逆光
俺は病室のベッドから、春の昼下がりの窓の外を漠然と眺めていた。俺の注意は散漫で、病院の前の庭で光をまき散らす噴水を見ていたはずが、気づけばそのさらに奥の広い道路を眺め、時間がもう少し経つと背の低い建物で埋められた地平線に目を向けていた。寝ている必要などないのに寝ている状態がひどく不愉快ではあったが、それも高校に行かない口実になると思うことでどうにか押し込めていた。噴水の辺りで、見舞い客が連れてきたと思われる子供たちが駆け回っている。俺がここにいる間、他の同級生たちは本番に近づいた運動会の練習で躍起になっているはずだ。運動会では学生の待機所としてテントが設けられることになっており、その準備係は決まって重労働を課せられるというので誰も進んでその任を担おうとせず、しびれを切らした担任の先生が黒板に出鱈目なあみだくじを用意した。運悪く外れを引いた俺がテントの準備を一任されたのが運の尽きだった。細身で誰にも腕相撲で勝ったことのない俺は、自分を鼓舞しながら息を切らして倉庫からテントの鉄骨を運び出して、近くの壁に立てかけておいた。俺自身も休もうと同じ壁にもたれかかると、鉄骨が俺のほうに倒れてきた。近くを通りかかった担任の先生の叫び声と俺の叫び声が、耳元で鉄骨のぶつかり合う音に搔き消された。鉄骨を受け止めようとした両腕は、今や添え木とともに分厚い包帯の下でひりひり泣いている。思い返して現状を理解しても、やはり俺が寝ている意味は皆無だと思った。俺のいる大部屋は賑やかだったが、俺に話しかけてくる者は一人もいない。俺のベッドだけが光にそそのかされて消えてしまい、見えていないのではないかと疑うほどに俺は孤独だった。激痛が走ったと泣き喚けば一人くらい振り向くだろうか、となんとなく考えていると、看護師に声をかけられた。蜃気楼が急激に質量を示したのでびくっと肩が跳ねてしまう。驚く俺に微笑みながら、看護師は「あなたに会いたいって人が来ましたよ」と告げた。わざわざ会いに来るような奇特な友人などいなかったので、どうせ担任の先生だろうと諦めていた。しかし、実際にスーツを着た担任の先生が俺の目の前に姿を見せると、諦めていたはずなのにげんなりした。「よう、腕はやっぱり痛むか」「はい」俺は思いのほか自分の返事が投げやりに聞こえたのに驚いた。先生の服装はいつもと変わらない。特に見舞いの花や食べ物を持ってきているわけではなく、いつも書類を入れてある鞄をぶら下げていた。「悪かったな、お前ひとりに全部任せようとしてしまって」「そうですね、本当に申し訳ないと思ってくださいね」軽口のつもりで俺がそういうと、先生は少し俯いて呟くように言葉を喉から押し出した。「ああ…そうだな。本当にそうだよ。」「冗談ですよ。断らなかった俺も悪いんですから」先生はそれを聞いて俺を見た。先生の眼鏡のふちで真っ白い光の塊が立ち止まる。俺から見て右側の眼鏡のレンズは、先生の穏やかな眼光を無残に押し殺していた。「今日は何の用で来たんですか」「連絡だよ。クラスの近況報告さ」鞄からフォルダを取り出しながら先生が微笑む。先生が読み上げる配布物は多いのに、運動会に向けて皆が頑張っている、くらいの情報しか得ることができそうになかった。俺にとって心配なのはこの骨折が今後の成績にどのように影響するかということだった。この鉛筆も持てない手では宿題に取り組むことはできない。「俺の宿題はどうなりますか」「宿題?まあ、その…何とかなるだろう。今はそれどころじゃないはずだ」先生はそう言ってごまかそうとする。視線も俺から逸れて窓の外を眺めている。「俺の両腕はきっとすぐ使えるようになりますよ。使えるようになったときに退屈したくないんですが」問い詰められると、ふうっと一つ息を吐いて困ったようにまた俺を見る。「君は勤勉だな」俺は勤勉とはお世辞にも言えないくらい勉強する機会を回避しようと日々思索を巡らせているのだが、それについては口に出さないことにして飲み込んだ。「今日はいつもよりもよく喋りますね。学校に戻らなくてもいいんですか」「そんなに私を追い返したいのかい?」「そういうわけではないんですが、ただ気になって」「いいんだよ。今日は私が何をしてもいいんだ」何してもいいなんてことあるのかと思いながら先生を見ていると、最初見た時よりも少し華奢になっている気がした。強い窓からの光で輪郭が失われているからそう見えるのかもしれない。「しかしここは暑いな。燃えてるみたいだよ」「俺はカーテンのおかげで暑くありませんよ。閉めても俺は別に構いません」先生はそれを聞いて、どこかほっとしたような表情を浮かべ、「いやいや、君がいいならそれでいいんだ」とカーテンを閉めなかった。「クラスはどうだ?楽しいか?」「面談ですか」「そういうわけじゃないが…骨に響くようなら答えなくていいんだ」「いえ、答えます」俺は俺のいるクラスをいいクラスだと思っていた。すぐにそう思ったが、すぐには口から出てこなかった。先生の目を見てしまったせいで答えることができない、という言葉が頭の中で直感を動力源としてめちゃくちゃに駆け回る。「いや、まあ…悪いクラスだとは思わないです。居心地もいいですし」「そうか、ならよかったよ」先生は面食らったように笑い、それが俺には違和感として刻まれた。目の前の男性が何を求めているのか俺は知らず、そもそも何を求めているのかを探り当てようとしている俺自身にも困惑した。砂の城を突き崩す波打ち際のように容赦無くさんざめく光が俺の心臓に訴えかけて警鐘を鳴らしていた。「いい仕事を選んだもんだ、私も」俺が向けた注意がつっと逸れる。「君みたいな生徒を教えることができて嬉しいよ」まるで遺言を残す腹づもりででもいるかのように、しみじみと先生が呟く。俺が抱え込んでいた危険性の予感が煮えたぎって爆ぜそうだ。「学校というのは大変なことも多いんだ。保護者からの電話に応じるのでも一苦労さ。冷や汗をかいて返事をつなげて、ようやく電話が終わったと思ったら今度は必要な書類が見当たらなくて机の周りをあくせくして探し回るんだ。周囲の視線と戦って立ち回り、安い給料を貰って死んだみたいに眠ることが多い」先生はこちらをまっすぐに見た。俺は思わず目を逸らしてしまうが、先生は気にしていない様子で言った。「それでも君のような生徒がいてくれるから、私も私として気持ちを保っていることができるんだ。感謝しているよ」「い、いえ。それは…どうも」下手な返事だ。気まずいだけでは説明のつかない不信感や憎悪がこの光に塗れたベッドの周りに漂っている。光が強すぎるがために浮き彫りになったとも言えるかもしれない。先生の表情には濃い影が浮かび上がっている。俺はテーブルの上に置いてあった水の入ったペットボトルを眺めた。ところが、それが先生に見られていたらしい。「どうした?水が飲みたいのか?」「あ、いや」「確かにな。これだけ強い光に照らされ続けたら喉も渇くだろうな」先生は一人で納得して、それ以外何もしなかった。俺にとってはありがたいことだった。口の裏側が痛かった。「そういえば、進路とか決まってるか?」ここにいるときの先生の質問はいつも唐突だった。「いえ。ちっとも決まってません」「早いうちに決めておいたほうがいいぞ。そうすれば色々と迷うようなこともなくて済むだろうからな。先生は何にも決めてなくて随分苦労したもんだ」「そうなんですか?そうは見えませんけど」「迷ってきたのさ、これでもな。今もどうすればいいのかわからないよ」声が今まで聞いたうちで一番弱々しく沈んでいた。細かい情緒の揺らぎに困惑しながら、俺は先生の小さな声が持つ言葉の意味に必死に耳を傾けた。「あることを決めたはいいんだが、どうにも決心がつかずにいる。最初から自分自身のことをはっきりと決めてさえいたら、こういうことで悩まなくとも済んだんだけどな」「教師を辞めるんですか」俺は疑問を喉奥から無理矢理にひねり出して遠慮もなくぶつけた。先生は驚いていた。少なくとも俺にはそういう風に見えた。「そうだとしたら、俺は先生に辞めて欲しくはないです」先生は顔を少し伏せて、自嘲気味に問いかけた。「君の腕をしばらくの間、使い物にならないようにしたのは、言ってしまえば俺にも責任がある。そんなやつが担任でも構わないか?」「…そんなことを言いはじめたら、俺の過失だっていくらでも問うことができるはずです。俺が注意してさえいたら、そもそも頑として引き受けなければこんなことにはならなかった。でもこういうことを言い始めるのは詭弁になると思います」先生は俺の言葉を熱心に聞いていた。やがて、一つ深く頷いた。「やっぱり君に私の悩みを見せてよかったよ。決心がついた」張り詰めた空気が徐々に溶けていく。俺は聞こえないように静かに少しずつ息を吐いた。俺と先生はそれから他愛もない話をして、最後には時間だと言われて先生が看護師に追い立てられ、忙しなく俺から離れた。翌日、朝がやってきて隣の老人たちが新聞を手にして騒ぎはじめた。いつものことだったので最初は気にしていなかったが、俺の学校の名前が新聞に載っていたのが聞こえて、横になったままで必死に聞き耳を立てていた。「校舎が全焼したらしいですよ。それも、すぐ近くですって。怖いこともあるもんですねえ」「夜に誰かが火をつけたらしいですよ。でも何にもわからないし、学校はこの件に関してまだ揉めているらしいって」「子供達はどうなるんですかねえ。しばらく勉強できないし、それにこの季節は運動会もあるんじゃないですか?」俺はもっと詳しい話を聞きたかったが、話がすぐに逸れて別の話題に移り変わる。仕方なく、俺は昼になるまで先生を待ち続けたが、先生は来なかった。
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