第5話 禅とはなにか
禅坊主のいう「禅の奥義」とは、いわずと知れた「無」です。
心を無にして座禅をすれば、心が安定し、気持ちが和らぎ、物事が平明に見えてくる、という。
しかし、35歳で得度し、京都は○○寺という、臨済禅では最高峰(年間を通した参禅と托鉢の回数では日本一)といわれた禅寺で四年間座禅を組み、その後1年間、鎌倉の○○寺という禅寺で(商売としての)禅坊主をやった私の経験から言えば、これは真っ赤な嘘というか思い違いです。
私は、大学では社会心理学を専攻していましたが、この「無」というのは人の心を不安定にするばかりで、特に「宗教にはまりやすい」心の弱い傾向の人は、ますます不安になる(と私は思う)。
誰でも考えてわかることですが、無というのは何の土台も支えもない、宙ぶらりんの状態なのですから、当然、不安定で落着きの無い状態ということです。
本にもそう書かれ、竹林の見事な禅寺で「座禅をすれば心が落ち着く、安定する」と、坊主に説教されれば、誰しも「そうなるものだ」「そうならなければいけない」いう妄想・虚像に飲み込まれる。
そして、座禅の後には、以下の3つの状態になる。
① (自分に嘘をついて)心が落ちついた気になる。
もしくは
② 自分はまだまだ修行が足りないので、妄想が沸いてくるばかりだ。いかん、いかん、と自分を責める。
③ 座禅中に眠ってしまったのでよくわからない。
上記の中では、③がもっとも自然で正しい結果なのです。
つまり、わざわざ、禅寺に行って座禅なんかしなくても、家でソファに座ってうつらうつらしている方が、むしろ金も時間もかからずよほど(心の)健康にはいいということ。無理に、無になろうとするなんていうのは、それこそ無理だし、無意味というか、ますます自分の心を不安定にするだけなのです。
私は大学時代、日本拳法という武道(スポーツ)をやっていましたが、顔面を思いっきり殴られた(日本拳法の直面突きとは、フックではなくストレート)瞬間にこそ、「本当の無」がありました。
因みに、一方的に殴られるのでは無にならない。自分も相手を殴り相手の拳も自分の顔面を直撃する、という「相打ち」こそが、最も「健康的な真の無」に近い。
心を、たとえば車の運転でいうニュートラルにしたければ、座禅などではなく、逆に身体を動かして集中することです。
天才バッターといわれた王貞治氏は現役時代、毎晩3,000回だったか、バットの素振りをされていたということですが、その故に、氏はどんな禅寺の偉い坊主よりも、ずっと精神的にはしっかりされている、と私は思います。
この、ある事に集中し、集中しきった時の心の状態こそが、本来、私たちが求めるニュートラル・無の境地であるべきなのです。
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