第2話

 省吾は健康で長生きがしたかった。定年が近づいた時、彼を捉えたのはその思いだった。彼にはやりたいことがあった。勤めからの解放は己による時間の専有を意味する。その時間を彼はやりたいことに集注したかった。しかし、そのためには健康でなくてはならない。それで彼は健康に気を配るようになった。


 省吾の父親は糖尿病だった。糖尿病が原因の心不全で亡くなった。省吾は父親の体質を受継ぎ、血糖値もヘモグロビンA1cも正常範囲より高かった。しかし、これについては彼には強力な助っ人がいた。彼の妻たまきだ。環は省吾の食生活を管理した。彼女が作る毎日の料理は糖尿病食となっていた。現役時代、省吾の数値が悪化した時、彼女は毎日の料理に一層気を配る上に、一年間、一日も欠かさず省吾に弁当を持たせた。省吾も減量に努めたが、お陰で彼の数値は正常範囲に収まるまで改善された。現在も薬を飲むに至っていないのは環の力に由るところが大きかった。環はその意味で省吾にとって恩人だった。

 

 省吾が定年後の生活を賭けたのは文学だった。具体的には小説の執筆だ。彼は三十年以上、勤務の傍ら、いや勤務に就く前から小説を書いてきた。その数は三〇編を越える。自伝的な作品が殆どだが、彼はまだまだ書き足りなかった。彼の作品はローカルな文芸時評に顔写真入りで何度か取り上げられたが、もちろんそんなことで満足は得られなかった。省吾は以って瞑すべしと言える作品をまだ書き得ていなかった。これからが俺の真価発揮の時だという思いで彼は定年を迎えたのだ。

 

 定年退職して最初の一年、省吾は殆ど毎日執筆した。それは彼の自伝ものの最後となるはずの長編だった。彼は毎日職場に通う代りに、書斎の机に向って執筆した。作家になったような充実した日々だった。執筆の毎日を送れる自分を省吾は誇らしく思った。俺はやはり本物だと思った。一年余りをかけて五百枚を越す長編を書き上げた。

 

 省吾の定年後の生活は順調のようだった。健康さえ維持できれば張りのある生活が送れそうな見通しだった。週一回ヨガ教室に通い、朝晩のヨガの実践で健康維持を図る生活がこの時期に確立された。


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