ペシミスト
坂本梧朗
第1話
省吾はベッドの上で目覚めると、やおら両手両足を上にあげ、手首足首を揺らし始める。いわゆるゴキブリ体操だ。これを一分間続ける。時間は腕時計の秒針で計ることもあれば、六〇まで数を数えることもある。一分が経つと両手両足を一気に下ろして脱力する。仰臥のまましばらく安静。手足の末端に血流が感じられる。一分ほどすると起き上がり、ベッドから両足を下ろす。
省吾は部屋を出て洗面所に行く。そこには体重計があり、彼はその上に乗る。増えた時はその原因を考え、減った時はいいぞ、と思う。それからリビングに入り、食卓に着いて血圧を計る。毎日ではない。三日に一度の頻度だ。高い血圧は彼を不安にさせる。上が一二○台、下が七〇台だと彼はほっとするが、そんな数値はあまり出ない。その後は洗面と漱ぎだ。省吾は起き抜けに浄水器で濾過した水を飲むことを楽しみにしていたが、睡眠中、口中には老廃物が溜るので、起きてすぐ水を飲むと老廃物を呑みこむことになると妻の
しっかり目覚めた省吾は部屋に戻る。
さて、ヨガだ。何をするか。ヨガマットの上に座って省吾はちょっと考える。パソコンを起動すれば、「お気に入り」のリストの中にヨガの動画がいくつも並んでいる。そのなかのどれにするか、省吾は少し考えるが、どれもマンネリ感があって惹きつけられない。仕方がない。自分で編み出すか。ヨガは本来そんなものだろう。
省吾は胡坐を組み、両手を膝頭に置いて目を閉じ、上半身をゆっくりと回し始めた。右回し。左回し。回す円の大きさをしだいに大きくしていく。この動きが起きてすぐには一番快い。一息つくと、首を数回前後に曲げ、左右に傾け、ぐるりと回す。更に両肩を耳近くに引き上げ、ストンと落す。これも数回。これで体が大分解れてきた。さて、次は。やはりこれだ。片手を上げ、上半身を傾け、体側を伸ばす運動。これは朝のヨガには必ず入っている定番のポーズ。この後どんなポーズがあったかなと、省吾はヨガの動画を思い浮かべる。座ったまま上半身を左右に捻るポーズがあった。これも基本的なポーズだ。それが終るとチャイルドポーズで小休止。
今までしてきたのは上半身を対象にしたポーズだと省吾は考えを整理する。次は下半身に移ればよい。とすれば先ず前屈。片足ずつ伸ばすことにする。呼吸が大切だ。息を吸って背筋を一直線に伸ばし、顔を仰向け、息を吐きながら、ヘソから脚に倒れていく。「力ずくではない」という動画の女性インストラクターがよく言う言葉が脳裡を過る。伸ばした脚の裏側が突っ張って痛い。膝がどうしても浮く。誰か押えてくれないかなといつものように思う。前屈の次はやはり猫のポーズだろう。キャット&カウとも言う。これも定番。「両手は肩幅、両膝は腰幅」に置いて四つん這いになる。息を吐いて背中を丸め、頭を両腕の間に入れ、ヘソを覗きこむ。「肩甲骨で天井を押す」ようにする。次は息を吸って顔を上げ、背中を凹ませる。「背中でハンモックを作る」のだ。顔を上げると、窓のサッシの下部にレースのカーテンを透かして朝陽が浮かんでいる。旭光を浴びて、俺は今健康的な行為をしているという自覚が省吾を喜ばす。このポーズから先は考えなくてもポーズがつながる。四つん這いのまま右腕を前に伸ばし、左脚を後ろに伸ばして、体幹で支える。腰痛予防に効果があるポーズ。反対側の腕と脚も行う。この後にはこれも定番のダウンワードフェーシングドッグ、いわゆる犬のポーズが続く。そして太陽礼拝のポーズにつながる。その最後の拝礼のポーズに入って省吾は胸の前で合掌した。ここで何か感謝すべきことを思い浮かべなければならないのだが、省吾には億劫だ。感謝?まぁ、確かに元気でこうしてヨガができることに感謝だな、と胸の内で呟いてヨガは終った。
バイトがある日は省吾は六時にゴキブリ体操を始めて、ヨガが終ると公共放送の教育テレビを点け、テレビ体操をする。テレビ体操は六時二十五分から一〇分間。省吾はヨガを優先するので、ヨガが終るまでテレビは点けない。点けないままに終ることもある。バイトがない日は六時には起きないのでテレビ体操は当然パス。
省吾はパジャマを着替える。バイトの日なら支給された作業衣へ、そうでなければ普段着へ。そして玄関の錠を開けて外に出る。彼は家の東側に回って朝陽に向って立つ。背伸び体操が始まる。これも朝の日課だ。省吾が定年退職する二年前から始めたので、もう七年近くなる。両手を天に向って思い切り差し上げ、深呼吸する。腹式で二回、胸式で二回。腹式と胸式で差し上げる手の形が変る。背伸びは後ろに反る動きになるので、深呼吸が終るとカウンターとして前に一度上半身を曲げ、更に左右に一回ずつ傾ける。これで終了。全部で一分間ほどだ。この体操は朝陽を仰いで深呼吸するといういかにも健康的なイメージが省吾を惹きつけて始めたのだ。
省吾の朝の日課はこれで終了し、一日を始める準備は整ったことになる。
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