A
淡い光が差している。大河はやや肌寒さを感じつつも、オールで船を漕いでいる。目の前では膝を抱え、楽しげに目を細める雫の姿。先程から、何かを噛みしめるようにして、無言で一人頷いている。
「なんか、こっち見てて面白いか?」
大河の問いかけに、女は表情を変えないまま首を傾げたあと、
「少年こそ、私の顔色が気になるの?」
などと聞き返してくる。
「質問に質問を返すのは良くないらしいぞ」
「いいじゃん。私らの仲なんだし。難しいことは言いっこなしだよ」
穏やかに応じる女は、それでいて引き下がる気はないらしく、大河の答えを待っているらしかった。思わず、漏れそうになる溜め息を押さえこんだあと、
「気にならないって言えば嘘になる。って言うか、すぐ近くにいる人がよくわからず笑ってたら、気になるのは当然じゃないのか?」
「それは……そうかも」
なにがおかしいのか、ほぼほぼ目を瞑ったままくすくす笑う雫。ますますわけがわからないと思いつつ、大河も手を動かす。今日がほぼほぼ初めての体験なのもあってか、船はどことなくよろよろと湖の上を彷徨う。
元の場所に戻れるんだろうか? 今更ながら、大河は心配になりはじめた。横目には、カモが数匹ぷかぷかと水の上を移動しているのが見えた。
時刻のせいか、あるいは肌寒さからか、今船を利用している客は大河と雫しかいないらしかった。
「えっと、元々、なにを聞かれてたんだっけ? ええっと……そうそう。私がなにを面白がってるかって話だったね」
随分な遠回りだったな、と思う大河の前で、女はそれなりに年を重ねたにもかかわらず、薄っすらと幼さが残る顔をわずかに歪ませ、う~ん、と唸ったあと、
「一生懸命、ぽかったからかな?」
ふわふわとした答えを口にする。どうにも、女の方もこれで確信しているというわけではなく、なんとなくで答えているように見えた。
「不恰好に船を漕いでる俺が滑稽だからってことか?」
「悪意があるなぁ……穿ち過ぎだって」
一転して呆れ顔を浮かべられる。たしかに、今の答えは、なかったかもしれない、と反省した。
「そうじゃなくて、こう……ただただ、自分のために人がやってくれることがひたすら可愛く見えることってあるでしょ? ……いや、可愛いっていうのも違うか。もっと、端的に、愛おしい?」
これは、ちょっと恥ずかしいかも。そう付け加えた女は、ごまかすように、あはは、と口にする。大河もまた向けられたまっすぐな好意にたじろぎつつも、
「じゃあ、面白がってるわけじゃなかったってことか?」
真意を確認するべく尋ね直す。少なくとも、言葉を拾い直したかぎりでは、年上の女の態度は、大河が読みとったような意味合を帯びていないように感じられた。
「いや、面白がってはいたかも」
「どっちだよ」
突っこむ大河に、女はいたずらっぽく微笑み返した。
「どっちも、じゃない? 少年のことを愛でてもいるし、ちょっと不恰好なのが面白いし。あと、ほんのちょっとだけかっこいいし」
最後に付け加えられた誉め言葉が恥ずかしくなり、目を逸らす。視線の先では、岸の上で散歩を楽しんでいるとおぼしき若い男女の姿が見えた。あちらもデートだろうか、などと勘繰る。
「そういえば、デート中に船に乗ったカップルは別れるって話があるよね」
「定番だな」
もしかしたら、雫も今同じ方を見ているのかもしれないと思いつつ、相槌を打つ。
「単純にずっと付き合っていられるカップルが少ないってだけだと思うけどね」
「そうだろうな」
男女交際が成立するまで関門があり、その先にどれだけ続くかという項目がある。更に、遠距離恋愛をするとか、同棲をするとか、結婚をするとか、いう細かい項目があるのであるから、最後の最後まで一緒にいられるお付き合いをしている男女などごくごくかぎられたものにならざるをえないだろう。もっとも、現時点において人間社会が存続している以上、最終的にはある程度の組み合わせがまとまるものであるのかもしれなかったが。
「あんまり、私としては信じたくないけど……少年は、そういうの信じる方だっけ」
「船に乗ろうと乗るまいと、変わらないんじゃないか?」
すぐさま口にしつつ、その実、なるようにしかならない、だろうという割りきりがある。これまでも。そして、これからも。
「うんうん。少年ならそう言ってくれると思ってた。お礼に漕ぐの代わってあげようか?」
「いいや。遠慮しとく」
この年上女のどん臭さは、幼い頃から今の今まで変わっていない。さすがにないとは思うが、万が一、湖の真ん中で船がひっくり返ったりでもすれば目も当てらないだろう。もっとも、大河にしたところで、雫のことを言えるほど上手くオールを扱えているわけでもないのだが。
「少年は過保護過ぎだって。私だってもう大人なんだから」
不満げな声。唇を尖らせているのが見るまでもなくわかった。大人なら、もう少し子供っぽい仕種を止めればいいのに、などと心の中で呟いていると、太ももに布越しにほのかに寒い人肌の熱を感じた。振り向けば、いつの間にか雫が膝頭がくっつくくらいまで距離を詰めている。温さの正体は女のきもち小さめの掌だった。
「冷たいんだけど」
「うん。私は温かいね」
口元にほのかな笑みを称えながら。それでいて声音は淡々としている。顔立ちの子供っぽさは変わらないはずなのにもかかわらず、どこか大人びたものに見えた。
「ねえ、少年」
能面のように形作られた女の表情。心の色がいつも以上に窺えない。もっとも、ある時を境に大河にはほとんど、この年上の幼なじみの心情が見えなくなったのだが。
「なんだ」
「少年は、ずっと私の恋人でいてくれるよね?」
疑問系。それでいて、答えは一つしか許されていない。少なくとも大河にはそうとしか聞こえなかった。
「……ああ」
「ほんとぉ? 心が籠もってない気がするけど」
間髪置かずに入る追求。相も変わらず、雫の表情は穏やかなまま。それゆえに、大河は恐ろしいと思った。
「本当だって」
自然と荒げ気味の声になる。後ろめたさのあらわれだ、という自覚がすぐさまやってきた。
年上の女は真正面からじっと見据えたまま、二三度機械的な瞬きをしたあと、ゆっくりと目蓋を閉じる。
「今は、それで良しとしようかな」
途端にどっと力が抜けそうになるのを抑えこみ、背骨を立たせる。雫は、大河の頭の上に手を置いた。
「ごめん。答えにくかったよね」
「いや。別に」
答えつつも、既に先程まであった重圧のようなものがすっかりなくなっているのにほっとする。
「そっか。でも、私もあんまり良くなかったって思うんだよね。誰よりも信じている少年を疑うなんて、とてもとてもいけないことなんだから」
私もまだまだだねぇ。さらりと口にされる言葉の数々に、大河は普段通り退きつつも、雲の合間から差した夕日に照らされた穏やかな顔から目を逸らす。というよりも、直視し続けることを、しんどく感じた。
湖の上からは数羽のカモが飛びあがり、二羽だけがとり残されていた。
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