどには、この冷静さを欠いた心境は私にとって好ましくなかった。ドアを開けて、お手洗いを探してあちこちを見回す。私には暗闇の中で正確な方向感覚を失うという特徴があった。視線を水平に動かしていると、夜の病院の廊下の奥に人影が見えた。緑色の床に反射する赤い回転するランプがその姿を点滅させる。今世が前世の余罪だとするならば、今見えているものは間違いなく来世だった。入院服を着た少年で、うつろな目でこちらを見ている。生気が感じられず、体を一つも動かさない。中庭が見える窓からは向かいの建物と夜の濃紺が迫っているようにも見える。外は重く硬直しているので、私は気圧されずにいられなかったが、それ以上におどろおどろしい少年が目の前にいて周りのことなどどうでもよかった。例えば眼前に悪霊の長が突如出現したとしても、ここまで全く無機的なものではないはずで、私もそれを恐れることはないはずだ。彼の左腕には点滴が刺さっていて、それを杖にして立っているように見える。挑戦的で涜神的な目つきで私を見る。細くて骨ばっていて、時折老人に見えた。私は黙ってお手洗いに行こうかとも思ったが、声をかけてみることにした。「君?何してるんだ」彼は答えなかった。「早く寝たほうがいい。夜も遅いんだ」動かない。私は諦めて用を足しに逆の方向へ歩き出した。暗かったが、お手洗いの入り口の光が柔らかく眩しかった。個室に入って少しの間臆病に悩まされてから外に出ると、廊下の先にはまだ少年が立っていた。外では風が吹いて木々が揺れている。何も見なかったことにして、私は自分の病室に戻った。腕の骨折はやや私の動きをのろまなものにしたが、足が折れているよりもきっとましだろうと思って気を鎮めた。気づけば私はひどく汗をかいていた。いつだったか、仕事中に酒を飲んだ時のことがなぜか思い返される。視界は丁度その時に似ている。寝転がったが寝付けなかった。あの少年の表情が何度も目をつぶるたびによぎった。やたらと空腹だった。そのせいか思考が方向性を失い、散漫になる。ナースコールのボタンを押すべきだろうか。いや、この程度の空腹なら耐えるべきで、人を呼ぶ必要はない。私が最も尽くさなければいけないのは、早く寝ることだ。やがて唾液も出なくなり、口の中は乾いて感覚を失い始めた。起きることに疲れて眠ってしまえるだろう。安心したとたん、外で誰かが叫ぶ声と大勢が駆け回る足音が聞こえ始めた。疎ましさを感じるより先に危機感に支配され、私はまた起きた。手が思うように動かせず、不審に思って両腕を見ると、金属のように重くなり、しかも錆び始めていた。そこからする臭いは金属の物でなく、有機物の腐敗した匂いだった。感覚がなくなってゆく。強烈な腐臭にもしかし取りうる手段はなく、とにかく逃げ出すことが大事だった。気づかないうちに眠っていたらしく、私はふらついて立ち上がり、ぼうっとする頭を横に勢いよく振った。意識をさらに追い立てるように、ドアをどんどんと叩く音がする。「誰か中にいるか!いたら廊下に出るな!窓から外に出ろ!」それ以外にも何か言葉を続けようとしていたらしかったが、悲鳴にすぐ変わって声は聞こえなくなった。気づけば枕元のライトも点かなくなっていた。非常用ベルの音が鳴り響いている。私は自分の部屋のドアをスライドさせて開けた。ここを叩いていたと思われる男性の下半身だけがドアに寄りかかっていた。上半身は内側から飛び散って、顔だったものは天井にへばりついてぼたぼたと落ちてくる。赤銅色の瞳が足元に転がった。卒倒しそうな光景にも何とか耐え、非常口のほうへ向かう。腐食が進んでいる。右腕は、骨折したところで腐食が止まっていたが、左腕は肘より上までゆっくりと黒くなっていた。痛みはないが、やけに重く感じる。目の前は赤く、奥は騒がしい。派手なな色が柔らかい色をどす黒く浸してゆく。少しの衝撃だけで、私の骨が見えるほどに肉がぼたぼたと崩れ落ちてゆく。骨は泥の色に腐って、しかももう二度と元に戻りそうもなかった。絶叫したような記憶があるが、本当に声が出ていたかわからない。視界も記憶も曖昧だった。他にもう人は少ないようで、大半は外に出て、病院内を駆け回っている人は少ない。記憶の底の血だまりが泡を吹きだすように、これまでの人生が紙くずのようにくしゃくしゃになって焼け焦げてゆく。よろめきながら廊下の一番奥にある非常口へ向かう。しかしそこに人影が見えた。お手洗いに言っていた時に見えた少年だった。あの時と同じで、まるで生きているように感じなかった。「先に外に出てくれ、私はそのあとに行く」少年は動かない。「頼む、私を通してくれ。それができないなら先に出て行ってくれ」私が怒鳴ると、少年は私に歩み寄ってきた。一歩を踏み出すごとに彼の背が大きくなり、顔つきは大人びたものになってゆく。八歩で私の目前に立ち、じっと目を見た。私よりも背が大きくなっていた。「外へ出て、どうするんです?」声は低く穏やかで、そして邪険で悪辣なものを感じ取らずにはいられなかった。私の背後で、瓦礫の崩れ落ちる音がした。窓からの炎が光を焼いて、彼の右頬を大きく照らした。その時初めて、彼の目が黄色で、髪が白いことに気づいた。そして私は目を覚ました。自分の腕が少し痛むことに安堵しながら日の光を浴びる。全身に汗が流れ、入院服に染みついていた。朝食を持ってきた女性の看護師が、私ににこにこと笑いかけて挨拶する。「昨日はなんだか妙な寝言をおっしゃっていましたけど、夢でも見たんですか?」どうも記憶が曖昧で思い出せないので、適当に返事をする。「はい。内容は思い出せませんが、どうせろくでもない夢ですよ」「そうですか。それじゃ、朝食を置いておきましたから、残さず食べてくださいね」私はぎこちない動きで朝食を食べ始めた。栄養状態にも問題があったというのは、入院してから知ったことだった。私は骨が折れているほうの手を見た。包帯が黒く汚れている。血で汚れていたというわけではなさそうだ。しかし腕には感覚があり、腐っているわけではなさそうだ。そこまで考えて、私はなぜ自分の腕が腐っているという馬鹿げた妄想が湧いて出たのか不審に思った。気にしないことにして、朝食を片付けてもらうために私はナースコールのボタンを押した。
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