ナイトメア ファイト‼  後編「罪と罰」遠之えみ

「それから?」絹代は新しくココアを入れ直してから、鼻をすする花音に問うた。

花音が言うには、救急車は呼ばなかった。姉の使ったカミソリはレディース専用で構造的に深剃りはできない。それでも、床に滴り落ちる真っ赤な血で花音の思考は停止した、と。


床にぺたんと座り込み、ガタガタ震えるばかりの花音の前を母がセワシナク行き来する。詩織の手首に何枚もタオルを巻いて血止めの手当てを施す。

この様子を離れたところで見ていた養父前田が、コソコソと背を丸めてダイニングから出て行こうとした時、突然、詩織が母の手を振り払い立ち上がった。

顔面蒼白で血濡れた指を前田に向け、「今は、…今は死ねなかったけど、いつでも死ねるんだからね‼ だけど、だけどお前の為に死ぬんじゃないんだ‼ オマエなんか‼オマエなんか‼」最低のクソ野郎‼ と叫んでへたり込んでしまった。

翔がバイクを飛ばして駆け付けたのは それから一時間ほど経ってからだった。

玄関先で翔と前田の激しい言い争いが聞こえる。と、云っても殆どは前田の声だ。

「入って来るんじゃねーーーーよ!チンピラーーーー!」夜中に絶叫する前田の常軌を逸した声は、さすがに、この家の騒音に慣らされている近隣住民の関心を惹き、三人の男女が玄関先に集まった。

住民たちの目には、前田の方がガタイのいい金髪男に脅されている様に見えたのか、「警察…呼びましょうか?」と一人が前田の顔色を伺いながら聞いてきた。

警察なんか呼ばれたら堪らない前田は、住民たちの手前引き下がるしかなく、忌々し気に翔に道を譲ると寝室に姿を消した。

詩織は慌ただしく身の回りの物をエコバッグに詰め込みながら、まだダイニングで放心している花音に言った。「カノ!急いで!ここに居ちゃダメよ!私たちと一緒に…」暮らそう……と、言い終わらぬうち、母と前田の部屋からけたたましい怒声が響いた。その声は前田ではなく母の里美のものだった。何か投げつけているらしく、ガシャン!ドスンと云う音の合間に「クソババア‼」と上ずった前田の声が入り混じる。「恩を仇で返しやがって!いいのか‼アアアアッッ‼‼オレがアレをばらしたらてめえどうなるんだよ‼」前田はそう言い捨てるなり外に出て行った。前田の車が走り去った後、一瞬静まり返った家の中に、再び里美の猛り狂った悲鳴に似た慟哭が響き渡った。

花音は堪らず母の元へ走った。母は、投げつけられて其処ここに散らばるフォトスタンドやコミックスの中でぺしゃんこになって泣き喚いていた。

花音が部屋に入って来た事にも気付かず 「アンタだって!アンタだって共犯のくせに‼」繰り返し繰り返し壁に向かって怒りを爆発させている母の狂乱を見た花音は

何年も腹の底に溜まっていたものが動き出したのを自覚した。

自覚を覚えた花音は咄嗟に両手で口を押さえた。 言ってはいけない、言ってはいけない、言っては……しかし、花音の理性をあざ笑うかの様に、次々と真っ黒な妄想が蔓延ってくる。妄想?妄想なんかじゃない……あれは妄想なんかじゃない‼

私は…私は……花音の心はたちまちどす黒い怒りに覆われた。

だが一方で、花音の目の前でボロ雑巾の様にくたびれて泣き喚いている母の姿は哀れそのもので、花音の胸を鋭く抉った。今、長年にわたり腹の奥の底なし沼にへばりついている澱を剝がす時だ、と思う反面、今更暴いてどうするのか……?と云う思いもある。 花音の心の中には、こんな事になったのは自分のせいだと思っている部分があるのだ。自分のせいで……と考えただけで後悔の嵐の渦に巻き込まれる。

花音の気持ちは大きく揺れ動き、頭の中がぐしゃぐしゃになった。

自問自答を繰り返しながら花音が部屋に戻ると、すっかり身支度を終えた詩織が

「カノ!急ごう!」と言った。

悲痛な面持ちで焦点の定まらない花音に、姉は𠮟る様に「早く!」と促す。

それでも花音は床にぺたんと座ったまま動こうとしない。「カノ?行きたくないの?それなら……」「行ける訳ないよ」と花音が言葉を被せてきた。花音はどんよりした目で驚いている姉に言葉を継いだ。「行ける訳がない……ママを一人残して、ママが可哀そうだよ」

翔が詩織の手荷物をバイクに積んで戻って来た。「分かった。カノ、今はそうしよう。でも、どうしてこうなったか聞いて。もしかして、気付いてるよね?」

詩織の言葉に花音は鋭く反応した。花音の頭の中はたちまち渦となり暴れ出した。

そしてその渦は恐怖に形を変えて花音を責め立てる。

何もかも、知っているかも知れない自分。それなのに何も知らないと自分に言い聞かせる狡い自分。

父の失踪も、母の狂乱も、姉の逃走も 全ては自分のせいの様な気がする。いや、自分のせいだ。

「私が……私が悪いんだ……」「なに?カノ、何を言ってるの?」

詩織が花音の手を包み込んだ。うっすらと血の滲んだ包帯が痛々しい。堪りかねた花音は詩織の手を振りほどき外に飛び出した。追いかけて来た翔に腕を掴まれ「話を聞いて!」と言われ一瞬立ち止まったが、玄関から出て来た詩織に気を取られた翔を突き飛ばして下り坂を突っ走った。霧雨がけぶっている。花音の背中に覆い被さる姉の声が悲しく響いていた。


「お姉さんの話を聞いた方がいいわ」話し終わった花音に絹代は言った。

花音は無言でコクコク頷く。そして、「何があったと思いますか?」と絹代に問いかけてくる。絹代はひとつ深い溜息をつくと、暫く一点を見つめたまま押し黙っている。花音はジリジリしたが、しかし、何があったか?はないと自分でも分かっている。が、確信が欲しかった。姉の口から直接聞くのはハードルが高過ぎる。絹代ならワンクッション置ける。又ここに、臆病で狡い自分がいる……考えてみれば、ずっとこうして逃げてきたのだ。姉に何が起きたのかは一目瞭然だ。花音もまるっきりの子供ではない。身辺にはこの手の情報が溢れている。子供向けのアニメさえ、胸や腰回りを不必要に強調した女の子が人気だったりする。ましてや、中学生ともなれば……花音は自分が嫌になった。逃げ出したくなってソワソワし出した時、絹代がようやく沈黙を破り静かに話し出した。

「のんちゃん、何があったか……は、私の勝手な想像だから軽々しくは言えない。お姉さんから直接聞いた方がいいと思うわ。 でも、ただね、お姉さんの方ものんちゃんに打ち明けるのは並大抵の事じゃないと思う。相当の覚悟を持って話そうと決心したら、肝心ののんちゃんが逃げ出してしまって……」

花音は絹代の言う通りだと思った。姉が打ち明けようとした時、花音は拒んだ。

母の悲鳴が聞こえたから、ではない。聞きたくなかった。母を言い訳に逃げたに過ぎないのだ。姉は前田に「最低のクソ野郎」と言ったが……自分は、自分はどうだろう?……自分だけを護る為に沈黙してきた自分は…同じではないのか?

「とにかく連絡だけはしとこうね」絹代が花音に携帯を手渡した。花音は姉がまだ家に居る事を祈りながら母の携帯に電話した。長いコールの後、電話に出たのが前田だったので、花音は「アッ」と小さく叫び絹代に携帯を押し付けた。

慌てる花音から携帯をバトンされた絹代はゆっくりと氏名を名乗ってから、「今晩のところはこちらでお嬢さんをお預かりします…」と、言い終わらぬうちに「…あぁ…そう…ですか…」と暗くて沈んだ声が帰ってきたので、絹代は「お母さん」と、口パクしながら花音に携帯を渡した。

花音は携帯を手にするや、「お姉ちゃんは?お姉ちゃんに代わって‼」と、急き立てる様に言ったが母の返事はなく、母の背後から忌々しい前田の鼻歌が聞こえてきた。

何故この男は平然としていられるのか⁉「お姉ちゃんは⁉⁉」と花音が声を荒げてやっと返事があった。「…詩織は、…もう居ないよ、もう帰って来ない……」そう言った母はうわの空で、まるで他人事の様に花音には聞こえた。

花音に又、あの怒りがこみ上げてくる。花音はトイレに籠った。体の裡からせり上がってくる怒りと必死に闘う。叫びたい衝動を歯を食いしばって堪えるが歯が砕けそうだ。

「のんちゃん、大丈夫?」 どれ程時間が経ったのか、絹代がドアをノックしてきた。

トイレから出てきた花音は汗だくで、顔の血管が切れた状態だった。痛々しくパンパンに腫れ上がった花音の姿に、絹代は固く絞ったタオルを差し出した。

ある覚悟を決めてテーブルに着いた花音。絹代に全て話そう、聞いて貰おうと云う決心を固めた花音だったが、絹代もまた待ちわびていたのである。

花音は自分自身が非難の誹りを受ける事が怖くて、真実の蓋をし続けてきた弱くて狡い自分に、もうこれ以上耐えられなくなっていた。



当時、花音は小学四年生だった。

家の中がごたごたしているのは何となく感じていた。両親の言い争いが日増しに激しくなっていたからだ。

父が詐欺に引っ掛かり多額の負債を抱え込んだ事が原因だ。経済的窮状は花音姉妹にも容赦なく降りかかった。習い事は勿論、塾まで辞めざるを得なくなり、詩織は随分抵抗して食い下がっていたが、塾も習い事のピアノも消極的だった花音は寧ろ内心せいせいしていた。

父は沢山の仕事を掛け持ち、休みなく働いている。泣き言ばかり言って父を責め立ててばかりの母も、遂に重い腰を上げてパートで働かざるを得なくなったのは、父が失踪する僅か三ヶ月前の事だ。花音はガランとした家の中に、一人取り残される事が多くなった。頼みの姉は、この春中学生になったばかりで部活に熱中している。陸上部に入った時、たまたま在宅していた両親の前で「道具代のかからない陸上部なら文句ないでしょ?」と、言い放った。「優しくないなぁ…」シラケた顔で花音が言うと、きっと睨み付けてきたが、「スマナイ…」と言う父の言葉にバツの悪そうな顔をして二階の自室に閉じこもってしまった。

ある日、花音はクラスメイトの女子三人に囲まれて、母が若い男と遊びまわっていると聞かされた。「噓だよそんなの!」と言う花音に三人のうちの一人が「安藤さんのママとうちのママって同じ会社なんだよ。部署は違うけど、その男の人が来るとね、いつも二人で車に乗って帰るんだって!」どうやらこの子は、大人たちが話していた事を偶然聞いてしまったらしい事は花音にも想像できたが、若い男と云うのが花音にはイマイチ解らず、かと云って要らぬ情報をブッコんでくる三人組に聞くのもマヌケな気がする。

花音は勿論こんな噂は信じなかったが、酷く悪い気分になった。


ところが数日後、、、

花音は偶然、母が見知らぬ男の運転する車に乗っているところを目撃してしまう。

自宅からはかなり離れた場所に公園があって、この公園近くの友達の家で遊んだ帰り道だった。花音は数日前にクラスメイトが言っていた事を思い出し口の中が苦くなった。

その日の夜、花音が洗面所で歯磨きしていた時、母が入って来て洗濯物の仕分けをし出した。ずっとモヤモヤしていた花音は何食わぬ顔の母に苛立ちを覚え、モヤモヤをストレートにぶつけた。

「アノ男の人誰?」花音は注意深く母の反応を窺った。「なに?誰の事?」母は一瞬たりとも動じず仕分けた洗い物を、ネットに入れ始めた。「今日、小山町公園の前で見たよ」と花音が言うと、手を止めて「あぁ、」と言った。

「今、引っ越し先探してるの知ってるでしょ?そういう会社の人!」歯磨きを終えた花音が「ふ~ん」と言いながら洗面所を出ようとするのを母が引き留めた。

「パパとお姉ちゃんに言っちゃ駄目よ!」花音は振り向かず「どして?」と言った。

母の動揺が背中に伝わってくる。「サプライズ…だから!」「サプライズ?何の?」

「…だって、ほら!パパは毎日働きずくめで疲れ切ってるし、詩織はずっと不機嫌で当たり散らしてるじゃない?だからね、ママが、ママが皆が満足してくれる家を……

皆を驚かしてやろうと思っただけ!。でも、カノに見つかっちゃったんだ――残念‼」と、よく喋る。姉の詩織に限らず母の不機嫌さ、父に対する当て擦りは相当なもんだと花音は感じている。それに、母の言っている事は噓だと解っている。

母が乗っていた車には見覚えがあった。父が掛け持ちの一つである便利屋の仕事を終えて朝方帰った事がある。時刻は午前4時半頃。花音はトイレで目を覚ましたのだが、用を足してトイレから出ようとした時、家の前に車が停まった。

音を聞いた花音は反射的に便座の上に乗った。花音姉妹の部屋と両親の寝室は二階である。

二階のトイレは丁度玄関先の上にある。トイレの窓は高い位置だが、便座に蓋をして乗れば50センチ四方の小さな窓でも玄関前は丸見えである。

車から降りた父が運転手に言葉をかけながら何度も頭を下げている。父を降ろした車、ワゴン車はすぐに走り去った。薄暗い街灯の下でも車の色は分かった。

ワゴン車のバックドアに「MAEDAENJINEER」と云う文字が帯の様に見えた。

「カノ!はい!約束‼」と母は強引に花音の手を引き指を絡めてきた。

「いい?ママとの約束だからね!約束を破ったら……破ったらきっと悪い事が起きるよ!」花音は内心、母が乗っていた車に見覚えがある事を言わないで良かったと思った。

「絶対‼絶対に守ってね‼」と繰り返し念を押す母が一瞬知らない人に見えた。

しかし、母の言う事もあながち噓じゃない気もする。

家を売りに出している事は事実で、その為アパートを探しているが、休みなく働いている父には時間がない。代わりに母が……でも、あのワゴン車は?ママの家探しを手伝ってくれてるのか?あのワゴン車の人の顔は見た事ないが、パパとママ共通の知り合い?「そう…か…?」花音はベッドの上でモフモフの抱き枕を抱えながら想像を巡らせた。本当にこのまま黙っていた方がいいのだろうか?

花音が鬱々とした気分のまま過ごした一週間後。

頭から離れる事がなかったあのワゴン車を再び目撃してしまう。

花音が通う学校の四年生以上限定だが、社会科に組み込まれている課外授業と云うものがある。学校から何キロと決められた範囲内で、グループごとに分かれて行動するのだが、花音のグループは許容範囲ギリギリの高尾駅まで足をのばすプランが決まった。

六人のグループなので二人一組で、ハイカーの年齢層、売れ筋のお土産、人気の食べ物などを調査するのだ。花音はじゃんけんに勝って一番気楽そうなハイカーを選んだ。相棒になったのは男の子で、花音よりひと回り小さくすばしっこい。しかも生意気だ。だが、二手に分かれて花音は子供含めた女性、相棒が男性をチェックと云う提案にはすんなり乗った。年齢層は?と問うと、「そんなのテキ!見た感じでいいよ!」と実にテキトーだが、花音にはしっくりきた。

集合場所を決めてそれぞれのグループが散った後、花音は駐車場近くに移動してノートを出した。平日だと云うのに人の往来が多い。どうりでツアーの大型バスが何台も停まっているはずだ、と、目線を女性に絞ってカウントしていた時、絶対間違えない、聞き慣れた声が、はしゃいで走り回る子供たちの声に混じって聞こえてきた。

花音は偶然通りかかったツアーの団体に紛れながら、近くでフランクフルトを焼いている屋台の陰に隠れた。屋台の主人はチラと花音に目をくれたが、子供には慣れているのか何も言わなかった。男とはしゃいでいるのは、思った通り母だった。

二人は手を繋ぎながら歩いている。花音は、以前クラスメイトから聞いた噂話を目の当たりにして泣きたくなった。

クラスメイトの「ほ~ら!」と云う声が頭の中で木霊している。

やがて二人は飲み物を手に駐車場の中へ入っていった。花音は二人の後を尾けた。

グレーのワゴン車、花音は何度この車を見た事か。男の顔ははっきりとは見えなかったが、父よりは若いと花音にも分かる。噂話の若い男と云うのも本当だった。


集合時間になっても戻らない花音を、五人のクラスメイトが探し回り合流できたのは予定の時間がかなり過ぎた頃だった。涙混じりで良かった、と言うクラスメイトの中でただ一人「何なんだお前!」と代表で怒ったのが花音の相棒、テキトー君だった。

しかし、背伸びをしても首から上には届かない花音に、下からヤイヤイ言うテキトー君のお陰で花音は寧ろ救われた気持ちになった。


花音の苦悩はここから始まった。

見た事を父や姉に言うべきか?言ったらどうなる? 今、うちは大変だ。

パパは休みなく働いているし、ママも慣れないパート勤めが大変そうだ。その上、ママの実家のおっかない伯母さんからしょっちゅう電話がかかってきて、最後は必ずケンカになるみたいだ。ママがないものはないと言っているのはお金のことだ。

ママがパパを責め立てるのもお金のこと……お金お金…昨夜も「それでも親か‼」と言って乱暴に電話を切った。ママはママで大変そうだ。これ以上掻き回していいのか?ホントにそれでいいのか?いいのか?……

この家からも、もうすぐ出ていかなければならないらしいと、お姉ちゃんに聞いた。

このまま黙っていた方がいい……のか??


しかし、花音の気持ちは大きく揺れ動いたままだった。

答えが出ないまま数日が過ぎたある日、父が久々の休みを取った。引っ越し先の候補が三件あるからと言って、渋る母と二人で出かける事になったのである。

車で廻った方が効率がいいからと、父は知り合いの車を借りてきたが、その車を見た花音は驚愕した。――グレーのワゴン車―― バックドアに「MAEDAENNJIA」の文字。花音は、母が忘れ物を取りに家の中に戻った隙に父に尋ねてみた。

「この車、誰の?」「前田さんって云う電気技師だよ。パパと時々便利屋の仕事で一緒になるんだ。どうした?」「パパのお友達?」「う~~ん、友達じゃないけど、会えば良くしてくれるよ、今日もこうして車を貸してくれた」「ママとは……」ここで会話は途切れた。母が玄関から出て来たからだ。「カノ、とりあえず行ってくるよ、又今度話そう」母は助手席に乗り込むとすぐに、窓を開けて花音の顔をジッと見つめて言った。「何を話してたの?」「…あ、…」ドギマギする花音に代わって父が答えた。「どんな所に引っ越すのか、花音も気にしてるんだよ。カノ、行って来るよ」

母はニコリともせず窓を閉めた。

車が走り去った後、花音は一人ガランとした家の中で、何も手につかず悶々と過ごした。もしかしたら、MAEDAと云う人は両親の共通の知り合いか… かもしれないが、じゃ、高尾で見たアノ光景は?男に体をあずける様に、手をつないで歩いていたアレは……花音は益々分からなくなっていった。

姉の詩織が帰宅したのは、7時を少し回った頃だった。

部活で疲れているらしく、空っぽのダイニングテーブルを見るや 「またあ!今日も今日とてカップ飯ですか‼」と云う。母がパート勤めを始めてから格段に食事の質は落ちたと花音も感じている。パート勤めのせいだけじゃない、今の家にはお金がない事も知っている。詩織が着替えて一階に降りてきた。姉が冷凍庫を漁ってレンジに放り込んでいく姿を見て花音も慌ててカップ麵用のお湯を沸かす。

二人で食事をしながら花音はずっと考え込んでいた。言おうか、言うまいか…

テレビの音も殆ど耳に入ってこないが、時々姉がクスッと笑う声だけは聞き取れた。

一応、自分なりに、自分を納得させたはずだったが釈然としない。

「カノ!こぼれてる!」

姉の声で花音は我に返った。「ナニやってんのもう~~~!」言いながら姉は花音の前にテッシュケースを置いた。花音はこぼれた汁を拭きながら「…お姉ちゃん…あのね…」と言った。ところが、思いつめた花音の顔を見た姉は「あああ!明日にして!お願い!今日はムリムリムリ‼」姉は言いながら、そそくさと後片付けを済ませ2階に姿を消した。一人残された花音はダイニングテーブルを見つめポツリと呟いた。「…いいよ…」

夜10時になっても両親からの電話はなかった。花音は布団に入っても眠る事ができず、1階のリビングに行ったり来たりを何度も繰り返した。時計を見ると午前1時になるところだった。花音は両親が心配で堪らず、何度も姉を起こそうとしたが、結局できなかった。あまり優しくない姉が怒りだすのは目に見えている。

仕方なく又二階に上がり、トイレで用を済ませた時、車が入ってきた音がして慌てた。急いで便座の上に乗って外の様子をみる。車からは先ず母が降りてきた。

花音は胸をなでおろした。が、不思議なのは車がそのまま走り去った事だ。花音は急いで一階に降りて、疲れ切った顔で幽霊の様に佇んでいる母にいきなり「パパは?」と聞いた。母はギョッとしながらも「仕事!何してるの!こんな時間に!」と逆ギレの返事を投げつけるとサッサと二階の寝室へ行ってしまった。

なるほど、父が忙しいのは確かだから、今日も寝ずにこれから市場か道路工事の仕事に出かけたのだろう、と花音は考えた。それにしても、と、花音は思う。母の父に対する態度が、アノMAEDAと云う男に対する態度は違い過ぎないか?花音の脳裏に又高尾駅の光景が蘇って益々眠れなくなってしまった。


父は翌日になっても帰らず、翌々日になっても帰らなかった。

母は最初こそ色んな仕事で忙しいから、と言っていたが三日目には流石に不審を抱いた詩織が母に詰め寄る。電話連絡はあるから大丈夫だと言い張る母だったが、納得しない詩織は知ってる限りの職場や知人に父の消息を聞き回った。詩織のこの行動を見て花音は驚いた。いつも父に素っ気ない姉が、今はとても父の事を心配している。姉に打ち明けようと思っていた事はあのまま一週間が経っている。

花音が、見た事を詩織に話そうかと気持ちを固めた矢先、母が姉妹をリビングに座らせ、実は――と話し出した。

父は多額の借金を残したまま女と失踪したのだと。

詩織も花音もあっけに取られるばかりで言葉を失ってしまった。


それから一ヶ月経ち二ヶ月があっという間に過ぎ去って、姉妹を取り囲む環境は悪化の一方である。母は債権者に追いかけまわされ、パート勤めも辞めざるを得ない状況になってしまった。債務整理に翻弄されて別人の様にやつれた母の姿は、酷く花音の心を落ち込ませた。稀に訪れる男たちもこの上ないストレスだった。

男たちの顔はどれも鋭く隙がないと花音は感じた。

そして、母の異常なまでの心の束縛が更に花音を苦しめた。

「アノ人達はね、借金取りと警察だよ。何も、どんな事も喋っちゃダメ‼」狂気を孕んだ目で花音に詰め寄る母の姿に恐れおののいた花音は、心の隙間に湧いた疑問を確かめることが出来なくなった。父の捜索願を出したとは聞いていない。なのに、何故警察?母は何かを隠すために又噓をついている、と云うのが花音の偽りのない、確信に近い考えだ。 だが、「分かった⁉カノ!ボンヤリしないで!誰にも!何も喋っちゃダメ!喋ったら…喋ったら、みんな…み、ん、な!バラバラ‼」花音の体を揺すりながら、泣きながら、最後は「お願い、お願い、約束して…」と縋る様に哀願してくる母の姿に押し切られる形で花音は頷くしかなかった。もしかしたら、自分は大変なものを見て、聞いてしまったのでは?そう思うだけで花音の頭も心も行き場のない黒い塊で覆われていく。母だけが帰ってきたあの日。あの時、運転席にいたのは父だったのだろうか?もし、もしも、MAEDAと云う人だったら…両親の間でMAEDAと云う人の事でケンカになって、父はヤケクソになって何処かに行ってしまったのか?

      ――父がそんな事をするだろうか――

頭の片隅で辛うじて冷静さを保っている分身が異を唱える。しかし、どんなに考えても人生経験が未熟な花音にはここまでが限界だった。


やがて花音は、全ての事を心の奥底、底なし沼に沈める事で心の平衡を保つ様になっていった。


話し終えた花音はグッタリした体を椅子から床に滑らせ、体を小さく折り畳むと「私が悪いんです!最初からちゃんと話していたら…」と繰り返す。

「のんちゃん、のんちゃんは悪くない。のんちゃんのせいじゃない。これだけはハッキリしてる。のんちゃんのせいじゃない!」そんな事を子供にさせる大人が悪い!

と云う絹代の言葉で花音は救われた気持ちになった。

絹代の差し伸べる手に縋りながら、立ち上がった花音は暫く泣き続けた

「そうよ、泣いて泣いて、涙で流してしまいなさい」絹代は花音の背中を擦りながら椅子に座らせると、香りのいいアップルティーを淹れ始めた。

「のんちゃん、お姉さんに何が起きたのかは、もう、解っているわね?」

花音は温かいテイーカップを両手で包み込むようにしながら頷いた。

絹代は続けた。「これからどうするかは、のんちゃん次第。お姉さんと一緒に行った方が良かったかも知れない。でも、お母さんの事も気になる。お母さんと前田さんが何をしたのかも気になる。お父さんの行方も。のんちゃん、全ては時間が解決するものなの。罪を犯したら、いつかは、どんな形であれ真相を暴かれて罰を受ける。この世の中は不条理な事がまかり通っている様だけど、そういう事だから希望は捨てないでね!」

花音の目から又涙がこぼれ落ちた。

「お姉さんのリストカットは一種のデモンストレーションみたいなものだと思う。二度と私に手を出さないで!ってね。でも、一歩間違えれば死んでしまうかもしれない。それだけ強い覚悟でやったのね。それと、お母さんとのんちゃんに対するメッセージかな?」花音はあらゆる事から逃げ続けていた自分が恨めしかった。

暫く二人の間に沈黙の時間が流れる。しかし、窮屈な時間ではない。

「それからね」 絹代が再び言葉を紡いだ。「のんちゃん、自分を責めちゃ駄目よ。何度でも言う。のんちゃんのせいじゃない。お姉さんとは必ず連絡を取り合ってちょうだい」

花音は再び差し出す絹代の手に縋り泣いた。泣いて泣き続けて夜を明かした。


翌日早朝、帰って行く花音の後ろ姿を見送った絹代は、花音の背中から石地蔵が消えているのを見るや、思わずガッツポーズをとって微笑んだ。



三年の月日が流れ、花音は高校三年生になっていた。

三年前の詩織の事件以来、養父前田は暫くコソコソしていたが、今ではすっかり元通りのヘラヘラ男に戻っている。しかし、そのヘラヘラは決して油断のならない、この男の隠れ蓑である事を花音は承知している。

母はアレ以来仕事を減らして家にいる事が多くなった。その事では前田と随分揉めた様であるが、形勢は逆転、と、までは程遠いが詩織の事件がきっかけで、前田にも弱みが出来たと云うことだろう。

詩織は翔と町田のアパートで暮らしている。

翔の祖父母の援助で高校を卒業した後、看護師学校に進み この春、調布の中堅病院に勤務が決まったばかりである。翔は、経済学を学びたくて横浜国大をエントリーしたのだが、詩織の境遇に打ちのめされた事と、自分の “言えない過去"を、詩織にだけは極普通に晒せた事で目標が変わった。祖母の言う通り、理不尽な性加害に晒されながら、声を上げる事も出来ない被害者のなんと多い事か。詩織、翔自身もまた、その中の一人なのだ。

改めて、町田と吉祥寺へのアクセスを意識して、立教大学法学部に入学し直した。一人前になるにはかなりの時間を要するのは解っている。学校で学びながら、祖父母の事務所でアシスタント、鞄持ちのアルバイトをさせてもらいながら腕と知識を磨いている。


花音は高校進学をほぼほぼ諦めていたが、姉から、絹代から、担任の先生から強く勧められた事もあり、猛勉強を始めて、何とか公立高校に滑り込む事ができた。

すんなりではない。ここでもひと悶着があったのである。

前田は事あるごとに、早く借金を返してこの家から出て行けと言う様になっていた。

花音は前田の言動には女が絡んでいると直感していた。これまでも同じ様なイザコザがあって、女が直接乗り込んで来た事もある。母はその都度落ち着き払っていた。暫くすると何事もなかったかのように二人で酎ハイなんか飲んでいる。母は何故この男と別れられないのか?父が失踪した原因の一つに、この二人の存在が関与しているのは間違いないのだから母の態度は不愉快そのものである。一日も早くこの家から出ていきたくて、進学なんてどうでもいいと花音は考えていたが、姉からこう言われた。勉強を始めるのに早い遅いはないかもしれない。でも、状況が許すなら行くべき!世の中、まだまだ学歴社会なんだよ。私もできる限り応援する!と。

そして絹代も、担任の先生も概ね同じ様な意見だった。

「中卒じゃ稼げねえからな、世間体も悪いこったし」前田の祝辞だが、この後がもっと悪い。「今の世の中、通信制ってのがあんだろ⁉通信制じゃダメなのか?どうしてもってんなら条件があるぞ、バイトとスマホはダメだ」流石にこれには母の方が反応が速かった。スマホは今や必要不可欠。クラスの連絡網の役割を担っている。通信制だって同じ事。バイトは良い経験になる。どうせ私たちは外食なんだから。借金は、あと何年かかるか解らないけど必ず全額返すし…と、いつもより強気の態度だったが、前田の表情に険しさが滲んでくると、途端にいつもの弱くて狡い母に戻ってしまう。更に前田は、「いいのか?こいつまであんな風になっても」と言い放った。

コイツは正真正銘のクソ野郎だと花音は思った。姉がコイツに浴びせた「クソ野郎」そのものだ。

「なんだ?てめえ何か文句があるのか‼」無意識に前田を睨み付けていた花音に、前田が矛先を変えてきた。花音は口を真一文字に結び目を逸らした。

「条件が気にいらなきゃこの話は無しだ!さっさとここから出て行け‼」椅子を乱暴に軋ませながら立ち上がった前田に母が割り込んで言った。

「スマホは私が管理する。それでいいでしょ?」「アアあ‼」前田が母に向き直った。「私がスマホを預かる。学校からの連絡は私からカノに伝える、それから…」

母は花音に向き直って言った。切羽詰まった顔が、他に選択肢は無いと言っている。

「バイトは諦めて今迄通り家事を手伝って!」花音にしてみればバイトなんかどうでもいい話である。ただ、詩織と頻繫に連絡し合うにはスマホは重要なアイテムだ。

しかし、今の最重要課題は進学である。ここは何としても勝ち取らなければならない。花音は煮えたぎる腹の中で「こんなヤツの許可を得なければ高校も行けないのか」と、叫びたい衝動に駆られたが、体を二つに折り歯を食いしばって耐えた。

「そんならもう一つ追加条件だ」前田が煙草に火をつけながらニヤついている。

「早く借金を返してとりあえず出てってくれ!早く返すには働くしかねえだろ?。バアさん、もう一つバイトを増やせよ。ここんとこ稼ぎが悪くて実入りが減ってたよなあ!」

なんてヤツだ‼花音は遂に我慢ならず叫んでいた。

「お母さん! お父さんが帰らなくなったあの晩、車からお母さんだけ降りて来たよね? あの時運転してたの誰?」 途端に前田のニヤ気が消えた。花音の神経は母の怯えた心臓の音まで聞こえそうなくらい鋭く尖り出した。

「…てめえ…」 醜く歪んだ表情で花音を睨み付けた前田だったが、「訳の分かんねえ事言ってんじゃねえよ!」と捨て台詞を吐きながらダイニングを出て行った。前田の寝室から、壁に物を投げつける音がする。  ふん‼また逃げるのかよ‼ と、花音は心の中で毒づいた。「あれは、運転してたのはお父さんだよ。お父さんはあの後市場の仕事があって、それで……それで、ナニ?何が言いたいの?」暫く経って弁明し出した母の声は語尾が震えてヒステリックだ。あの時と同じ。花音の底なし沼に蓋をさせたあの時と。

花音は一旦矛を収めた。確たる証拠がある訳ではない。絹代も言っていた。必ず時間が解決すると。姉の事もいずれ。


波乱含みで始まった高校生活は可もなく不可もなく、と、花音は思っている。しかし、折角勝ち取ったポジションだから、と云う事でよく勉強した。お陰で成績は常に上位をキープ。

クラスメイトの様々な誘いには、家が複雑でスマホもバイトもNGだと云う事をあっけらかんと披露している。弁当は365日タッパーに詰め込んだ白米とレトルトカレーである。一時期、「ヤバイヤツ」と噂が立ったが完全無視しているうちに そんな噂も風化していった。

花音は、できる限り時間を作って絹代に会いに行った。絹代に会いたいのは勿論だが、絹代のスマホを借りて詩織と連絡を取り合えるのも嬉しかった。

忙しい詩織が時間を割いて会ってくれるのだが、詩織は前田との間にあった出来事を話そうとしない。ひたすら、早く家を出て一緒に暮らそうと言う。今は、翔の実家に頼ってばかりだが、近い将来二人共一人前になれば恩を返せるから、花音は何も心配しないで、と言う。勿論 花音は詩織が前田との事を何も言わずとも、口では容易に説明できない程酷い目にあった事は解っている。

しかしだからといって、詩織が何も語らないのに、花音の方から切り込むのもどうかと思っている。姉は、話さないのではなく話したくない、触れてほしくないのかもと思う。姉が手首を傷つけた時、逃げずに聞くべきだったのだと花音は思う。今更だが。 本当に、今更だ。

自分はどうだ? 自分の方こそ目撃してしまった事、偶然とは云え見た事が、父の失踪に絡む重大な要素である事は、今は、はっきり解っているのに姉に話せていない。姉に話したら徹底的に母を追い詰める気がする。あんな母でも母は母だ。心の底から憎みきれない。父の失踪は母の不倫が原因だとしてもだ。 花音の苦悩はここにもある。

絹代は、子供にそんな負荷を負わせる大人が悪いと言った。花音は母に、家族がバラバラになると脅され口を噤んだ。自分自身を守る為に。だが、絹代はそれでいいと、そして詩織が出て行ったのも自分自身を守る為なんだから、と。

いつの日か、詩織が心を開いてくれる日を待つしかないのだと思う。そして、自分も

母との愛憎にケリをつけて姉に話すべきなのだ。


二年生になって夏休みを迎える頃、いつも通り絹代を訪ねていくと、見知らぬ男女が二人居た。丁度話が終わったところらしく、女性の方が先に帰って行った。

この辺りを統括しているケアマネージャーと云う事だ。残った男性は絹代の長男だと紹介された。小柄な絹代に反しそこそこの体躯である。白髪交じりで目元が絹代に似ていると花音は思った。

程なくして長男も帰って行き、テーブルに広げられたパンフレットや、書類の類を片付けながら、絹代が他人事の様に放った言葉に花音は驚いた。

「もう、ホスピスのお世話になるのよ」固まっている花音に笑みを浮かべながら続けた。 「もう六年目なの。いよいよ来たみたい」 何が来たのか…困惑している花音に 「あ、言ってなかったけど、乳がんなの。検査した時はステージ2だった」絹代はサラサラと話しているが、聞いている花音の心の中は砂嵐だ。

どうりで最近の絹代は元気がなかった。お気に入りだった四季の森公園に出掛けるのも渋る回数が増えていた。六年目と云う事は初めて会った時には…

花音は身震いした。ケアマネージャーと長男はその為に来ていたのだ。よく見れば、いつの間にか家具が減っているし、絹代の体は一段とやせ細ってしまってる。何故、今の今まで気付かず…… もう十分生きたからね、と話す絹代に花音は言葉を失っていた。


絹代が亡くなったのは翌年の九月半ばである。花音が最後に面会できたのは亡くなる三週間前だった。それ以降の面会は家族のみに限定されて、花音は遣り切れない気持のまま、長男からの連絡で葬儀場に赴き、絹代を見送った。

最後の面会の時絹代は言った。

「のんちゃん、お姉さんの言う通り早く家を出た方がいいと思う。お母さんの事が気に掛かるのは解るけど……」絹代はここで、枕元に置いてあるペットボトルの水を一口飲んで呼吸を整えると、また話し出した。

「のんちゃん、私の子供の頃の話、、、覚えてる?」花音は強く頷いた。忘れる訳がない。「あの物語は真実よ。まだ、のんちゃんに話していない物語がたくさんあって…命の危険が迫った時、必ず現れるの」 花音は絹代の物語を一ミリも疑っていない。一話目の「石碑」こそ「そんなアホな…」と思わないでもなかったが、その後の展開は疑う余地などなかった。

絹代は瘦せ細った腕を小刻みに震わせながら伸ばして花音の手を取った。

「のんちゃん、私の蠟燭はじき消えるけど、、、できれば、、」 まだ私に守護神が憑いているのなら……次は…のんちゃんを選んでほしい、と言う。

絹代は最後にと言いながら水を口に含んだ。「のんちゃん、逃げるが勝ちって言うでしょ?早く逃げなさい! だけど、どうしても逃げられなくなったら……死ぬ気で立ち向かってごらん!そのファイトは必ず…必ず守護神に届くはずだから!」

花音は一瞬混乱した。突拍子もない事を絹代が言い出したと思ったからだ。しかしすぐにその考えは消えた。絹代が言っているのだ。絹代は何かを予知しているはずだ。

そして絹代は「私が助けに行く」と云う言葉を残し、混濁した意識の波に連れ去られていった。


11月、花音は高校生活の集大成に取り掛かっていた。

学校祭である。花音はこれまで一度も参加した事がない。 花音はあるイミ有名人だったので、学校祭への初参加はちょっとしたニュースになった。

花音のグループは演劇部中心で構成されていたので当然出し物は演劇である。

古典の「ロミオとジュリエット」と聞いて花音は久しぶりに「へ?」とマヌケな声を漏らして失笑をかった。リーダーは花音の為に、か、どうかは定かではないが、きちんと全編を通して読んで理解を深めれば、こんな素晴らしいドラマはない!と力説した。

花音は乗った船だと云う事で美術担当に手を挙げた。ところが、最も簡単そうに見えた葉っぱ作りが、実際やってみるとなかなか手強い。

先ず、スーパーやドラッグストアに行って段ボール箱を貰ってくる。

木や枝の形に加工して、それらしく色を塗る。

次に緑色、黄緑色の色紙を葉っぱ状に切っていくのだが、大量である。葉っぱがある程度できたら枝に、これもみっしりと、それらしく貼り付けていく。

こうして、苦労しながら出来上がった工芸品を順次学校の指定された場所まで運んでいくのだ。いちいち運ぶのも大変だが何せ嵩張る。狭い花音の部屋で保管するには嵩張り過ぎだった。美術担当は花音の他にも男女の一組がいる。この二人に進捗状況を聞いてみると 「間に合えばいいんじゃない?」と言う。「私たちい~、受験が控えてるしい~」ねええ!と互いの顔を寄せ合う始末だ。これは、進学組にも就職組にも属さない花音に対する当てつけだと分かった花音は 「そーですよね!」と、冷ややかに突き放して背を向けた。 「やりたくないなら、やらなきゃいいのに!大体いちゃつくな!」と言ってやりたかったが、花音の方もそれ程熱意があった訳じゃないから、エラそうな事は言えない。

花音はいよいよ最終仕上げにかかっている。今製作中の物を納めれば花音のノルマは完了だ。あとは本番の日にセッテイングを手伝えば終了! 花音は一応リーダーの熱意に応える意味で、図書室から「ロミオとジュリエット」を借りて読んでみた。

甘々の恋愛物語と思っていたら、二人共宿命的な悲劇に翻弄されて死んでしまうと云う花音にとっては後味の悪い結末だった。個人の生き方より「血統」を重んじる世界観が花音には理解できない。

夜7時。花音は3時間以上も根を詰めていた事に驚いた。これで終わりという気持ちがモチベーションアップになったらしい。私もなかなかのものだと自分で自分を褒めてみる。花音は部屋を片付けながら晩御飯の事を考えた。大抵は冷凍チキンに野菜サラダ。時々スーパーで仕入れてくるおにぎりと惣菜だ。スーパーの方が量が多くて割安感があるので、なるべくコンビニよりスーパーを利用する。自炊は一切しない。母と前田は完全に外食だからだが、面倒くさいが本音である。。二人には指定されたコーヒーとインスタント食品を常備しておけばいい。花音にとってこの部分だけはストレスフリーである。花音自身も相当偏った食生活である事は自覚してるが、今の時点で変えるつもりはない。


簡素な夕ご飯を終えて、ちゃぶ台と完成した美術品を部屋の隅に移動させてから布団を敷いて、枕カバーを替えていた時、花音は違和感を覚えた。影が動いたような…

立ち上がろうとした花音の膝が崩れて両肩に圧力がかかったが、羽交い絞めされる寸前に花音は丁度手に届いたラジカセで、どこかは解らぬがぶん殴って圧力を解いた。


睨み合う花音と前田。前田の身長は170センチ前後で瘦せ型だが、仕事柄身が軽くすばしっこい。多分力もある。だが、花音は突破できない程ではないと踏んでいた。

花音も160センチ近い身長と、やや太めの60キロの体重がある。この武器で思いっきり体当たりを喰らわしたら……と、身構えた時、玄関のチャイムがなった。物音がして人の話し声もする。前田は忌々し気に 「いま行くよ‼」と怒鳴った。

しばらく玄関先で話し声がしていたが、やがて走り去る車の音も聞こえなくなってから、花音の体が震え出した。腰が抜けてへたり込んだまま、暫く動く事も出来なかった。先程までの闘ってやるぞ!の花音は何処かに行ってしまったらしい。花音は動悸が収まるのを待って先ず母に電話した。出ない。出る訳がない。

出ないと分かっていても、やはり心のどこかで母を頼っている。花音は、未だ母に対する情念の狭間を彷徨っている。

姉の詩織が勤務中で出られない時は留守電にメッセージを残す。留守電でも構わない!花音は、前田がすぐに戻るのではないかと恐れるあまり、何度も番号を間違えた。震えの止まらない手で受話器を握り、祈る。ひたすら祈る。

祈りは通じた。詩織は夜勤で病院だったが、丁度休憩に入るところだった。

詩織の指示は、母が戻るまで3時間以上もある。10時頃まで駅チカのコンビニをハシゴして時間を潰す事。幸いコンビニは6店舗程ある。身の回りの物は家に戻ってから。母にはキチンと話して…と云うところで詩織の言葉が途切れた。

花音には、この沈黙がとても長く感じられたが、やがて、詩織は気を取り直した様に話し出した。詩織の夜勤明けは8時である。母が出かける9時半には間に合う。これから翔に連絡して協力してもらう様頼んでみる。そう言うと時間だからと言って電話を切った。力強い詩織の言葉を聞いて花音は安心した。とにかくすぐにこの場所から離れなければならない。

花音は厚手のトレーナーの上に、上下 学校のジャージを着込んで夜の外へ飛び出した。


花音が家に戻ったのは11時少し前で、母は帰宅していた。ダイニングテーブルで一人煙草を吸っていた。母が煙草を始めたのはいつか? などと頭の隅で考えながら花音が小さな声で「ただいま…」と声を掛けると、「着信があったから、何度も電話したんだけど…何の用事だったの?」「学校祭が近いから…工作の催促がなかったかどうか確認したかったから…」母は最後の煙を吐き出すと「学校からは何もなかった」と言った。母の無機質に近い態度は今始まった事ではないが、高校入学で揉めた当時、花音が口走った言葉が尾を引いているらしく、あれからというもの花音との会話は必要最小限である。今も、何処に行っていたのかとは聞かない。

花音は、部屋に戻ると急いで身の回りの物を、絹代の遺品分けに貰ったキャリーバッグに詰め込んだ。絹代とはよく、このキャリーを引いて公園に出掛けた。思い出の詰まったキャリーである。

明日、ここを出て行く事を母に言うべきか…花音は迷っていた。少なくとも姉の詩織は勧めていないと解る。あの沈黙が語っているし、詩織が「母も信用できない」と花音に漏らした事があるからだ。しかし、花音は詩織の様には吹っ切れない。母が父の借金の為に苦しんでいるのも事実なのだ。たとえ、こうなった原因が母にあるとしても、母の借金地獄を見て見ぬふりなど…

やはり、話そうと花音がダイニングに入っていくと、母が物凄い形相で電話しているところだった。声は低く抑えられているが、顔つきは真逆で不愉快な電話である事は容易に想像できる。花音は電話が終わるのを待っていたが、玄関先の物音で跳ね上がる様に部屋に引き返した。花音は襖に耳を押し付けて、ダイニングから聞こえてくる会話に全神経を集中した。

前田の声は聞き取れないが、母が不満を言っているのは分かる。「いつもこうなんだよー!」とか、「やってらんないんだよねー‼」するとそれまで聞こえなかった前田の声が響いた。「うるせぇ!俺も明日は5時起きで一日作業なんだよ!」

これを聞いた花音は安心した。つまり、明日、前田は終日居ない事になる。花音は心の中で「よし!」と叫び、いつか仕返ししてやるぞ!クズ野郎‼と呟いた。


翌朝、花音は7時に目が覚めた。夜中に何度も目が覚めて殆ど眠れなかったせいか、前田が5時頃起きてゴソゴソしている音を聞きながら、5時半に玄関ドアを閉める音を確認した後、安心したせいか深く眠り込んだらしい。

花音は、まだ眠っている母を起こさぬ様ダイニングに行って二日前に買っておいたヨーグルトと菓子パンを部屋に持ち込んだ。

今日と明日は学校祭の準備日で授業はない。明後日の本番に向けてのリハーサルがあるだけだ。演劇を彩る苦労のたまものは明日の午前中に届ければ間に合う。

絹代の形見になってしまったラジカセは勿論持っていく。

ラジカセ本体には絹代とのツーショット写真がビッシリ貼られている。中でも、公園の野外ステージのショットが花音の一番のお気に入りだ。舞い散る桜の花びらと柔らかな陽光をバックに撮ったこの一枚は本当の祖母と孫娘の様だからである。

野外ステージのすぐ近くに、多目的トイレがあったのも良かった。絹代が嫌った和式トイレの他に洋式トイレが設置されていた事で、のびのびと過ごすことが出来たからだ。

花音はラジオを聴きながら絹代との思い出に耽っていた時、ふと、母の物音がしない事に気付いた。いつもなら騒々しい位バタバタ走り回っている母の気配がないのだ。

不安に駆られた花音の予想は当たった。母と前田の寝室は戸を開け放してある。

花音は不覚にも、朝起きてダイニングに行った時も、戻った時も母はまだ寝ているとの思い込みで全く気に掛けなかった。昨夜、声音は平静さを装いながら憎々し気な表情で電話で話していたのは急なシフト変更で怒っていたからだろう。こういう事はこれまでも何度もあった。それでも母には従うしか選択肢がない。花音が母を不憫に思うのはこういう時だ。世の中は結局母の様な弱い立場の者にしわ寄せが来る仕組みなのだ。

それにしても…一言くらい言ってくれても…この仕打ちもアノ爆弾発言の仕返し?

いや、今は感傷に浸っている場合ではない。時刻は8時を回っている。

前田の帰宅予定が夜だとしても、もし、突然予定が変わったら?現にそういう事が何度かあった。 ブレーキのない家に一人は怖すぎる。花音があれこれ考えを巡らせていた時ダイニングの電話が鳴った。出ようかどうか迷ったが、詩織かもしれない。母かも…と思い直し受話器を取った。しかし同時にベルの音も消えた。花音は学校の一部の生徒から「イエデンコ」と陰口をたたかれているのは知っていた。これも花音を有名人にしている一つの要因だ。花音は今ほど携帯を、喉から手が出る程欲しいと思った事はない。

再びのベルの音で、今度は躊躇なく受話器を取った。「もしもし…」お姉ちゃん?と言いかけたが辛うじてセーブした。応答がない。花音は数秒 間をおいて再び「もしもし」と問いかけたが応答はなくプツンと切れた。花音の手から受話器が滑り落ちた。正体不明の相手が電話を切る間際、聞き慣れた不愉快な鼻歌が花音の耳を捉えていたからだ。

花音は部屋に取って返し、キャリーバッグとラジカセだけを手に取り部屋を飛び出した。チラと学校祭の備品が目に入ったが今はそれどころではない!

「逃げろ‼」と本能が叫んでいる!

突然 前田が姿を現わしたのは、正に花音が玄関ドアに手を掛けたタイミングだった。前田の動きは素早かった。入るなり花音の口元を押さえ、金属バットで体を押し戻していく。花音は大声で叫びながらラジカセを振り回したが、ラジカセはあっけなく振り払われ喉元に金属バットを押し付けられた。前田はバットで花音の喉を突きながら部屋に押し戻していった。花音は咄嗟に身を翻して部屋の窓に走った。窓を開けて外に飛び出すか大声で叫べばと思ったが、その思考は背中に走った衝撃で打ち砕かれてしまった。前田は、窓の下でうずくまる花音の体を部屋の中程まで引きずり仰向けにすると、馬乗りになって平手打ちを二発飛ばした。「てめえ、生意気なんだよ!何を見たって?何を知ってるんだ⁈ 言ってみろよ!コラア‼」 花音はありったけの剝き出しの憎悪と怒りで応え、再び二発平手打ちを喰らった。

「オマエ、恩返しの鶴って知ってるか? シオリはな、ちゃんとギリを果たして出て行ったんだよ、オマエも出て行く前に…」花音は怒りの力で前田の腕を振りほどき肩に嚙みついた。前田が一瞬怯んだ隙に身体を撥ね退けたが、態勢を戻す間も無く足を掴まれ、再び床に転がされると馬乗りになった前田の、今度は平手打ちではない拳が花音の顔面に振り下ろされ、激しい衝撃波に花音は気を失いかけた。


花音の顔面は自らの血で染められ、生温かい液体が首周りに伝ってくるのを花音は感じていた。意識はある様だった。

「おとなしくしねえから…」前田が言い終わらぬうちに、花音は血の混じった唾を前田の顔に吐きかけた。間髪入れず花音の顔面に鋭い衝撃が走る。最早 声も出なくなった惨めな喉はヒューヒュー虚しく泣くばかりである。

グッタリした花音に更にダメ出しのパンチが飛んできた。一瞬花音の意識が飛んだ時、    ―――のんちゃん のんちゃん―――

朦朧とする花音の意識の中で聞こえてきたのは絹代の声だった。しかも耳元で。

抵抗ができなくなった花音に跨っていた前田は、花音の衣服を剝ぎ取るが、花音にはもう抗う力が残っていなかった。身体がピクリともしない。花音は痛みの感覚を失っている目を閉じた。もはや成す術はない、と。

だが、前田がズボンのベルトを外して脱ぐ動作に入った時、コツコツ窓ガラスを叩く音がした。その音は失神寸前の花音の耳にも届いた。

音は叩くごとに大きくなり前田の動作を止めた。近所のお節介かと、舌打ちしながら窓に目を向けた前田は総毛だった。窓を覗いていたのは白髪(はくはつ)の老女。花音のラジカセにベタベタ貼り付けてある、アノ老女だった。

前田は訳が分からず、慌てて花音の身体から離れた瞬間、前田の目の前に窓ガラスをすり抜けた老女が行く手を阻んだ。度肝を抜かれた前田が逃げようとしても、老女の体から発する白いスジ状のモノが変幻自在に形を変えて襲ってくる。

攻防の末、前田は遂にへたり込んだ。振り払おうとしても、足で蹴り上げても手応えと云うものが一切ないのだ。隙を見て逃げようとする前田の心の中を見透かす様に老女が立ちはだかり何度も何度も前田の体を投げ飛ばした。


花音は遠のく意識の中で、前田がナニかと格闘している音を聞いていた。 それもやがて、バタバタと走る音を最後に物音ひとつしなくなった。

静まり返った部屋の中で、全裸にされた花音が限界と闘いながら、剝ぎ取られた衣服を手探りで手繰り寄せ裸体を覆った。

もう絹代の声は聞こえないが、絹代は約束通り助けに来てくれた。絹代が言っていた「ファイト」に立ち向かえたかどうかは分からないが。徐々に遠のいていく意識の中で、このまま死んでしまうかもしれないと思った時、身体がガクガク震え出した。


天井で白いものが揺らめいている。視覚ではなく殆ど感覚である。花音の意識が僅かに覚醒した。徐々に拡がる視界が捉えたもの。捉えようのないスジ状の白いもの。しかし、花音には確信があった。 それは、猫。 ―――純白の猫―――

花音の確信通り、白いスジ状はゆっくりと猫の姿に変化し、息も絶え絶えの花音の顔を覗き込んだ。そして、純白の猫と花音の眼差しが交錯した刹那、花音の全身に電流が流れ、身体がフワリ浮き上がった。と、同時に、純白の猫は花音の身体の中に姿を消した。  花音の意識はここで途絶えた。


前田はズボンを剝ぎ取られトランクス一枚の姿で外に放り投げられた。奇声をあげながら下り坂を疾走して来る前田に、行き交う人々は狂人に道を譲り ただ呆然と見送るだけだった。

狂人と化して下り坂を疾走する前田。その坂をバイクで登って来たのが詩織と翔である。バイクの方が渋滞に巻き込まれる確率が低いという事でのチョイスだったが、

正解だった。狭くて曲がりくねった道路だが、大型バスも運行する為 脇道を走る自転車もバイクもゴッチャになってスローペースだ。しかしこれが幸いして、詩織は早い段階で前田の異様な姿をキャッチできた。翔にエンジンを止めてもらい、バイクから飛び降りた詩織は、ヘルメットを脱ぐと眼の前に迫る前田の膝辺りを思いっ切り殴り付けた。前田はもんどりうって転がったが、すぐに立ち上がり奇声をあげて走り出した。たった今の衝撃で片足走りだが。

詩織は、この時はまだ前田が狂人と化している事には気付かなかったが、背を丸めて片足で走る姿にはただならぬモノを感じ取っていた。

下り坂の右側に20段程の石段がある。この辺りの地域的な特徴で駅への近道である。前田が突然右に舵を切って石段を下り始めたが、詩織と翔はここで不思議な光景を目撃した。

前田が石段に足をかけた瞬間、前田の体が首根っこを掴まれた様に浮き上がったかと思えば、即座に石段に叩きつけられているのだ。しかも一段一段。

終いには跳ねる様に転げ落ちていく。階段の下でベビーカーを揺すりながらおしゃべりしていた二人の母親が悲鳴をあげて左右に分かれた。

花音の身に途轍もない事が起きたのは疑いようがない。詩織は走り出した。

翔も詩織の後を追ったが、立ち去る前に階段下を覗いて見た。左右に分かれた母親たちとベビーカーの間で前田が泣き喚いている。

「…生きてんのか…」翔はボソリ呟くと詩織の後に続いた。


母の里美が慌てて帰宅したのは、三人が家を出ようとした時だった。

詩織と翔は、先ずタクシーを手配して近隣の中型病院に駆け込んだ。救急車を呼ばなかったのは、花音が詩織の呼びかけに応える形で目を覚まし、事の顛末を話せたからだが、骨折の有無だけは調べておく必要がある。翔は二人をタクシーに乗せると町田のアパートまでバイクを駆った。とんぼ返りで車に乗り換え姉妹が駆け込んだ病院へと向かう。幸い、花音に骨折はなかったが、病院側から事件を疑われ ――実際 事件だが―― あれこれ厳しい質問を浴びる羽目になって三人を悩ませた。事実を隠しながらの説明は文字通り、しどろもどろ状態だったが、花音のしっかりした話しぶりと翔と詩織の身分が功を奏し何とか解放された。後で学校か警察に通報されるかも知れないが、その時はまた祖父母に頭を下げねばなるまい、と翔は考えていた。

家に戻って、花音の身の回りの物と学校祭の工作を車に積み込んで 出ようとしたところで母が帰って来たのである。里美に連絡したのは詩織だが、前田がどこの病院に搬送されたのか調べたのは翔である。近隣の警察署交通課に前田の家族を装い問い合わせた。

前田の状態は、命に別条はなさそうだが あちこち複雑骨折しているらしい。詩織と翔は そりゃあそうだろうと顔を見合わせた。あれだけ叩き付けられて終いには突き落とされたんだ。生きてるのが不思議なくらいだ。

「だけどねえ…」里美が暗い声で続ける。気が狂った様に泣き叫んで訳の分からない事ばかり言うから警察も病院も持て余しちゃってる。里美は言いながら、病院から指示されたと思われる生活用品を紙袋に詰めている。

翔がゆらりと動いた。 アタフタしながら出掛けようとする里美の前に立ちはだかって、一メートル幅の寝室の出入口を翔の長い手足が塞いだ。

「何のマネ‼」 里美の顔が険しくなる。「どいてよ!急いでるんだから‼」しかし、翔の体を動かそうにもビクともしない。 「もう―――っ‼何なのアンタラ――‼」 「ショウさん、いいよもう…時間の無駄」詩織の落ち着いた声で里美の怒りは倍増した。しかし、詩織に目を向けた時、里美は初めて花音の異変に気付いた。

花音が頭からすっぽりバスタオルを被っていたせいで気づけなかったのである。

タオルを外した花音の変わり果てた姿に里美は息をのんだ。その暴力がどれ程のものだったか容易に想像出来たからである。 狼狽える里美に翔がボソリと言った。

「知ってたね、シオリの事」

里美は答えなかった。答える代わりに抱えていた紙袋と共に床に崩れ落ちた。


花音の心の傷はともかく、外傷は日を追うごとに回復していった。今回も翔の祖父母からの多角的な援助で卒業までは町田のアパートで過ごし、その後は詩織の異動も相まり、住居を三鷹に変えた。


前田は完全な狂人となり精神病院に隔離された。一日中、口角泡まみれで呂律が回らず聞き取れない単語を発している。「キヌ」なのか「イヌ」なのか「キウ」なのか。

時折、傍からは見えないナニかを払う様に手足を振り回し、部屋の隅で縮こまって泣き叫んでいると思ったら、床に頭突きを繰り返し流血騒ぎを起こす。

頻繫に流血騒ぎを起こす狂人前田に対し、病院側は頭に防具を装着させたが、投薬治療に拍車がかかったのは致し方ないだろう。


ほぼ同時期。失踪したとされていた姉妹の父、安藤忠志の遺体が神奈川県立四季の森公園内で発見された。失踪から約10年。死体は風化され僅かな骨片が残されていただけだが、骨片の下にプラスチック製のケースが埋まっていた。ケースの中にはラミネート加工されたカードが入っていて、「アンドウ タダシ」と刻印されている。

遺体が発見されたのは偶然だった。公園内の野外ステージで映画の撮影があった。

この映画のヒロインが、野外ステージから北口の池まで全力疾走するシーンがあった。特別な使用許可がおりて、何度かテスト飛行を試みたところ、機械にアクシデントが起きてしまい、操縦不能になったドローンが森の中に突っ込んでしまった。

北口と南口の間、遊歩道の辺りだった。

公園の管理事務所の許可を得て、映画のスタッフが森に入り手分けして探していたところ、スタッフの一人が小道具の様な骨片を発見した。この辺りに生息する小動物に掘り起こされたのか狭い範囲で散らばっていた。


やがて事件は急展開する。里美の自首、出頭である。

里美は狂人となった前田の姿を見て作戦を変えた。行方不明となっていた元夫が遺体で発見されたとなれば、いづれ、警察は任意の事情聴取を装い身辺を嗅ぎまわってくる。花音が見たと言っているのはあくまでも不確かな事象で、実際に運転席が見えていた訳ではない。前田との不倫はバレるが仕方がない。こうなったら先手を打って上手く立ち回った方がメリットがある。肝心の前田はアノ通りの廃人だ。この際丸ごと罪を背負ってもらおう。アノ男にはそれだけの贖罪の理由がある。詩織が前田とただならぬ仲だったのは知っていた。前田に詰め寄ると、のらりくらり逃げ回っていたが、里美の執拗な追求に辟易したのか遂に口を割った。「アイツから誘ったんだ」などと、有り得ない言い逃れをしたもんで、更に問い詰めると 判で押した様ないつもの脅し文句だ。クソ野郎‼ 正直、詩織が出て行ってくれてホッとした。アノ男に凌辱され続けるのは余りにも…できれば、花音も一緒に出て行って欲しかった。常に目を光らせていないと花音もいづれは狙われるのは解っていたから。前田に立て替えてもらった闇金の返済はもう少しだったが、もう必要ない。前田には生命保険を掛けている。引っ越してきた当時はまだ前田と里美が仲睦まじい頃で可能だったのである。

しかし二年と持たず、前田は生来の女狩りの道に戻っていった。頻繫に相手を変えては、その都度無心を繰り返し、断ると例の如く脅してくる。前田は中学の頃から問題児で有名だった。川崎市のとある地域で、電気工事を請け負う会社の次男坊として生まれた前田。中学一年から地元の悪い集団とつるみ恐喝、窃盗を繰り返していた。

それでも何とか電気技師養成学校に入れてもらい、暫くは大人しかったが、ある日を境に実家から絶縁されてしまう。前田の実家でボヤ騒ぎがあった頃だったので内情に詳しい者には語らずとも…と云うのが専らの評判だった。警察事にはしなかったが、それ以降前田の姿は見られなくなった。前田二十歳の時である。

里美が前田と別れられなかったのは、元夫との絡みと、それによって生じた闇金の整理である。

里美はつくづく思う。前田と自分は似た者同士だと。どちらも凡そ「情」と云うものが欠落している。里美も子供の頃から家族との折り合いが悪く孤立していた。実際は里美の一人よがりなのだが。寧ろ家族の方が里美に気を遣って神経をすり減らしていたのである。変化が起きたのは里美の兄に嫁いできた女性が聡明だったことだ。

里美はこの兄嫁が嫌いだった。新風を運んできた兄嫁に対抗する様に、里美も大学卒業後 輸入雑貨を扱う商社に就職して僅か半年で結婚を決めてしまった。

会社の7年先輩である「安藤忠志」は見栄えはソコソコの中堅社員だったが、優しくて周りの評判も良かった。何より、我儘を寛容に受け止めてくれる事が決め手だった。


安藤忠志が多額の借金を抱えていたのは事実である。

元同僚の先輩と二人で輸入雑貨を扱う会社を興し、地道に販路を拡大し、軌道に乗ったかに見えた頃、元同僚の先輩が引き起こした詐欺事件に巻き込まれ、会社の代表であった安藤が責任を追求された。悪いことに海外の悪質なシンジゲートが絡んだ案件で、下手すれば命の保証がない。そんな最中(さなか)、張本人の先輩はそれこそ家族を捨てて女と行方をくらましてしまった。 取引のあった銀行からは門前払い。親戚、友人に頭を下げてまわり金を搔き集めたが借財の半分にも満たなかった。

安藤に降りかかった厄災に、助けの手を差し伸べてくれた人々の伝手で、警備会社、物流センター、便利屋…とできる事は何でもやったが、資金繰りの悪化は簡単に改善される訳もなく、支払い期日が迫ったある日、遂に闇金に手を出してしまった。

闇金もまた、海外ブローカーに劣らず取り立ては過酷だった。これ以上は共倒れになる、無理だと悟った安藤は自宅を売却した。守りたかった城だが…自宅を手放すことを里美に告げるとギクシャクしていた夫婦間は益々悪化した。里美は最初 「アンタがマヌケだから!」と聞く耳を持たなかった。とは云え、支払いが滞れば結果は火を見るよりも明らかだ。里美は承知せざるを得なかった。


ある日、安藤はマチ中から相当離れている格安の物件を紹介されたと言った。

元は農家だったが、跡継ぎもない事から手放した一軒家である。解体するには大金がかかるので、タダ同然でも人が入ってくれれば、と云う訳だ。畑は20年も前に貸地としてあるが未だ借り手がないらしい。

里美は物件を見て愕然とした。先ず、古い。こういった古民家風の建物が好きな人には堪らないだろうが、かなり不便だ。不便極まりない。いくらタダ同然でもこれはないだろうと里美は呆れた。今日の下見には親しくなった電気技師が車を提供してくれたからいいものの、実際の生活はかなり厳しいと言う里美に 「知り合いが自転車を譲ってくれるし、少し歩けばバスだって…」 バス停まで優に30分かかる。

里美はカッとなった。 「寝言言ってんじゃないわよ!誰がこんな所!絶対いやよ‼」 「…暫くの辛抱だよ。頼むよ里美」 「嫌だって!」 「じゃ、どうすれば…」「私の身にもなってよ!、毎日毎日誰かの催促と嫌味を聞かされて、もお――っ、どうにかなりそう!」「スマナイと思ってるよ。ホント。だから一日も早く…」

「もうたくさん‼」 言った切り、里美は険しい顔でそっぽを向いたまま、安藤が何を言っても応じない。

日々仕事に追われている安藤にとって今日は貴重な休みである。翌日からは又厳しいスケジュールで動き回らなければならない。今日中に決着をつけたい安藤は一旦頭を冷やすべく、此処へ来る途中見かけた飲料水の自販機まで戻った。バス停の近くである。安藤は水を二本買うと、件の物件近くまで車を走らせた。

だが、里美の怒りは落ち着くどころか、より激しさが増していた。夫を罵るだけではなく、夫の両親、兄弟、親戚に至るまで口を極めて罵り、「なんで、アンタみたいなマヌケと結婚なんかしちゃったんだろ!」 しつこい里美の攻撃に普段温厚な安藤も流石にムカっ腹を立て、激しい口論へと発展していった。

安藤がどんなに謝っても、再起を約束しても、里美は聞く耳を持っていなかった。

自分のプライドが傷ついた事ばかり言って泣き喚く里美に、安藤は時間の浪費に辟易した。  ――里美は、こんな女だったのか――  妻は、里美は自分に対し情愛の欠片も無い事実を、今、証明している。非情を突き付けているのだ。

安藤は水を一口喉に流し込むと車を降りた。里美の正体を見抜いた虚無感で眩暈がしそうだった。車を降りた安藤はフラフラしながら歩き出した。歩きながら今後の対応を練った。自殺も含めて。

歩き回っているうち実際に眩暈を覚え、暫く道なき道端に座り込んでいた。立つとクラクラしたが、とにかく車に戻ろうと道の中程に出た時、車が突進して来た。

かわす間もなく安藤の体は撥ね飛ばされていた。運悪く、道標の役割を担っているコンクリートブロックに頭を打ち付けられた。救急搬送されていれば助かったかもしれないが、里美はしなかった。

里美が、安藤を殺そうとして車を発進させた訳ではないのは事実だ。暫く待っても戻らない安藤に 「それなら歩いて帰ればいい!」と思いアクセルを踏んだに過ぎない。里美はパニックになりながらも一生懸命考えた。急がなければならない。

先ずは、車のバックドアを開けて夫の身体を押し込んだ。何故、自分にこんな力があるのか考える間も無く、次は…次は…夫と一緒に撥ね飛ばしたペットボトルを回収して、血のついたブロックを洗い流す。車の中から未開封の自分のボトルも取り出してブロックの周りを洗い流す。次は…次は…里美の頭の中に救急車の選択は無い。

そんな事をしたら……殺そうと思った訳じゃない。アノ人が飛び出してきたから。

悪いのはアノ人じゃない! 事故なのに!こんなヘタレの為に私の人生は…


里美から事情を聞いた前田は啞然とした表情で、今からでも救急車を呼べと説得したが、里美はガンとして、もう遅いと言って引き下がらない。安藤は既に死んでいたのだ。「俺は関係ない!」と言って逃げ腰の前田にこう言って脅した。 「この車、アンタのよ。アンタが轢き殺したって言う!アンタ、色々やってきてるでしょ!」 荒唐無稽だが、この脅しは有効だった。前田は里美の言う通り警察とは関わりたくない。里美の体を抱きながら、つい数々の武勇伝をひけらかした事が仇になってしまった。叩けば埃出まくりの前田にとって警察は最も厄介な相手である。

逡巡する前田の様子を見て里美は畳みかけた。「引き受けてくれたら一生アンタに尽くす!アンタがこれから誰かと家庭を持っても、死ぬまで、今日の口止め料を払い続ける!」 だからお願い!と懇願する里美の顔をチラチラ見ながら前田は考えた。

前田は、日雇いの仕事で何度か安藤と顔を合わせるうち、現場に向かう途中など安藤の家に寄る事もあり、里美とも親しくなった。前田は付き合っていた女と別れたばかりで、里美は格好のハケ口だった。初めこそ安藤に後ろめたさを感じていたが、むしゃぶりついてくる里美と肉体を重ねるうち、そんな負の感情は跡形もなく消え去っていった。


前田は、安藤の遺体を請負でよく出入りする公園内に遺棄した。

広大な公園は数年ごとに緑地整備の手が入る。区画別の整備で、一旦整備が終わると5年以上、余程の事がない限り整備の手が入る事はない。

四季の森公園、野外ステージの北側は半年前に整備されたばかりで、この先何年かは心配ない。一見、見通しが良さげで人目がつきそうだが、前田は逆転の発想でこの場所を選んだ。この森に生息する鳥獣保護の観点から、あちこちに「足の踏み入れ厳禁」と警告メッセージが立てかけてある。余程の事がない限り一般人が足を踏み入れる事はないはずだ。

前田は、実際に現在進行中の現場に通称「ネコ」と呼ばれる一輪車に安藤の遺体を載せて乗り込んだ。黒いポリ袋に遺体を押し込め、上に電気コードを山ほど積んで、更にトラロープ、スコップ、三角コーンと準備万端で臨んだ。前田は、休憩時間を待ってこれらの道具を移動させた。清掃の作業員も休憩時間である事は確認済だ。

樹々の生い茂った中腹まで死体とスコップだけを運び、後は何食わぬ顔で現場に戻り夜になるのを待った。


穴堀りの作業は思いのほか時間がかかった。死体がくの字に硬直していた為、幅広く深く掘らなければならなかったからだ。10月半ばの夜間と云えば寒い日もあるくらいだが、前田の体は全身シャワーを浴びた様に汗で濡れそぼっていた。穴を掘り終えて一旦手を休め、いつも後ろポケットに突っ込んでいるタオルで汗だくになった顔や首を拭いているうち、やはり、後ろポケットに突っ込んでいたカードが穴の中に落ちたのだが、前田は気付かず穴の中へ死体を投げ入れ土を被せた。

落ちたカードは、安藤の死体を袋詰めにする前 所持品を整理していた時出てきた物だ。前田は後々処分するつもりで、慣習になっている作業ズボンの後ろポケットにしまい込んだのだが、前田にして、死体の処理など初めての事で気が動転していた為、そのままカードの存在自体を忘れてしまい、その後も思い出す事はなかったのである。


花音は二十歳になった。

母の裁判はまだ続いている。弁護士から母の情状証人として法廷に立つ様 何度も要請が来ているが、花音は詩織同様拒否し続けている。しかし、今後裁判所からの召喚には応じざるを得まい。それも近いうちに。その時はその時だ。花音は母に対する愛憎まみれの感情と向き合いながら、ともすれば埋もれそうになる自分を励まし、父と絹代の面影を慕った。殺された父の無念さは計り知れないままだが、今更、母の答弁など聞きたくもない。母の答弁に真実など一つもない。ただ、父が殺されたと云う事実があるだけだ。

花音は絹代の面影を追う様に、今は絹代の生まれ故郷である北海道釧路市の老人ホームで働いている。

そして今でも、絹代の形見であるキャリーバッグとラジカセを大事にしている。


花音は久々の休暇で羽田に降り立ち、詩織や翔と再会した翌日 思い出深い公園に足を運んだ。

野外ステージの階段に腰掛けて辺りを見渡す。

たくさんの親子連れ。犬を連れたカップル。散策とおしゃべりを楽しむ老婦人の輪。

花音は思う。

この公園で絹代と出会えたのは偶然ではない。導かれたのだと。

今、自分が座っている近くで父が横たわっていた事を考えれば、絹代を守ってきた「守護神」が導いてくれたのだと思う。ケダモノから受けた壮絶な暴力。暴力から救ってくれた絹代。そして、絹代がケダモノに与えた罰は、考え様によっては 「死」よりも残酷だ。

花音は絹代と過ごした日々を愛おしく回想しながら、左肩にそっと触れてみた。

花音は「守護神」の存在を固く信じている。アノ時、確かに「守護神」は自分の中に入ったはずである。ハッキリ覚えている。時々、壮絶な暴力の爪痕が引き起こすナイトメアに苦しめられる夜もあるが、そんな時はファイト!と口に出して言う。

負けない、負ける気はしない。

「守護神」を信じているから。




















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ナイトメア ファイト!! @0074889

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