第九十話 生まれて初めての反撃6 寝台でのプロポーズ

「大丈夫ですの⁈」


 胸が苦しいなんて呟いたのを心配したネリーネが慌てて俺の胸に耳を当てる。


「酷い動悸だわ」


 そう言ってベッドで横たわる俺に覆いかぶさるようにしがみつく。柔らかくて弾力のあるネリーネの胸が押し当てられて、身体全体が心臓になってしまったのか、頭の中まで心音が鳴り響く。


「どんどん心音が早くなっていますわ」

「……心臓に悪い」


 俺は目を固くつぶって理性を総動員し、瞼の裏に田舎にいる母の顔を必死に思い出す。

 ダメだ。十年近く会っていないから顔が曖昧だ。


「ステファン様は心臓がお悪いの? それならお医者様に診ていただいた方がいいわ」

「大丈夫だ。見てもらう必要はない」


 目をつぶったまま首を振る。


「まぁ! 往生際の悪い事。お医者様は怖くないわ。成人して久しいのでしょ? 幼子ではないのだから逃げ回らずに我慢して診ていただかないと」


 俺を窘めるためにネリーネの身体が離れた。

 その隙に目を開く。


 たゆん。


 眼前の花畑は消えて、真っ白な谷間が揺れていた。


 たまらず俺は身体ごと横を向き、背中を丸める。


「ネリーネが可愛すぎるのが悪い」

「……貴方は何をおっしゃっていますの? 仕事のし過ぎで目まで悪くなりましたの? 心臓だけじゃなくてあちこち悪いようですからこれを機会にお医者様にじっくり診ていただきましょう。わたくしだって結婚してすぐステファン様がいなくなってしまったら生きていけないわ」

「俺と結婚してくれるのか?」


 ネリーネの言葉に俺は勢いよく振り返る。びっくりして目を丸くしているネリーネの顔が一気に赤くなった。


「ステファン様とは結婚したいわ! でも、わたくしには侯爵夫人なんて務まりませんわ」


 俺はここでずっと疑問になっていたことをぶつける。


「だいたいネリーネは侯爵夫人になるために帳簿を読むだけじゃなくて、役に立てるようにと努力してくれていたのではないのか?」

「それは、マグナレイ侯爵家の別邸の使用人達がみな年嵩のいったもの達でしたから、ステファン様が屋敷の管理人を任されるのかと思いましたのよ。官吏の仕事をしながら、侯爵様や執事から屋敷の仕事を学ぶのかと思いましたの。しばらく官吏の仕事も続けられるのならわたくしも屋敷の管理が滞らないようにお手伝いせねばと思ったのです」


 ネリーネはそう言って顔を歪める。


 俺のために侯爵夫人として振る舞う努力をしてるなんて烏滸がましい考えをしていたが、ネリーネの頭の中には侯爵夫人なんて微塵もなかった。

 屋敷の管理人の妻におさまるということは貴族の地位を捨てても俺に嫁ぎたいと考えていたということだ。

 身震いした。


「よろしいこと? わたくしは社交界の毒花と呼ばれてましてよ? 侯爵夫人に相応しいと思えませんもの。ですから、破談にしてくださいませ!」

「俺は破談になんてしない!」


 俺の言葉に顔の中心に皺を寄せたまま首を横に振る。真っ黒な涙をこぼし、嗚咽をあげた。


 その顔はお世辞にも淑女らしさの微塵もない。

 でも、手のひらを返し媚びてきた女が侯爵夫人にふさわしい淑女だというのなら、俺は侯爵家の跡取りになんてなりたくない。


「閣下にお詫びして養子になる話を白紙撤回していただくよ」

「え?」

「侯爵夫人じゃなくて官吏の妻ならなれるんだろ?」

「わたくしのために人生を棒に振ってもいいの?」

「棒に振る? 俺は王太子殿下の補佐官をやらせていただく事が決まっている優秀な官吏だ。国を動かす仕事に携わる事が約束されていると言っても過言では無い。歴史に残る仕事ができるのだ」


 ネリーネの顔が輝く。


「そのかわり、贅沢はさせてやれない」

「わたくしは自分で運用しているお金がありますからそれで十分贅沢な生活ができますわ」

「あぁ。俺の可愛いネリーネ!」


 ふんす! と鼻息荒いネリーネの腕を引っ張り抱きしめる。


「ステファン。そこまでだ。いくら婚約しているとはいえ、まだ結婚していないお嬢さんのベッドに潜り込んで何をしている」


 抱きしめたネリーネの背後にいたクソジジイの呆れた顔と目があった。

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