57 熊と青い花




昔、親元から離れたばかりの若い雄熊がいた。


ふらふらと森の中を歩いているうちに村の近くに来た。

母親から村のそばに行っては駄目だと言われていたので、

早く離れないといけないと思ったが、

どこかから何か聞こえて来る。


若い女の声だ。

節を取り流れるように聞こえる。

熊は不思議に思いその方向に歩いて行った。


森の中からそちらを見ると

木々の向こうに春の黄昏の光に照らされた家が見えた。

その窓辺に少女が座っている。


白い横顔が見えて何か縫物をしているのか

手を動かしながら歌っている。


熊はそこに座りしばらく少女を見ていた。

やがて少女は誰かに呼ばれたのか返事をして

立ち上がった。


歌は終わってしまった。


熊はなぜかがっかりした。

あの気持ちの良い声をもっと聴きたかったのだ。


そして熊は翌日の同じ頃にそこに向かった。

すると少女は窓辺にいて縫物をしながら歌っていた。

熊はそこに座り目をつむった。

可愛らしい細い声が彼の耳をくすぐる。


それから毎日熊はそこに通った。


母熊からは人は恐ろしいから近寄ってはいけないと

きつく言われていた。


母親と一緒にいる頃に森の中で人と出会った。

猟師だ。

散々追っかけ回されて逃げる事は出来たが、

確かに人は恐ろしかった。


だがあの少女も人だがなぜか怖くなかった。

大事にしなければいけないものに思えた。


熊はこっそりとそこに通い、

それは冬が近くなり窓が閉じられるまで続いた。

そして彼も穴倉で冬眠をした。


そして春が来る。


熊は新芽を食べ、腹を満たした。

食べながら思い出したのはあの少女だ。

うとうとと冬の眠りをむさぼりながら

繰り返し彼女の歌を思い出していた気がした。


熊はこっそりとあの家のそばに来た。

黄昏の光が家を照らしている。


しばらく家を見ていると窓が開いた。

そこにいたのはあの少女だ。

少しばかり大人になっている。


熊はどきりとした。

そして少女は外を見ながら歌い出した。


熊がずっと夢見ていたあの歌だ。

彼はそれを聞いて天にも昇るような気がした。

本当にこの歌が好きなのだと彼は思った。


春が深くなり緑も濃くなってくる。

熊は毎日その場所に通った。

そしてふと思う。

もっと近くで聞いてみたいと。


だが人と熊は同じ場所では生きられないのは

彼は分かっていた。


どうしたらいいのだろうと考えているうちに

彼は母熊が言っていた事を思い出した。


「森の奥に青い花が咲いているんだよ。

その花を持って好きな人にあげると願いが叶うよ。

でもその花は春と夏の短い間にしか咲かないよ。」


子どもに語る寝物語だ。

今はちょうどその花が咲く時期だ。

彼はもしかしたらと森に入った。


森の奥に彼は行く。

そして辿り着いた所には泉があり、そこに青い花が咲いていた。


熊はそれを一輪そっと摘み、

あの少女の家のそばに行った。


もう夜中だ。

みな眠っているだろう。

熊は静かにその窓辺に近寄り青い花を置いた。


翌朝、少女が窓を開けるとそこに青い花があった。

見たことがない花だ。

少女は驚いて母を呼んだ。


「好きな人に青い花をあげると願いが叶うと言うけどねぇ。」


なぜか人の間にもそのような話があったのだ。

だがその後大騒ぎになった。

窓辺には熊の足跡があったからだ。


「熊が花を持って来たかね?」


皆が不思議そうに首をひねった。

その青い花はその後何度か窓辺に置かれており、

そこにはやはり熊の足跡があった。


そして夏が過ぎ秋が来た。

熊は相変わらず通っていたが、

ある時からまったく窓が開けられなくなった。


まだそれほど寒い時期ではない。

去年はその頃はまだ窓は開けられていたと熊は思った。

彼は何故だろうと思ったが

もうすぐ冬ごもりをしなくてはいけない。

彼も忙しかったのだ。


そして冬が来て春が来た。


彼はまたあの歌を聞きながら眠っていた。

そして春と共にあの少女の歌を聞けると勇んでそちらに向かった。


開けられた窓辺に少女はいた。

だが少女は俯き暗い顔をしている。


熊ははっとした。

少女には影があった。

そして彼女を呼ぶ声がする。


女の怒ったような声だ。

前は優しく彼女は呼ばれていた。

だが今は怒声だ。

その怒った声は熊は聞いた事が無かった。

少女がその声の方を見た。

すると一人の女が現れて座っている少女の頬を叩いた。


熊は思わずかっとなった。

そしてそちらに走り出した。


「きゃーーー!」


窓辺に走り寄る熊の姿を見て女と少女は声を上げた。

熊は少女の怯えた顔を見た。

そして慌てて踵を返して森に戻って行った。


その後家ではまた大騒ぎとなった。


「忌々しい、きっとこの子は熊に呪われているんだよ。」


苦々しい表情で女が少女を見下ろして言った。

少女は唇をきつく噛み俯いていた。


「母親と一緒に病気で死ねば良かったんだ。」


少女は返事をしなかった。




森に戻った熊はあの少女の怯えた顔を思い出した。


それは彼にとってはあまりにも大きな衝撃だった。

やはり熊と人は心を通わす事が出来ないのだ。


だが、


それでも熊は少女が忘れられなかった。

そして暗い表情の彼女に何かがあったのだと思った。


熊は悲しい気持ちで森の奥に行った。


少女が自分を受け入れる事はないだろう。

恐れの対象だからだ。

それでも熊は少女を元気づけたかった。

あの歌が聞きたいのだ。


彼はあの青い花を思い出した。

自分は拒否されてもいい。

少女に前のように優しく歌って欲しい。

遠くで聞くだけで満足だ、

あの花をあの子にあげれば叶うかもしれない。


熊は泉のそばに来た。

青い花が咲いている。

そしてそのそばにひどく歳を取った人がいた。


熊はぎくりとする。

だがその人は人の形をしているが何かが違った。


「おや、わしの庭から花を持って行った熊じゃないか。」


老人はにこりと笑った。

だがその目は真っ白だ。


「あ、すみません、去年何度か花を頂きました。

ここの主がいらっしゃるとは知らなかったので。」

「ああ、良いよ、こちらにおいで。

お前はずいぶん丁寧だね。良い子だ。」


熊は言われた通りに老人のそばに行った。

老人は熊の頭を撫でる。


「わしはこの泉を守るものだ。

花を持って行った事は咎めないが代価は貰わなきゃならん。」

「代価ですか?」

「その代わりこの花は願いが叶うのじゃよ。」

「母から聞きました。でも代価の話は……。」


老人は熊を見た。


「まあ、お前はよこしまな気持ちじゃないのは知っとるよ。

女の子に持って行ったんじゃろ。」


熊は恥ずかしそうに俯いた。


「まあ良いよ、あの子はな、去年の秋口に母親と一緒に

病気にかかったんじゃ。

それで母親は死んであの子は生き残った。

その後父親はすぐに再婚したんじゃがちょいときつい女でな。」

「あの子は叩かれていました。」

「まあ、女同士も縄張りみたいなものがあってな、

あの女もきついだけで心根はそう悪くないんじゃが、

相性ってもんがあってなあ。」

「熊もそうです。」


老人はははと笑った。


「そこで相談なんじゃが、

お前さん、その片目をわしにくれんか。」


熊は老人を見た。

彼の目は白い。


「歳を取ってな、目が良く見えんのじゃ。

だから花の代価としてその目を一つくれ。」

「でも……、」


老人がにやりと笑った。


「目はとても大事だ。だからおまけをつける。

お前を人にしてやろう。」

「えっ!」

「お前さん、あの子が大好きだろう。助けてやれ。」

「助ける……。」


熊は少し俯く。

そして顔を上げた。


「お願いします。」


その表情はまっすぐだった。


「よし来た。」


老人はすぐに熊の目に手を触れ、自分の目を押さえた。

すると老人の目が黒くなった。


「おお、よく見えるぞ、すごいぞ。」


老人は嬉しそうに言った。

熊は目を順番に閉じて確かめていた。

片目は見えなくなっていた。


「あの……、」

「分かっとるよ、お前を人にする。

そしてそこからは自分で考えなさい。」


老人は熊の前で手を振った。


「優しく真面目に生きるんだぞ。

そうすれば道が開ける。」




ある朝、村長むらおさの家の前に大男が倒れていた。


真っ裸で毛深くまるで熊のような男だ。

彼は片目が潰れていた。


大男はほとんど身動きできない程弱っていた。

みなは恐れたがそれでも弱っている人を

見捨てる事は出来なかった。

彼は言葉も喋れず身動きもほとんどできなかった。


「どこから来たか知らんが。」

「どっかで戦でもあったんかね。そこから流れて来たか。」

「戦なんて聞いてないよなあ。」

「でもまあ、」


皆は顔を合わせた。


「熊みたいに毛深くてでかいなあ。」


そんな噂が村中にあっという間に広がった。

そして村長の家にあの少女が来た。


「あの、母が男の人の面倒を見ろって。」


皆はこの少女が新しい母親と折り合いが悪い事を知っていた。

そしてその母親が


「あんたは熊に好かれてるんだから、

熊男の面倒を見ればいいんだよ。」


と言われて追い出されたのも知っていた。

村長は何も言わず少女に男の看病を頼んだ。


男はまるで何も知らない赤子の様だった。

最初は少女も恐る恐ると言う感じだったが、やがて慣れた。

何しろ男はとても大人しかったからだ。

癇癪を起しそうな時もあったが

少女を見るとなぜか静かになった。


やがて男は起き上がれるようになり、

少女が言葉を教えるようになった。


「これはパン、スープ、美味しいのよ。」

「ぱん、おい、しい。」

「そうよ、自分で食べてみて。こう使うのよ。」


ぎこちなく男が道具を使う。

村長も近くでそれを見て感心した。


「お前さんも上手に教えるな。」

「そんな事ないですよ、

どうしてこうなったのか分からないけど、

本当は賢い人だと思いますよ。」


村長は少女を見た。


「もう家には戻らないか?」


彼女は寂しげに笑った。


「もう赤子も産まれますし、私は戻らない方が良いです。」


彼女の母親違いの弟か妹になるのだろう。

村長は頷いた。


「分かった。ならここに住むと良い。

しばらく男の面倒を見てくれるか。」

「はい、それで私も仕事をします。

縫物は得意ですから。」

「そうか、分かった。働いてくれよ。」


やがて少女の元に縫物の仕事が回って来た。

彼女は窓辺に座り手を動かす。


そして歌を歌った。

昔のように。


その時男は庭先にいた。

歩けるようになっていたのだ。


彼はその歌を聞くとはっとした。

そして近くに咲いている花を一輪摘む。


彼が部屋に戻ると少女は窓辺にいた。

白い横顔が彼の方を向いた。

彼女は縫物を手にして優しく笑った。


彼はゆっくりと彼女に近づき跪くと

手にした花を差し出した。


青い花だ。


彼女ははっとして彼を見た。

彼はにっこりと笑っている。


彼女の瞳に涙が湧きほろりと落ちた。






「それでおじいちゃん、二人はどうなったの?」


暖炉の前で老人のそばに子どもがいた。


「そりゃ、結婚したさ。」

「そうだけどさあ。」


孫は続きが知りたそうに祖父を見た。

老人の片目は塞がっている。


「熊の目は片方ないんだろ?

おじいちゃんもそうだし。」


老人はははと笑った。


「わしが熊な訳ないだろ。

わしの目は森で枝に当たったんだ。

これはただのお伽話だよ。」

「えー、」


孫が残念そうに声を上げた。

台所からは綺麗な歌声が聞こえて来る。


「ほら、ばあさんが歌い出したからもうすぐご飯だ。

父さんと母さんを呼んで来い。」

「はーい。」


孫が外に出て行く。

それを見送り老人は目を閉じた。


「相変わらずいい声だ。」


彼はうっとりと歌を聞いた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る