第6話 禅の由来

  約1千年前の中国、長く続く戦乱や飢餓により、人々が神も仏も信じられなくなり、寺も教本も捨てて、ただただ食うことばかりに専念したために、経営の成り立たなくなった寺を出て乞食となった坊主たち。

  人から物乞いするだけではバカにされるし、自我が崩壊してしまうので、「色即是空 空即是色」「無念夢想」「この世はすべて無」なんて言いながら、「偉そうに」乞食をする・人に集(たか)る・寄生するという商売を考え出したのですが、これが結構受けて、宋の時代には仏教の一宗派となって興隆した。


  寺も教本(聖書・仏教書)もテーゼ(練りに練ったある決まった考え方・哲学)も要らないから、元手もかからず知識も教養も要らない。三蔵法師のように、学問や気品、そして強い意志が無くったって、その場・その時・その人たちに「受ける言動」さえ執っていれば「高僧」になれてしまう。

  ある「有名な」中国の禅坊主など「禅とは何ぞや」という大命題(最も根本的な問題)を弟子から聞かれて答えに窮し、傍にいた猫を包丁で刺し殺してしまった。すると、周りの人たちは「さすが、高僧!」と、感心したというのだから、まこと宗教というのは恐ろしい。

禅のだましのテクニックと台湾客家の政治スタイル


  禅というのは、こういう「問題のすり替え」「誤魔化し」「幻想・錯覚を現実っぽく見せるヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)」を、その利念(利益を出すための考え方)としている。

  「心から信じる」ものが無い。その場・その時・その相手に最も「受ける」言動によって、取りあえず「時間稼ぎ」をする。

  すると、人間というものは都合の悪いことは忘れるものなので、いつの間にか、以前、聞かされた嘘や妄言なんか忘れてしまう。で、その時になったら、また調子のいいことを言って、さらに時間稼ぎをする。

  何しろ、聖書のような万国共通、大人も子供も読める決まった文言・考え方なんて無いんだから、言いたい放題、嘘のつき放題。「時間と忘却」という、世の真理と人間の心理を利用するというのは、ある意味、理に適った詐欺師といえるかもしれません。

2022年10月23日

V.1.1


2022年10月25日

V.2.1


2022年10月31日

V.3.1

平栗雅人


<続く>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

宗教の台湾客家、政治の中国 V.3.1 @MasatoHiraguri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る