奥座敷幻想譚

鈴ノ木 鈴ノ子

おくざしきげんそうたん


 今年も川床の時期がやってまいりました。

 京都の奥座敷と例えられる貴船にも数多くの観光客がお見えになられて、貴船様まで続く参道にも外国のバックパッカーの方や修学旅行生、そして一般の方々がお歩きになられています。

 私は毎年この時期になると、叔母が経営している貴船にある「妙盛館」という旅館の手伝いに入ることが多く、今年も川床が敷かれて暫くしてから手伝いに入りました。

 納涼床である川床はよく写真で紹介されます鴨川沿いの川床ではなく、貴船川の流れの上に櫓を建ててそこに床を敷いた作りとなっており、眼下と足元を程よく流れ駆け抜けていゆくとても粋な作りです。


「ゆうこさん」


 早朝、忙しなくされど静かに朝の支度とお客様への一通りの行事を済ませた私は、ふと、女将であり従姉妹の花園 黛はなぞの まゆさんに呼び止められました。40後半でありながらその美貌は少女の面影を残すほどに美しく、それでいてその着物姿は貴賓に溢れていて、見返り美人図の美人をそのまま現世に例えたのならば、彼女に当てはまるのではないかと思えるほどの容姿端麗な方です。私には到底、血縁関係があるとも思えぬほどなのですが、黛さんからはもっと磨きなさいなと怒られるばかりです。内面もそれは勉強家でいわゆる外嫁なのにも関わらず、地域に馴染み左方に馴染み、そして歴史文化に造詣の深い方でもありました。


「こちらを川床の7番席に置いておいてくださいな」


 それはこじんまりとした「予約札」でした。木製でできたその札を丁寧に手渡されて、私は彼女の手元にあるであろう予約台帳をこっそりと覗き見しました。7番と振られたタイムスケジュールの欄にはお客様の名前もそして時間の区切りもなく、ただ一言「織姫と彦星」と彼女の達筆な字でそう書かれていました。七夕はとうにすぎていましたから、そこからの引用ではなく、また、決まってこの日であったのを思い出しました。


「分かりました。お出ししておきます」


 玄関先でつっかけを履いて、ふと、予約札の底に当たる部分を目にした時でした。


『流るる想い、我は忘れじ』


  黛さんの筆跡ではなく、それは大女将で今は病気療養のために入院されている美琴さんの、達筆な筆使いの筆跡であることはすぐに分かりました。毎年届く年賀状は一枚一枚書き添える美琴さんの文字は楽しみの一つでもあるのです。でも、その筆跡は、いつもと違い、どことなく、優しく、それでいて一心を込めたような気持ちにされるものでした。

 その書かれた意味を立ち止まって考えてしまっていた私の元へといつの間にか黛さん寄ってこられました。


「ふふ、優しい字でしょ」


「はい」


 同じように覗き込んだ黛さんの横顔は観音様のように優しく、思わず私もどきりとしてしまうほどです。


「おーい、黛、そろそろ準備を・・・」


 奥から出てこられたご主人さんの涼介さんが、そう声をかけながらこちらを見やったのですが、この予約札が目に入ったのか言葉をそこで切られました。


「札だしかいな、丁重に、時間は気にせんでええからな」


 そう言って涼介さんは慌ただしく戻っていかれます。

 いつの間にか静寂が漂っていました。時計の針が時を刻む音、目の前の貴船川の川の流れる音、いつもならたまに聞こえてくる厨房からの音や声が寝静まってしまったかのように途切れて、自然の音以外は全くこえなくなってしまったように感じるのでした。


「一緒に行こうか・・・」


 そう言って黛さんは私の手から予約札を受け取ると、重箱に入った宝物でも扱うかのように丁重に両手で持ち上げます。私は慌てて玄関扉を音を立てながら開けると、外を履いていた唯爺さんが怪訝そうな顔でこちらを見たのちに、黛さんが両手で持っている予約札を見て目を丸くしています。


「いってらっしゃいませ」


 床に箒を置いて両手を前で組み、まるでお客様がお越しになられた時のような仕草で、一礼した唯爺は川床と旅館を遮るようにある道の両橋を見てから、そこをお客様が通るかのように手を出して道を止めました。そして川床の入り口までご案内するかのように入り口までを着いてゆきます。

 川床までは石畳の階段となっており、手慣れた従業員でさえも滑って転ぶことも多々あるのですが、黛さんは一歩一歩を優しい足捌きで降りながら、滑れぬように落とさぬように、そして揺らさぬように降りてゆきます。

 毎朝、準備と掃き掃除をしてくれていく唯爺の奥様である陽子さんが、箒で履いている最中にこちらに気がつくと、唯爺と同じようにこちらへと深々と頭を下げました。そして頭を上げると着物を素早く整えてこちらへと足速に近づいてきます。


「ご案内いたします」


 黛さんは何も言わずそのまま陽子さんがご案内する席へとその札を持って着いていきます。

 案内された川床は川上の端側で、景色もよく、流れもよい、特等席と行っても良い席でした。1畳ほどの木製テーブルの両側に井草の座布団が相対するように敷かれており、さながら、カップルシートのようでもありました。


「こちらでございます」


 陽子さんが右手でお席をご案内すると黛さんはその机の端へと予約札をそっと置いてから、その場に正座で座り直すと軽く一礼をして、そして、口を開きました。


「今日もまたお越しくださいましたこと、心よりお礼申し上げます。ごっくりお寛ぎくださいませ」


 そう言って再び一礼した彼女は再び表を上げると、私の方に視線をうつしました。その目には少し涙が宿っており、美しい目の潤みが緑の紅葉の合間から差し込む日の光にキラキラと輝いております。しばらくして側を立って旅館へと戻る道すがらに黛さんが私に声をかけてきました。


「不思議なことしてると思ってるでしょ?」


「えっと・・・はい」


 受け取った予約札、ただの予約札であるはずなのに、それでいて、なぜあそこまで全員が礼を尽くしているのかの意味がわからず、私はその問いに頷きました。


「あの札の席にはね、織姫と彦星がお掛けになるのよ」


「織姫と彦星ですか?あの、天の川のですか?」


「ふふ、そうね、それに近しいわ」


 予約台帳に書かれた言葉をそのまま言った黛さんは、やがてそう言うとことの顛末を話し始めました。



  12年前の夏の日のことだった。

 炎昼に植物も人も建物も晒されて、京都の奥座敷として涼しいはずの貴船でさえも暑さが堪える日であった。帳場で予約の確認と大女将さんから教えていただいた内容を少しの時間でも復習しようと立っていた黛は入り口から1組の男女が入ってくるのに気がついた。


「あの」


 声をかけるより先に少年から声がかかった。

 中学生くらいの背丈の色白の少年と色白の少女が遠慮がちに立っていた。

 凛々しい顔つきに優しい目をした少年と、可愛らしい顔立ちと素敵な丈の長い長袖のワンピースの装いをした少女であった。


「川床で食事だけでも過ごすことはできますか?」


 地元の子ではないけれど、京都市内の子でもない、何より標準語のイントネーションが外から嫁に入った黛には東京の子のように感じられて、関東出身の黛は思わず練習中の方言を忘れていつも通りに返事をしてしまった。


「ええ、大丈夫ですよ」


「よかった。大丈夫だって」


 嬉しそうに笑う2人に若々しさを感じて、少し羨ましくなりながら、帳場を離れて自ら川床へど案内した。せっかくのデートなのだろうし、この時期に珍しく川床はがらんとしていたので、一番良い席を案内した。


「ようこそ、お越しくださいました」


 黛がご案内すると川床の仕切り役であり教育係の陽子さんが少し怪訝そうな顔をしたが、客前と言うことですぐに笑顔に戻り、おしぼりと冷えた緑茶を差し出して、一礼して下がってゆく。


「あの、常温のお水をいただけますか?織子おりこは胃腸が悪くてあまり冷えたものは難しくて・・・」


「あら、すぐにご用意しますね」


 黛が足速に水を汲みに戻り、そして差し替えをすると彼女が深々と頭を下げて礼を言った。どことなく、浮世離れしている2人に興味が湧いてそして注文を直に頂いた。お小遣いでギリギリかもしれない値段だが、温かいおうどんを2つとデザートの和菓子の注文をお受けして、黛は厨房にいる旦那の元へと足速に向かった。

 厨房で夜の仕込みをしていた涼介に今先ほど書き留めてきたメニューを見せると怪訝そうな顔をしながらも優しく笑った。ここのところ忙しさもあって妻の笑顔を見る機会が失われていたのに、今の黛は素敵な笑顔を見せていた。


「どないした?」


「若いカップルさんなんだけど・・・女の子が胃腸が弱いらしいの」


 厨房上に昨年設置した旅館内部の食堂スペースと川床を見ることができるカメラ映像が映し出された画面に1組男女が座っているのが見えた。


「かわいらしなぁ・・・」


 ふと、そんな声が漏れた。その姿2人の姿に何故か目を離すことができなかった。


「ええよ、わてが準備するさかい、大女将にもワテから言っとくから、相手しとき」


 口をついてそんな言葉が自然と出た、久々の妻の笑顔にもほだされたのかもしれないが、それを聞いて嬉しそうになる黛に心の中でほっと一息つきながら、仕込みを若衆に指示をして任せると、自ら鍋を取って支度を始める。嬉しそうに微笑む妻を手で払うように、自らの恥ずかしさを払うように、して追い払うと、厨房に流れる微妙な雰囲気をひと睨みで落ち着かせて、そして黙々と涼介は黙々と調理に入っていった。


「おそうなりました。お待たせしてすみません」


 黛が楽しそうに話をしている間に仕上げたうどんを自ら運んできた涼介は、ゆっくりとおうどんの入ったお椀を2人の前に置いた。胃腸が弱いと聞いた彼女のために柔らかめに煮たうどんを差し出した。お水は常温のものが用意されて卓上に置かれている。


「では、ごゆっくりどうぞ」


 夫婦2人で久しぶりにお客様の前から一礼して立ち上がり、その道すがら歩きながら黛をみる。どことなく嬉しそうに微笑む妻に涼介も嬉しくなった。


「どことなし、不思議なお客さんやな」


「お互いに病気で入院して退院したら一緒にで出かけようって約束をしていたんですって、ようやく遠出の許可が降りたから京都にきたそうよ」


「そら、よかったな」


「鞍馬様回って、貴船さまで拝んで、ウチに寄ってくれたんですって、川床でご飯を頂きたかったしいわ。稼げるようになったらしっかり食べにきますって言ってくれた」


「そら立派な男やな、うちも負けんと頑張らな」


 その言葉を聞いて涼介がグッと拳に力を込めた。


「私もきばらんと・・・」


 少し唇を噛み締めた黛に涼介はそっと囁いた。

 

「無理はしすぎるな。旅館も大事だけど、それ以上にお前が大事なんだからな」


 久しく使っていなかった標準語を聞き、そしてその内容に驚いた黛が顔を綻ばせて真っ赤な顔をした涼介を見ると、頬を掻きながらも涼介が黛の目を見つめしっかりと頷いた。


 2年、3年、4年と月日が流れる度に、夏のこの時期に毎年の約束のように2人は来てくれた。

 3年目には受験が終わって2人とも高校生になり、お揃いの学校の制服で写る写真を見せてくれた。体調が良くなったおかげて、うどん以外の注文を受けたが、彼らが必ず最後に食べ、後にお持ち帰りされるのが和菓子だった。家族さんへお土産にされるそうで、洛北にある老舗の和菓子屋さんより納めていただいている錦玉「夢鉢」をお買い上げになる。夢鉢は水色の中に紅金魚が2匹、そしてその上に入道雲の白の色付いた羊羹を透明な錦玉で包みお鉢のようなカップに入った涼しさの漂うお菓子であった。

 仲睦まじい2人に、私たち夫婦、そして情に弱い大女将もその姿をみて、酷暑の中に清々しい涼を分けて頂くように感じでいた。


 だが、5年目の夏、青年に差し掛かった彼だけが旅館に姿を見せた。

 いつも通りの挨拶でお迎えしようとした黛は、その姿に、その表情に、そして手に小さな写真立てを持っているのを見て言葉を詰まらせた。


「1人だけでも大丈夫でしょうか?」


「・・・はい」


 その一言で全てを察してしまう。そう、別れがあったのだ、永遠とわの別れが。


 黛の案内で空いていたいつもの席にご案内して、水を汲みに厨房へと戻った。

 お客様用のコップを手に取って、この日のために夏になると湧き水を沸かして取り置いてあるやかんへと手を伸ばす。


「あ、もう、いらないのかな・・・」

 

 口走ってそう考えてしまう。

 震える手がやかんの注ぎ口をコップに当てて音を立てた時、涼介が異変を察知して駆け寄った。


「どないしたんや?」


 黛の血の気の引いた顔に驚いた顔を見せながら涼介はヤカンを取り上げた。

 いつの間にか涙が流れた。それは着物の襟元へとポトリと落ちて色を変えた染みを作った。涼介が慌てて近くにあったティッシュで涙を拭きながら、厨房の画面を見てそのティッシュを落とす。卓上に写真たてと思われるものが置かれているのが目に入ったのだった。


「お亡くなりにならはったんか・・・」


「わかんない・・・、でも、写真たて持ってた・・・。去年の時は、最後の手術があるって言っていたから・・・」


「せやったな・・・」


 その時だった。厨房に大女将の美琴が入ってくると、黛を叱るでもなしに涼介が取り上げていたやかんをこちらへ差し出すように手を出した。美琴はゆっくりとコップへと水を注ぐとお盆へと置き、彼のお茶を入れ終え、それをお盆に揃うように起き、おしぼりを二つの載せる。

 そして無言で目配せをして黛を呼ぶと一緒に川床へと歩き始めた。


「あんさん、ええことしましたな」


「え?」


  そうとだけぼそりと言って2人揃って彼の座るお席へとご挨拶に伺ったのだった。大女将は一通りの挨拶をこなしてから、黛に盆に置かれたお茶とお水を配膳するように目配せする。黛はいつものように彼に前にお茶を、いつも彼女が座っていた席にお水を置くと、大女将が小声で彼と会話をして写真たてをその水の横へ置いた。

 まるでいつも通りに2人が座っているように。

 彼の顔に一筋の涙が流れたのが見えた、それを拭いながら彼はおうどんと和菓子を遠慮がちに1人分だけ注文した。

 

「かしこまりました」


 大女将は伝票に書くこともなく、しっかりと頷き、そして深々と頭を下げると厨房へと歩みを向ける。その背中を見た時少しだけ震えているように黛には見えた。石段を登っていくと、悲壮な顔を客から見えぬように隠して目元を拭う陽子さんが見え、どうをを横切る時には俯いて店側を向いている唯爺がいた。


「おうどん2つな、涼介、あんたが作り、わかっとるやろ」


「わ、わかった」

 

 厨房に入るとそう短く言って美琴は普段は閉めることのない扉を閉めて事務所へと入っていった。

 若衆に仕込みを任せて再び涼介が1からうどんを作ってゆく、そして作り終わりお椀へと盛り付けると黛の耳元で囁いた。


「お出しする時にな、少し塩辛いかもしれません、堪忍してください。というてくれ」


「うん・・・」


 そう言って私が厨房を出る時、手拭いで目元を拭い立ち尽くす涼介の姿が見えた。

 おうどんをお並べしてそしてごゆっくりとして頂き、和菓子もお出ししてご賞味頂いた。彼は食べ終わった後もしばらく動くことができなかったけれど、やがて、ゆっくりと立ち上がるとお席を離れていつも通りに帳場へと姿を見せた。


「和菓子、ご用意しております・・・・」


 黛は数を聞こうとして言葉が詰まる。

 彼に問うのが酷だと思えるほどに彼はどこか夏から置いていかれた青年のような雰囲気を纏っていった。

 奥から美琴が姿を再び見せると、いつもの通りに手早く和菓子を包み、そしてお土産用の紙袋へと入れてゆく。


「いつも通りでございます。どうぞ、お持ちください」


「あ、ありがとうございます」


 美琴はそう言って多少強引ではあったけれど、彼に紙袋を握らせると、1人分の会計と1人分のお菓子代を頂くように黛に指示をして、再び一礼をしてから電話の鳴る事務所へと足速に戻っていった。


「ご馳走様でした。また、来ます」


 彼が少し笑みを溢してそう言って帰っていくのを黛は頭を下げて見送ったのだった。帰りの背中はどことなく嬉しそうな足取りに見えたのは見間違いではないだろう。


 再び、夏が来た。

 あれから時期を過ぎても彼は来なかった。

 外国人旅行客が増えたこともあって、大忙しとなった旅館で慌ただしく時は過ぎてゆき、夏が終わりかけ、川床も終わりを迎える頃のことだった。60代の夫婦が入り口から唯爺に案内されて入ってきた。


「毎年の川床のお客様で御座います」


「は、はい」


 帳場で黛は戸惑ってしまった。川床のお客様は通常はお席へ案内する事となっているので、特にこちらに連れてくる必要などない。だが、毎年のと聞いて黛はすぐに意識を切り替えた。


「ようこそ、おこしやす」


 慣れてきた京都弁でご挨拶をすると、男性が口を開いた。


「息子が大変世話になったと申しておりまして、できたら伺おうと来させて頂きました。遅い時間ですが、頂くことは可能でしょうか?」


「ええ、すぐにご用意致します」


 帳場を別の者に頼み、2人を案内してゆっくりと川床のお席まで案内してゆく、2人は辺りを見回しながらその景色を目に焼き付けているかのように見えた。いつもの彼と彼女が座っていた席は唯爺から聞いていた洋子さんが綺麗に調えてくださっていた。

 お座りになられた2人は少し俯き加減であったが、やがて、女性が口を開いた。


「息子と彼女はどんな感じで過ごしていましたか?」


 彼の父親と母親であることは間違いないだろう。

 黛はお越し頂いた日々をゆっくりと丁寧にお話しした。

 最初のお越しくださった日から、お一人でお越しなられた日までを事細かにお話ししてゆくと、父親と母親は悲しむではなく嬉しそうにその話をお聞きくださった。お二人が注文されたものもおうどんであった。

 黛もまた、彼と彼女のことを伺う機会を得た。

 彼と彼女は難治性の病気に罹患しており、手術で進行を食い止めたとはいえ、いつ再発するかもしれない病であったこと。そして治療法がようやく確立して進行の早かった彼女が先に手術を受けたこと、手術は成功に終わったが、予後に感染症に感染し体力の弱っていた彼女の命を奪ってしまったこと。そして、彼もまた、彼女と同手術を受けて成功し、頑張って生を謳歌しようとして矢先に、交通事故で不慮の死を遂げてしまったこと。

 彼が彼女の写真を持ってここにきたことも、別れが寂しくてなどという考えではなかったこと。彼女の家が母子家庭であり、身寄りもなく彼女が亡くなって数日後に心労の祟った母親もまた亡くなってしまっていた。遺骨は行政によって無縁仏として処理され、そして彼女の遺骨も同様に扱われてしまった。親族は誰もいない、だから、誰も思い出してはくれない、弔ってもくれない、それを聞いた時、彼は若い身で彼女を弔い続け、一緒に居続けることを選んだのだそうだ。治療法が確立しても何%かの確立で再発もあり得ることも背中を押したのかもしれない。

 父親母親ともに、社会的地位の高い方であり、息子さんが亡くなってからは、海外の仕事を増やして、寂しさから逃れるように仕事をする毎日であったが、そして、ふと、毎年、和菓子をお土産に帰宅してくる息子を思い出して、和菓子屋を頼りにここへと辿り着いたとのことであった。

 暖かいおうどんを2人は頂いてる間に黛は和菓子がもう時期外れで手に入れられないことに気がついた。涼介も思い当たらなかったようで慌てていると店の前に保冷箱をつけた軽トラックが止まった。


『和菓子屋 北吉』


 あの和菓子を納めてくれている洛北の老舗和菓子店だった。

 助手席から降りてきたのは、いつもの修行中の若衆ではなく、滅多に店から出ることのない店主の要吉で後部の保冷ボックスから大きな菓子箱を取り出すと店中へと入ってきた。


「大女将、いてはる?」


「は、はい」


 事務所へと黛が駆け込むとメガネをかけて伝票の入力をしていた美琴が立ち上がって颯爽と玄関先まで出ていく。


「どちらにおこしです?」


「下の川床にいらっしゃいます、いきましょか」


「うん、おい、上いって車回しておけ」


 運転手のいつも配達に来てくれる若衆が頷いて車を出していった。

 大女将と和菓子屋の主人は連れ立って石段を降りてゆき、夫婦のそばへと進み出ると丁重に何かを話し始めた。しばらくすると母親がハンカチで顔を抑えて泣いているのが厨房の画面で涼介と黛に見えたのだった。


 毎年、時期はずれになるとお二人はお休みを合わせて連れ立ってお越しになられるようになった。


 そして夏の時期になると、一筆のお願いと振り込みがあるのだそうだ。

 お振込については何度断ってもきちんと振り込まれており、お二人も時期はずれに連れ立ってお越しになられることからこの行事を妙盛館では続けていた。仲睦まじく過ごしていた2人がこの時期だけでも、ここでゆっくりと過ごしてもらうようにとの計らいで大女将は続けており、そして、北吉からは納品とは別に 二つの「夢鉢」が届けられてくる。


「そんなことがあったんですね」


「そうや、ええ話やろ」


 黛さんはそう言って笑みを浮かべました。


「それとね、織姫と彦星さんを名付けはったんは、北吉のご主人よ」


「え、そうなんですか?」


 彼は芳彦、彼女は織子、という名前であって、それを耳にした主人がそう名付けると、自らが作った夢鉢を2人のために用意してくれているとのことであった。


「帳場の横に写真が一枚掛けてあるの覚えてる?」


「はい、この川床、写した写真ですよね」


「あとでみてごらんなさい。怖かったら見るのを辞めたらいいわ」


 そう言われてから、気にはなったものの、その後は怒涛の1日を過ごして行きました。

 お昼頃には黛さんがおうどんの入ったお椀を持って厨房を出て行かれるのを目にしました。厨房ではその後ろ姿に深々と頭を下げた料理人達と涼介さんがいらっしゃいます。

 そして束の間の休息の時間に帳場の横に掛かっている写真を目にしました。


 そこには、仲睦まじく座る芳彦さんと織子さんと思われる2人が川床の席に腰掛けています。

 あの初めてお越しくださった頃の容姿のままに、お出しされたお椀のおうどんも和菓子も綺麗にお食べ頂いて、こちらを向いてお辞儀をするように、まるで「ありがとうございます」と言ってくださっているような笑顔を浮かべておりました。


 日付は2年前、それはたまたまのその日に訪れていた写真家さんが撮影された一枚なのだそうです。


 お二人は今もここに通ってくださっています。


 それは、妙盛館の決して忘れることのないお話でございます。


 貴船の道は一途な恋の道、みなさまも一度、訪れてみてはいかがでしょうか?


 お待ち申し上げておりますね。

 

 

 

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奥座敷幻想譚 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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