第7話 母

 少し落ち着いてから、大矢おおや聖矢せいやを寝室に連れて行った。


「ここで寝ていいから」


 ベッドはもちろん一台しかない。聖矢は大矢を見て、


「大矢さんは?」

「オレは、ソファで眠る」

「ダメです。僕が、ソファに行きます」

「いいから」


 聖矢がベッドに入ると、大矢は彼の頭を撫でた。もう、触られても嫌がる様子は見られない。


「おまえが寝付くまで、手、握ってるから。安心して眠りなさい」

「僕、寝つきが悪いですよ。ずっと眠れないかもしれません」

「それならそれでいいさ。どうせ、明日は会社を休むつもりだから。気にしなくていい」


 聖矢は、体を横たえた。大矢は、彼の右手を握った。


「こうしてるから。大丈夫だからな」

「大矢さん。どうして優しくしてくれるんですか?」


 聖矢の問いに、大矢は首を傾げて、


「何でかな。わからない。でも、しないでいられないんだ。そうだな。自己満足、とでも言えばいいのかな。ま、いいじゃないか。目を閉じなさい」


 言われるままに、聖矢は目を閉じた。そして、言った。


「大矢さんの手、あったかいです」


 クーラーが効いているとはいえ、夏だ。あったかい、は、不快ということだろうか。

 大矢が戸惑っていると、聖矢は、


「何だか、安心します」


 そう言って、すぐに付け足すように、「おやすみなさい」と言った。



しょうちゃん。湘ちゃん」


 どこからか、声が聞こえる。あれは、母の声だ。随分前に家を出て行って、それ以来会っていない。今は、どこで何をしているのだろう。


「湘ちゃん。湘ちゃん」


 周りを見回すが、どこにいるのかわからない。胸がざわついた。


「湘ちゃん。ここにいるわよ」


 母の声がすぐそばで聞こえて、その方に目をやると、母はすぐ隣に立っていた。さっきはそこにいなかったのに、と驚き、目を見開いた。


「母さん。久し振りだね。何年振りかな」


 母は微笑み、


「二十五年かしら。湘ちゃんが、十歳の頃だから」

「もう、そんなに経つのか。早いな」


 大矢も微笑んだ。が、母は急に顔を曇らせ、


「あの時は、ごめんね。でも、お母さん、ああするしかなかったの」

「親父が、会社人間だから、仕方なかったんだよな」


 同意を示したものの、そのそばから、何か押さえられない感情が沸き上がってきた。

 大矢は、気が付くと泣いていた。


「母さんはそれでいいかもしれないけど、オレは……。自分だけ良ければいいのかよ」


 言いたくないのに、後から後から母を詰る言葉が溢れ出てしまう。母は、大矢とともに涙を流しながら、「ごめんね。ごめんね」と、何度も言った。


 大矢は、それでも彼女にきつい言葉をぶつけていた。すると、彼女は大矢を強く抱きしめて、


「ごめんね、湘ちゃん」


 小さい子にするように、頭を撫でながら、繰り返し謝罪した後、母は、


「湘ちゃん。大好きだからね」


 抱き締められた温かさと大好きという言葉に、大矢は、傷ついた心が少しずつ癒されていくのを感じていた。



「大矢さん、大矢さん」


 聖矢に呼ばれて、大矢は、自分が眠っていたことに気が付いた。大矢は、夢の中と同じように泣いていた。頬が涙で濡れている。慌てて手の甲で拭うと、笑顔を作り、


「ごめん。眠ってたな。ソファに行こうと思ってたのに」


 窓から日が差し込んでいる。時計は、七時を指していた。


「大矢さん、あの……」


 きっと、涙に気が付いたのに違いない、と大矢は思ったが、


「聖矢。朝ごはんにしよう。悪いけど、朝はいつも、トーストと牛乳とハムエッグだからな」


 わざと明るい口調で言った。

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