魔法の薬を求める人たち

結咲こはる

 惑わして、惑わされて。何も分かりたくない世界から逃げ出したい。だから手に取った薬が実はこの世界から本当に追放されるものだなんて知らなかった。


 「知らなかった、じゃ済まない年齢(とし)じゃん、あんたさ」


 突き放されたような言葉にしがみつきたくなったのは、逃げ出したい世界に対してか目の前の姉に対してかわからない。


 違法。薬物。気がついたらそんなものに手を染めて身も心も染まっていた。一様に弱かったせいだと自分を責め続けても終わりがない。なんなの、どこまでいけば私は逃げられるの。


 「だって…だって誰も私を見てくれなかったじゃない!!!」


*


 妹が警察に連れられて家を出てから3日になる。なんて馬鹿をしたんだと思う。よりによって薬物使用なんて。どれだけあたしたち家族に迷惑をかけて足を引っ張れば気が澄むのだろうか。

 あんな妹、いなければよかった。もう何度思っただろう。


 「あんたのせいでしょ!麻友を追い詰めて薬に手を染めさせたのよ!」

 「お前がちゃんとそばで見てやらないからだろ!?俺は仕事で忙しいんだから」

 「麻友が私のことを毛嫌いしてるの知ってるでしょ!?だから…だから七香に頼んでおいたのに!!」


 私の名前が上がったところで、リビングは静かになった。キッチンで揉め合うお父さんとお母さん。そして責任転嫁の押し付け先はとうとうあたしにやってきた。


 あー、もうやだ。

 また。また、私に麻友の面倒を押し付ける。


 「…うん、ごめんなさい。お母さん。あたし、ちゃんと見れてなかったね」


 お母さんを恨みながら、お母さんに逆らえないでいる。怖い。逆らったら、私まで麻友のように捨てられそうで。


 結婚間近だったあたしは、もうすぐこの家を出ていく予定だった。だけど麻友の一件があって、結婚は白紙になった。初めての職場でお世話になった先輩。優しくて気の利く穏やかな人だった。優しくて気の利く人だからこそ、今後を恐れて去っていったのだと思う。…あたしを置いて。


 自室に上がり、ベッドのサイドテーブルに乗った薬のフィルムを掬い上げる。いくつか使用済み。残りはあと5シート。いい加減心療内科に行かないといけないのに、どうにもまだ、自分が鬱病だなんて信じられないでいる。眠れなくなって、もう何日めだろう。


 「…涼介…」


 姿を消してあたしを取り残した夫となるはずだった男の名を呟いても、届くことはない。もう二度と。


 あたしは5回分の睡眠薬をすべて口に放り込み飲み下した。


*


 「でね、…涼介?聞いてる?」

 「ん、ああ。聞いてる」


 ふと視線を上げたら、そこにいたのは七香じゃなかった。そうだ、自分から離れたのにまだ忘れられないでいる。


 豊かな胸を惜しげもなく押し付け腕を絡めてくる女性は上司に誘われて訪れた飲み屋に居合わせた他社の事務の子らしい。仕事からそのまま来たというわりには服装の露出が激しいのが気になった。事務というのは、そんなに人目を引くような露出を求められていただろうか。


 「それにしても中田くん。せっかく米澤さんと結婚する予定だったのに残念だねえ」


 上司の八幡が片手に酒瓶を携えて笑った。酔っ払っているせいか、まったく残念そうに思っているカケラもない。


 「まさかあの米澤さんがきみを裏切るなんて」


 胸にズッと刃の刺さる痛みが走る。七香は俺を裏切ってなんかない。七香はいつでも真っ直ぐで素直でお人好しな子だった。さほど目立つような子ではないけど、気が回っていつも相手を優先しすぎる…そんな…。


 「本当に、悲しかったですけど…もう大丈夫です」


 自分で何を言っているのか、時々わからなくなる。七香を思う気持ちを正直に打ち明けたのはもう随分と昔のことのようだった。俺は、俺の体裁を守るために会社からいなくなった七香をに全部の責任を押し付けた。息を吸うように、ごく自然に。


 哀れまれる視線に、苦笑いをして返す。そばにいる事務の子は目を潤ませて俺の背を撫でた。。やめろよ、そんな誰にでも媚売る汚い手で俺に触らないでくれ。


 「ほら、飲んで飲んで」


 八幡に勧められるままに酒を煽る。朝以外、ずっと飲んでいる気がする。急性アルコール中毒になってもおかしくない状態ですよ!そんな言葉をかけてくれたのは、誰だったか。


*


 道をすれ違った若い男の人に違和感を感じた。品よくスーツを着込んでいるのにやたらとアルコール臭が漂ってくる。表情はマスクをしていて分かりかねるが、青白い気がした。意識して様子を見ていると、不安定な歩き方をしている。意識レベルが低い。そう感じたのと、その男の人が倒れたのはほぼ同時だった。


 「大丈夫ですか!?」


 慌てて近寄り、顔色を見て脈を取る。高く早く触れる脈に慌てて救急車を呼んだ。せっかく仕事から帰れるのに、また職場に戻るなんて…と思わなかったと言ったら嘘である。でも、見放すことはなんとなく職業柄できなかった。


 「大丈夫ですか?今救急車呼びましたよ」


 唸り声が萎んでいく男性に声をかけながら、ちょうどすぐそこに自販機があったので水を買い「飲めそうだったら」と視界にチラつかせた。その時だった。マスクが外れ、わずかに空いた口から匂う強いアルコール臭。もうこれは飲み過ぎなんてレベルではなくて、完全に中毒症を起こしていた。


 「急性アルコール中毒症になってもおかしくないじゃない!ちょっと、どうしたか知らないけどあなた治療が必要よ!」


 治療、という言葉の裏に潜む闇の深さ。それは夜空に溶ける濃紺の奥底の色によく似ている気がする。


 「手術すれば、またあなたと一緒にいられるわよね!頑張るから」


 そう言って成功例の少ない手術に臨んだ親友の冷たくなっていった身体を思い出す。涙が溢れた。親友の治療ができる、その援助ができる。だから看護師になった。彼女の病気の成功例が唯一あった大学病院に入るために必死だったあの頃。そしていざ、患者となってやってきた親友の手術に臨んだ。朝方までかかった。でも、麻酔後に親友は目を覚ますことなく眠りについた。


 その後病室を片付けていた担当の方から、遺書が見つかったと報告を受けた時は膝から崩れ落ちてまた泣いた。


 とうの昔から、親友は手術をして治るなど思っていなかったのだ。綴られた文末は、こうあった。


 …魔法の薬があったなら。

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