第8話 Kiss・Death


「あら、どうしたの? 強欲さん。急に黙ってーー……あら……」



 次に様子がおかしくなったのは豊満な身体をした金髪の美女。頬を染め、血海を見つめる。



「ヒッ、おい、マダム、やめてくれ。どうして私を見て急に黙るんだ? そのまま落ち着いて、そこの若いイケメンの男を愛でていてくれ」



「……あらあら、まあまあ。紳士さん……あなた、凄いわね……フフ、数百年ぶりかも、こんなに、唆る香り……」



 ぺろり。真っ赤な舌が、艶かしく動く。



「……は? どうしたの? ステラまでそん、な……え? なに、この香り……夜よりも透明で、闇よりも濃くて、湖よりも深い……ふひ」


 ダウナーな長い黒髪の少女もまた、千海を見て固まる。



「おい、おいおいおいおい、大人しそうな奴が開き直るとロクなことがないと言うが、君はまさにそれか? やめてくれ、おい、その眼を、やめろ」



「ちょっと! みんな急にどうしたのよ! ふん、そんなみすぼらしい中年男に欲情するなんて! 7つの貴血として、恥ずか……しい……嘘でしょ、なにこの香り……こんなの、嗅いだこともない」


 吊り目ツインテの勝ち気な印象の少女もまた、一気にトロンとした視線を千海に注ぐ。



「そうだ、お嬢さん、君は正しい。私はなんの変哲もないただのみすぼらしい35歳独身の社畜だ。趣味だって、行けもしない旅行の予定を立てることと、刀剣鑑賞くらいしかないしがない男だ。だから、そんな即落ちするな。やめろ、私を見て涎を垂らすんじゃあない!」




「えー、えー? め、めんどいよー、みんな! どしたの? ちょ、ほんとに目の色変わってんじゃん! まるで初めて獲物を見かけたよう、……な。ーーほんとに、美味しそうだね。……めんどくさく、ないなあ」



 終始ダルそうにしていた白髪フードの少女もまた、千海を見て固まった。とろり、その小さな口元から溢れるのは透明な涎。



「いやいやいやいや、君はさっきから気怠げにしていたな。それでいい、そのままでいいんだ。普段から怠惰にしている奴がいきなりやる気を出すことはないんだ」




「あなた、本当に不思議な人間ですね……この香り……ありえないほどに、美味しそうだ」


 銀髪の少女、最も千海と接近している彼女に至っては本当に良くない顔をしている。


 頬を赤らめ、自分の体をなんども摩り、息を荒く、よだれを垂らす。



 発情。


 それが最も相応しい姿で。



「おい、待て、近寄るな、話し合おう。牙を見せるな! よだれを垂らすな! 赤い顔をするな! なんなんだ! 誰か、誰か、説明しろ!



 千海の心の限界は近い。


 腹を刺されて死んだ実感、そのあとすぐに起きた異常事態。


 状況に流されっぱなしなのも無理はない。千海立人は至って普通の特段変わった経歴もない一般人なのだから。




「ここは、どこで! お前らは誰で! 私は何に巻き込まれているんだ!」




「くひひ」



 喚く千海を、銀髪ボーイッシュが目を細めて見つめる。



「ここは、僕の城。強欲の吸血鬼、レイト・ヴァン・ウェステンラの城です」


 その目つきは、意地の悪い猫がおもちゃを見つけた時のように。



「僕たちは、吸血鬼。生まれながらの狩人にして夜の貴族、高位の種族。人間は僕たちの贄。餌、愛玩、そして、食料」



 ぺろり。彼女のピンク色の舌が薄い唇をなぞる。ぞくり、千海の本能が身体を引き攣らせる。



「僕が、何を言いたいかわかりますよね。くひひ」



「あ、ああ、……ダメだ、説明されても何もわからん」



「くひひ、ああ、あなたは賢い人ですね。わからないことを分からないと言えるのは本当に素晴らしいことですよ」



「何が、言いたい?」



 嫌な予感しかしない。まずい、本当にまずい。何がとは言えないが、この状況は宜しくない。


 千海が何か言葉を繰り出そうとしているよりも先に、最も聞きたくない最悪の言葉が銀髪ボーイッシュからーー。


「ああ、簡単なことです。貴方、とても美味しそうですね」



「……最悪の逆ナンパだな」



「お兄さん、貴方を味見させて頂きますね」



 銀髪ボーイッシュが千海に手を伸ばしてーー。



「あ、れ?」


「は?」



 ぶりん。


 銀髪ボーイッシュ女が、縦に真っ二つに。血は流れない。赤い宝石のような煌めきが、空気に舞って。



「……妬ましい、ガタガタうるさいな、強欲。それは私の血袋だ」




「お、や、じえら、しー。これは珍しい、です、ね」



 べちゃ。


 銀髪ボーイッシュの真上から降り降りた黒色の大槍が、その身体を二つに裂いた。



「は?」



「人間、飲ませて」


 また、空中をふわりとあたりまえに飛んできた吸血鬼、ダウナーな印象の黒髪の少女が千海に手を伸ばして。


「な、に! 同胞に手を出してんのよ! 根暗バカ!!」



「げ、ふ」



 次の瞬間、黒髪ダウナーが吹き飛ぶ。殴り飛ばされたのだ、赤い髪のツインテールの少女に。



「は? は?」



「あら、それは貴女も同じじゃない。憤怒さん」



「おっと、めんどくさいけど、スーラに手を出すのはだめですね!」




 そして脇では、赤髪ツインテに殺意を向ける金髪美女を、白髪フードが立ち塞がる形で止めている。



 なんだこれ。



「妬ましい、妬ましい。憤怒、怠惰。同胞など笑わせるな、この半端者を私はまだ、認めていない」



「そういうのが器が小さいのよ! 若い吸血鬼が、私たちに礼儀を示すためにこの晩餐会を開いた! そういう筋を通した者に対してこれが! 年長の態度なのかって聞いてんのよ!」



「まあ、スーラ。怖いわ。たしかに貴女の言う通りよ。でも、憤怒の貴女? 年長の吸血鬼であるならば、自分の怒りを相手のせいにしてはダメよ?」




「はあ? 意味わからないんだけど!」


 この世のものとも思えない宝石のような美しさの生物たちが剣呑な雰囲気を纏いながら互いに睨み合っている。



「妬ましいなあ、……偉そうなことを言うなら、その涎を拭いてから言いなよ」



 黒髪の少女が赤髪ツインテの少女を指差す。



「え、じゅる」


「あー、めんどくさ。じゅるり」


「ふふ、じゅる」


「……あは。妬ましいなあ、7つの貴血がまさか、食料に魅了されるなんて、ね。じゅるり」


 ヨダレ。とろ、さら。


 全員が、またその本能に響く良い匂いの方を向いてーー。




「おい、待て。頼むから今の調子で争いあっててくれないか?」


「「「「……」」」」


 頬を紅潮させた彼女たちが、全員無言で涎を垂らして千海を見つめる。



 雌ライオンに囲まれたフェレットとはこのような気分なのだろう。千海はもう思考すら自分のものとして扱えない。



「ねえ、キミーー」



 白髪フードが、千海に声をかけたその時。




「何をしているんだ? 吸血鬼の人たち」



 空から、いや、馬鹿みたいに高い位置にある天井から降りかかる声。



 その声を、千海は知っている。



 見上げる、いる。空飛ぶアメフラシ、いや、ウミウシと一緒に彼女の月灯のような髪の毛がそよぐ。



 トルテと名乗った吸血鬼。




「……暴食」



「チッ、めんどくさいのが出てきたわね」



 吸血鬼達が忌々しそうに舌打ちする。




「お姉様が、なんで殺されてるんだ? なんで、お姉様の晩餐会にまじめに参加してないんだ? なぜだ?」



「めんどくさい子、ほんとに」


 ふよふよと浮かぶウミウシとトルテが、ふうっと息を吐いてーー。




「ああ、そうか、君たちは悪い吸血鬼なんだな。……じゃあ、いいか」



 すうっと、こちらを吸血鬼達をトルテが一瞥する。


 それが合図だった。



 まず始めに、赤髪ツインテの左腕が斬り飛ばされた。トルテが一瞥するだけで。



「ッ」


「スーラ!!」


 白髪フードがツインテの斬り飛ばされた腕をキャッチ、瞬時にそれを肩口へとくっつける。




「……化け物」



「あら、クスクスクス。やはり、今代の暴食も、私たちへのカウンターなのね」



 黒髪の少女と金髪の美女がその様子を眺めてつぶやく。


「チッ、新月か。傲慢なしで、暴食は分が悪いわね。あの化け物とは取り決めもない。嫉妬! アンタが強欲を殺すからこんなことになんのよ! 責任取りなさいよ!」



「……うるさいな。妬ましい、自分のその怒りが常に誰かに聞き入れられるのが当たり前だと思う心が妬ましい。でも、まあ、それもそうか」



 腕を繋ぎ合わせた赤髪ツインテが、舌打ちしながらトルテを睨み、そして黒髪の少女へ怒鳴る。



 どんな猛獣ですらその目を向けられれば逃げ出すであろう、そんな目つき。




「君たち、悪い吸血鬼は、食べちゃうぞ」




 どろり。


 ウミウシ、確か名前はシア。それが触手を広げる。まるでトルテに差す後光のように部屋中にそれが伸びていく。



 ちらり。トルテの吸血鬼にしては小さな牙、そして真っ赤な舌が除いて。




「「「「やってみろ、化け物」」」」






 それを向かい打つ貴血達。



 あっという間に広間は、地獄と化す。高位の種族達、夜の貴族に許された暴力が吹き荒れる。



 白い触手が吸血鬼達を絡め取ろうと蠢く。



 赤髪ツインテの炎がそれを焼く。白髪フードの矢がそれを貫く。黒髪の少女の槍がそれを縫い止める、金髪美女の大鎌がそれを刈り取る。



「あはは、はははははは! お腹、お腹、お腹が空くなあ! うん! いいぞ! 運動の後はお腹が空くんだ! 人間さんをたくさん食べた吸血鬼さん! きっとすごく美味しいんだろうなあ!」



「この、呪われた忌み子め!」



 吸血鬼大戦、まるでこの大広間は最初からそれを前提に作られたかのように広い。



 壁に、天井に、縦横無尽に重力など知らぬとばかりに暴れる彼女たち。その圧倒的な暴力に血の贄と化した人間たちがどんどん巻き込まれて血の煙か、ミンチへと変わっていく。






「……悪夢だ、だが、これで今のうちに。ここから離れなければ……」



 唯一、吸血鬼に魅了されていない千海だけがこの場から離れるという決断ができた。



 息を潜めて、その場から離れる、一歩、2歩。



 そして、一気に駆け出す!



 吸血鬼たちは殺し合いに夢中らしい。千海には気づかない。



 すぐに、あの大扉のところまでたどり着き。



「よし、この扉、これで……え?」



 ずぷ。


 嫌な音がした。痛みは、ない。でも、体の真ん中、胴体、お腹に違和感が。



 ヘソの辺りから何かが生えている。赤黒く、血だらけの何か。




「ああ、あなたは本当にいい香りがしますねね」




「あ、え?」


 ずぷん。


 腹から生えていた何かが、消える。違う、引き抜かれた。


 痛みがないからすぐには気づかなかった。背後から、銀髪ボーイッシュの女の手に貫かれていたことを。



「な、んで。まっぷ、たつに……あ」


 言いながら、思い出す。自分が首を斬り取ったのに平気で笑っていたあの男たちを。


 再生、したのだ。


 それは夜の貴族。不死の種族。




 銀髪ボーイッシュが、ぺろり。千海の血で赤黒く染まる指を舐めて。



 赤い瞳を剥き出しに。




「ああ、ああ! ああああおかあああ!! 夜よりも透明で! 炎よりも濃く! 血よりも赤い! 想像通り、いやそれ以上の美味! 直接口で食べたい!」




 半ば悲鳴にも似た歓喜の声。そして、夜の霧よりも静謐に、夜の嵐の風よりも速く、千海立人に抱きつく。




「あ、ぎ」



 みし。身体が、鳴る。クマにハグでもされたかのような錯覚。



「ああ、好き……」



「が、ぎゃ」



 悲鳴。千海だ。こぽり、口から血のあぶく。



 首元に、ちょうど喉仏の辺りを噛みつかれた。息ができない。



「ああああ、く、ひひ、くひひひひひひひひひ、ヒヒヒヒヒヒヒ、ああ、美味しい……美味しいよおおお、好きになってしまいそう……あ……綺麗」



 紅潮した頬、とろけた瞳。



 赤い紅玉の瞳が千海の茶色の日本人特有の瞳を見て固まる。



 それはまるで、捉えられたかのように。



「あ……」


「…………」



 ちゅ。



 銀髪ボーイッシュが、千海の唇に、桜色の唇で触れた。



 じゅる。



 そして、すぐ、赤い舌が、千海の唇を舐め、ふやかし、前歯をくすぐり、その奥へ。




 るるるるるるるるるるるるるる。



 ぬめって、艶かしく、熱くて、甘い。


 口の中を、彼女の舌が蹂躙する。



「ん、ん、ン……」


「あ、ァ」



 歯の裏をくすぐられ、舌を絡みとられ、上顎のひだを舐められる。



 なめくじに口の中を好き放題に粘られる感覚、それと同時に、千海の口の中に鉄錆の匂いと味が広がる。



「あ、え、血……」



 その女の舌もまた、捕食器官。


 痛みはないのに、いつのまにか、千海の口は血だらけに。



 吸血鬼の口づけは食欲と性欲、その両方の発露となる。




「ん、はあ、美味しい、でも、もっともっともっと、貴方は美味しくなれる。なって、好きになって、ボクのことを好きになって。そうしたらもっと美味しい、はっ、はっ、ハハ、ヒヒ、ああ……やっと。あは? え? なんで? くひひ、たのしい? これは、嬉しい?」



 息を荒く、肩を上下させる女が首を傾げる。


 しかし、すぐににやりと笑い、千海の唇を奪う。女の舌が千海の口の中をまた、蹂躙する。



「あ、が」



 赤い目が、爛々と。どんどん顔色を失くしていく千海を見つめて女はさらに昂る。



「なにこれ、止まらない、もう止まらない、止められない、美味しい、美味しい、美味しい……懐かしい……」


 息継ぎの為に、女が千海の唇を貪るのを止める。


 ツーッと、銀のよだれが千海の口と女の口を伝って。



 恍惚とした女の隙をつき、千海が



「あ、あ、や、めて……だ、れかたすけーー」



 這う、這って、逃げる。



 甘くて熱くて湿っている。


 吸血鬼の口づけの余韻、そして、腹を貫かれた外傷でもはや千海は立つことすら出来ない。




 乱れた匍匐前進の体制で、赤いカーペットを握りしめながら、それでも千海は本能を、死にたくない、それだけを頼りにそこから逃げようとして。



《大丈夫だ》




「あ……!」



 視線の先、広間を出る扉に、またあの血文字が浮かび上がる。



 牢屋で、千海の助けとなった血文字、思考する余裕のない千海はその大丈夫という言葉に、手を差し伸ばしてーー







《ここではもう、死んでいい》









「は?」



 差し出した手を掴んでくれるものはいなかった。




「どこに、行くんですか? ダメです、ダメです、ダメですよ、貴方、美味しすぎです」




 足を、掴まられる。



「ねえ、名前、名前、なまなまなまなま名前を教えてください。名前、知りたいです。ねえ」



 引きずられる、床をつかもうとして、手の皮が剥がれる。爪が砕けて、血が滲む。




 どんどん扉が遠くなり。



「ひ、い、やだ! いやだああああああ! やめ、やめろ! 私の、私の血を、吸うな……」



 叫びながら、もがきながら、その抵抗の全て意味もなく。



「ねえ、名前を。貴方の口から名前を聞きたいです。あ、でも、その前にもう一口、もう一口」



 くるりと仰向けにさせられて、銀髪の女に馬乗りされる。



「頂きます」



 女の美しい顔が、甘い匂いが、白い肌から漏れる汗と湿気が。



 こんなにも、近く。



 また、千海の顔と女の顔が重なって。



 ちゅ。



「私を、吸うなあああああああ……あ、アアアアアアアアアアアア……」




 ぢゅう、ちゅるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる。



 熱が離れていく。自分の中から、自分を構成する全てが消え去っていく。



 冷たいの中に熱いがある。しかし、次第にその熱いも消えていく。



「な、んで、私が、またーー」




「ああ、大好き、ほんとに、美味しい……」



 千海が最期に聞いた女の声。



「あ……名前、聞いてないです」




 なんて、わがままで、欲望にまみれた声ーー




「ふ、ざける、な」



 千海立人の意識は、ぷっつり、それで終わったーー。


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