第7話  醒めない夢(1)




 汚物に塗れた世界でどれだけ穢されようと清廉さを失わない。そういった純なる美しさが少女にはあった。

 だからこそ、彼女を痛めつけ不浄にしたい。そんな下劣な欲望に支配された手が無数に伸ばされる。


 クロエはとても寒い場所にいた。

 薄汚いボロ布のワンピースを脱いで、赤切れだらけの身体を水で洗う。

 辛うじて四方を壁が囲んではいるが、安い売春宿の洗い場に暖房なんて贅沢なものはない。


 冬の水は肌を刺すように冷たかった。それでも構わず頭から水を被る。こんな汚い身体で、どうして弟の元へ帰ることができるだろう。

 年頃なのに肉が一切ついていない、ただ細いだけの肢体。これを好んで組み敷く男が滑稽こっけいにさえ思えた。ああ、気持ち悪い。


 街灯が消えた街を歩くのは、無法者たちの元へなぶり殺されに行くようなものだ。

 冷え切った身体を乾かす術もないまま、夜が明けるのを待つ。そして朝霜の降りた道がようやく見える頃合いに、七つ年の離れた弟の元へ走った。


 熱は下がっただろうか。薬は効いているのだろうか。何一つ希望が見えない人生。

 それでも弟さえいれば、どんな地獄でも天国に思えた。この光を失うことは死よりも堪え難い。

 そんな絶望が訪れることのないよう、クロエは身を切り捨てながら必死に足掻いた。弟が、ミシェルが生きてくれてさえいれば、それだけでいいのだから。


「ねぇ、さま……」


 ゴミ捨て場から拾ってきた粗末な毛布に包まれた少年が、か細い声を上げる。

 よかった、生きてた。そんな風に何度胸を撫で下ろしただろう。

 皮脂でぴたりと額にくっつく前髪をかしながら、クロエは愛おし気に弟の名を呼ぶ。


「ミシェル、今日はあったかくなりそうよ。おひさまが出てきたら神父様のところへ行きましょう。昨日ね、あなたのためにお祈りをしてくれるって言ってくださったの。きっと病気もよくなるわ」


 その神父が先ほどまでクロエが震えていた売春宿の主人と結託していることなど、彼女は知るよしもない。

 いや、知ったところでどうでもよかった。悪徳神父だろうと無名の神様だろうと、ミシェルさえ救ってくれれば何だっていい。


 姉弟が古びた教会を訪れたのは日が昇ってからのこと。

 右手には男の欲に汚れた祈祷料を、左手には棒切れのようになってしまった弟の粗末な手を握る。

 いつもなら祭服だけは小奇麗な初老の神父が薄っぺらい笑みで出迎えてくれるのだが、今日は様子が違った。


 普段から参拝者などほとんど訪れない廃れた教会だが、やけに静かだ。いや、静かすぎる。

 何か嫌な気配を感じ取り、クロエは細く息を吐く。

「ねえさま、どうしたの?」と問いかける自分と同じ色の瞳を服の袖でそっと隠し、恐る恐る礼拝堂の扉に手をかけた。


 顔の半分ほどまで開けた途端に鼻を突く異臭。……血の匂いだ。

 胃液がむせ返り、喉の奥が焼けつくような感覚に襲われる。


 クロエは瞬きも忘れて中の様子を見つめた。

 整然と並んでいたチャーチベンチは一つ残らず破壊され、ただの木片に帰している。

 天井のステンドグラスは割れ落ち、首の落ちた女神像を直射日光が照らしていた。


 焦点の定まらない瞳が小刻みに動く。

 何が起きているのだろう、神父はどこに――クロエの思考が真っ白になりかけたその時、ミシェルが小声で告げる。


「ねえさま、あれはなに?」


 いつの間にかクロエの袖をずらし、同じように中を見つめていた。

 弟が指さしたのは石壁の一角。人力では説明できない大きな亀裂が走っている。そこに、白い影が佇んでいた。


 よく御伽噺おとぎばなしや神話で語られる天使とは、こんな姿をしている。

 背中に生えるのは床に着きそうなほど大きな白い翼。

 隆々とした筋肉が覆う肢体を足元まで眺めると、石でできた錠のようなものを引きずっている。


 そう言えば神父が暇潰しに見せてくれた貴重な紙の聖書には、似たような挿絵が挟まっていた。たしか、ルシファーとか――。

 クロエは真っ白になった頭の中を必死に掻き分けた。


 だが、まさか実在するはずがない。彼女にだってそれくらいの分別はある。

 しかし床を汚す赤黒いものに気づいたクロエは、その堕天使の足下を注視する。

 そして息絶えた神父と目が合い、「ひゅ」と息が詰まった。首から下が、ない。

 出口まで逃げようとしたのか、少し離れた場所に片足が、そして自分たちが立っていた扉のすぐそばに手首が転がっていた。

 口の中にまで押し寄せた胃液と悲鳴を涙目になりながら飲み込み、ミシェルの視界を再び閉ざす。


 ――逃げないと。


 そう思うのだが、足がすくんで動けない。

 そんなクロエをの方を、美しい容姿をした堕天使がゆっくりと振り返る。

 白抜きの瞳に見つめられ、少女は魂を抜かれたように動けなくなった。


「ねえさま……?」


 せめて、ミシェルだけでも――。

 だが無情にもしなやかな腕が二人へ伸ばされる。


 今思えばこの時、クロエの魂はまさに生きたまま引き抜かれようとしていた。

 この堕天使は魂に傷を与え、肉体にそのまま還す――そういうデイドリーマーズなのだ。

 教会信仰のある者を好んで殺し回っていた凶悪な偏食種グルメである。


 だが、死の間際にクロエは思った。

 たとえミシェル一人が生き残っても、きっと長くはもたない。

 誰かの助けがないと生きていけない子だ。ベッドの上で安らかに終われるかもわからない。

 だったら今一緒に死んだ方が、来世もまた同じ腹から産声を上げることができるのではないだろうか。

 何一つ思い通りにいかない人生だったし、弟には辛い思いばかりさせてきた。きっとこれからも変わらない。変えられない。


 それならいっそのこと、この美しい怪物に手折たおられて死にたい。




「悪魔に魅入られた哀れな少女よ、絶望に飲み込まれてはいけません」




 クロエが何もかも諦めかけたその時。

 頭上から抑揚のない声が、まるで啓示のように降り注ぐ。

 目の前に広がる黒衣によって包まれた視界は、宵闇の中へいざなわれるようだった。



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