第3話 殺し文句
街行く人々は、今にも飛び降りそうな青年に気付いて悲鳴を上げた。「早まるな!」なんて律儀に声をかけている人もいる。
「うるさいうるさいうるさい! みんなでボクを馬鹿にして! 死んでやる! ボクは本気だぞ!!」
誰も馬鹿にはしていないのだが、青年には全ての人間が自分を
だがここはクリスマスマーケットで
人々が警察や
「
ミシェルが言うように、それは二足歩行のペンギンに見えた。
着ぐるみのように
――ねぇ、進捗は?
「~~~~~ッ!!! ぼ、ボクはもう書かない! もう嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁああああああああアアア!!!」
パニック状態に
その瞬間、ペンギンの瞳に狂喜の光が宿った。まるで大好物を前にした子どものように――。
一方、重力に引きずられるように宙へ放り出された青年を見上げた野次馬たちは、思わず顔を覆う。
「姉様、これ持っててください」
「きゃぁっ! ちょ、ミシェル!」
両手を塞いでいた新品の通信ガジェットを乱暴に預け、ミシェルが駆け出す。
黒いローファーに包まれた小さな足が地面を踏み込むと、石畳が割れて大きく凹んだ。細身の体格と軽やかな身のこなしと比較して、重量のバランスが明らかにおかしい。
だがその間にも、ミシェルは青年の着地点の下まで人並外れた速度で走った。
そして近くの街灯を蹴って宙返りをしながら華麗に飛び上がる。
「人が死を選ぶのは自由意志ですが、姉様の夢見が悪くなるので今日は遠慮してください」
空中で白目をむいて泡を吹く青年に言葉が届いたかはわからない。返事は特に期待していなかった。
Tシャツの襟首をブラックレザーの手袋に覆われた手でふん掴み、花が飾られたアパルトマンのベランダにもう片方の手をかける。
成人男性を空中でキャッチして片腕にぶら下げた
すると、ミシェルが掴んでいた襟口から首がすぽんと抜ける。それに続いて腕も。
「あ」と少年が言い溢した次の瞬間、上裸になった青年がぺしょりと石畳に落ちたのだった。
落下の勢いが殺されたおかげで死にはしていないだろう。ベルトにうっすらと肉が乗った腹へ、申し訳程度にTシャツを落とした。
ミシェルはベランダに身を滑らせて、改めて屋上を下から覗き込む。
アイデバイスを最大までズームさせるが、先ほどのペンギンはもう見当たらない。
一旦追跡を諦めて再度ベランダから飛び降り、青年の近くに着地する。「ドンッッ」と重厚な音を立てた地面はヒビ割れ、小さなクレーターが出来上がった。
その音で正気を取り戻したのだろう。少しだけ光が戻ったアイスブルーの瞳が大きなラウンド型の眼鏡越しにミシェルを見上げ、妄信的に呟いた。
「
「いや、人違いです」
すげなく言い返して姉の元へ向かう。
そこへタイミングよく救急車が到着した。救急隊員がクロエを横を通りながらぞろぞろと青年の元へ急ぐ。
「姉様、ペンギンを見失いました。一度戻ってフランチェスカ様に報告を……クロエ姉様?」
反応がないクロエを不思議に思い、もう一度名を呼ぶ。
するとどういうわけか、俯いた彼女は肩をわなわなと震わせた。一瞬泣いているのかと思って、ミシェルがたじろぐ。姉の感情の起伏は、世界に散らばる最恐ジェットコースターのように激しいのだ。
そしてクロエは勢いよく顔を上げる。憤怒や嫉妬に塗れた感情的な視線は焦るミシェルを突き抜け、救急隊員が運ぶ担架へ容赦なく突き刺さった。
「ミシェルはあんたのじゃなくて私の天使よ!!!!!!!!」
自殺志願者の自虐に負けず劣らずの声量に、群衆が思わず振り返る。
弟に関することだけ都合よく地獄耳の姉は、両手に抱えていた通信ガジェットの箱を地面へ叩きつけたのだった。
* * * * *
パリ市内の16区は一般的に閑静な高級住宅街として知られている。
オスマン調のシックな建物が並ぶその中に、ノエル姉弟が暮らすアパルトマンはあった。
「それにしてもなんだったのかしら、一体」
家に帰ってシャワーを浴びたバスローブ姿のクロエが脈絡もなく言い放つ。
毛先がしっとりと濡れた銀髪に、純白のバスローブから覗く膨らみのある肌。どこを切り取っても絵になる。夜には眩しすぎる光景だ。
鏡台の前で顔にホホバオイルを塗り込んでいたミシェルは、姉が夕方の自殺未遂男のことを言っているのだとすぐに気がついた。正確には彼に取り憑いていたデイドリーマーズだが。
「彼を自死に追い込み、魂を食べるつもりだったんでしょう。精神が不安定な夢の中ならともかく、起きてる状態で取り憑かれるなんて……」
「相当病んでたみたいね、あいつ。それもペンギンの仕業なのかしら」
「でも、パリにペンギン型のデイドリーマーズなんていなかったはずです」
「自然発生的に湧いたのか、あるいはどこからか移動してきたのか……」
光沢のある絹糸のような銀髪にヘアオイルを塗りながら、ベッドの端に座ったクロエが呟く。
前者なら研究班が不眠不休で解析にあたる。後者であれば移動元を調べなければならない。
そしてどちらにせよ、パリの怪物たちの生態系に影響を及ぼすのは必至だろう。ひとたびバランスが崩れたら、収穫という名の理不尽な死のばら
そうならないためにも、ペンギンを一匹残らず駆逐する他ない。
「フランチェスカ様には僕から報告を入れておきました。回答が来るまでそう時間もかからないでしょう」
「そうね。……ミシェル、こっちにいらっしゃい。私が塗ってあげる」
姉の穏やかな声に手招きされ、ミシェルは瓶詰めにされたオイルを持ってベッドに近づいた。
耐荷重ギリギリのベッドフレームがギシリと乾いた音を立てる。
毛の立った柔らかなバスローブからミルクの香りが漂った。
どれだけ生活が安定して着飾るものが増えようと、クロエは市販品の安い固形石鹸を使い続ける。幼い頃、ミシェルが「この香りが好き」と言ったから。
しなやかな筋肉の上に薄っすらと脂肪が乗った
サイバーサングラスに細い指がかけられた。ミシェルは瞳に照明の光を入れることなく、スッと
「……いい子ね、ミシェル。大好きよ」
人工皮膚に覆われた目元をそっとなぞりながら、クロエが言う。
今にも泣き出しそうなほどか細い声だった。
閉ざされた瞳を彩る
薄い
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