ナイトメア ファイト‼ 中編 クライベイビー 遠之えみ
花音が絹代の物語を聞いたり 花音自身の話――主に学校での出来事――を聞いてもらったりするのに訪れる時間帯は大概夕方近くだったが、この日、花音が訪れたのは深夜である。
絹代は40代の頃から酷い不眠症に悩まされていて あるものが手放せないでいた。
人の話し声である。朗読のCDを百枚近く持っていて 代わる代わる聞いている。何故眠るのに人の話し声なのか分からないが、ボリュウームを絞って聞き入っているうちに 何時の間にか寝入ってしまう。但し、この魔法は1~2時間で解かれる脆いものだ。目が覚めたら、又CDのスイッチを入れる。有難い事に何度か繰り返しているうち暗闇の中でも手探りで操作が可能になっていた。今のデイスクは4台目だ。もっと便利な機能を備えた機器があるやに聞いてはいるが、絹代は今のままでいいと思っている。一時期睡眠導入剤を使用した事もあるが、絹代にとっては薬があっても効いて3時間、それ以上の熟睡は得られず、常習性を考えてスッパリ切り替えた。最初は音楽だったが、これは逆効果で眠れるどころか目が冴えてしまって大いに困った。困った絹代は今度はラジオを聴いてみたが、これも失敗だった。深夜番組に限らず、大半は音楽と必要以上に声を張ったCMのナレーションでうるさくて仕方がない。
しかし、偶然ゲスト出演者のトークが長引いた時など、微かに聞こえる程度の話し声が案外心地よく響いて、「ああ、この手があったか!」という次第で、朗読のCDに飛びつき現在に至っている。しかし、朗読といっても読み手によっては気分を逆撫でするものもあり なかなか難しい。
絹代がウトウトし出した時、玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に…」絹代は夏掛けの布団を脇に寄せると枕元に置いてある携帯電話を確認した。ひょっとして、息子から緊急のメールが来てるかもしれないと思ったからだが着信はない。だからといって息子が事前のアポ無しで、しかも夜中に来るとは考えずらい。思案してると又チャイムが鳴った。絹代は無視を決め込もうとしたが、三度チャイムが鳴ったことで諦めた。仕方なく起き上がりドアホンカメラに向かって「どなたですか?」と不機嫌に言った。カメラには誰も写っていない。もう一度「どなた?」とややキビシ目に問うと、「……か…のん…です」と消え入りそうな声がマイク越しに聞こえた。
絹代はアッと言って思わず両手で口を押さえた。
ドアを開けると花音が壁にもたれかかっていた。何時の間にか降り出した雨で、花音はびしょ濡れである。絹代は、取り敢えず濡れた衣服を脱ぐ様指示して 花音でも着られそうな よく伸びるパジャマとタオルケットを差し出した。冷房はついてるが設定温度は28度でスリープモードだ。寒くはないはずである。
タオルケットを頭からすっぽり被り泣きじゃくる花音。絹代は温かいココアを二人分用意して花音にすすめた。絹代は花音が泣き止むのをジッと待った。
やがて、温かいココアを口にした花音の頬に少しずつ色が差してくる。身体も温まったらしく、すっぽり被っていたタオルケットを少し緩めて ぼそぼそ話し出した。
「わたし、…アタマ悪いから…」絹代はココアを手に一瞬「え?」と云う表情を見せたが微かに首を横に傾けた。「お姉ちゃんに、気付けって…」絹代は静かに頷いた。
「今日…」絹代は再び頷く。「今日、…さっき、…ついさっき、お姉ちゃんが手首切って!」花音がテーブルに突っ伏し、ワッと泣き出す直前に絹代は辛うじて二つのカップを持ち上げていた。
花音の姉 詩織(しおり)は現在高校3年生である。
大学進学など望むべくもない環境だが、かと言って就職活動もしていない。進路指導の先生に相談するのも嫌で 卒業したら親戚が経営している不動産会社で雇ってもらいながら色々な資格を取得すると噓八百並べ立てている。
就きたい仕事が分からない。しかし、早くこの家から逃げ出したいと思っている。
なので、学校は惰性で行ってるがバイトは自立の為だから真剣そのものだ。
家事の大半は詩織が担っているので、いつも学校と家事とバイトでいっぱいいっぱいである。育児と家事に追われてくすみがちな印象が多い主婦さながら、詩織もどことなくくすんだ印象である。3つの仕事をかけ持つ母の代わりに家事全般と、学校帰りのバイトは勿論、日曜日は朝から夕方までコンビニで働き尽くめなのだった。
それでも、バイトは自立の為、自分の為だから苦にならない。ふわふわと漂う様に、いつも物憂げな妹の世話も焼きながら早く自由になりたいと思っているのだ。
父親が多額の借金を残し 突然消息を絶った事で残された家族の生活は より、良くない方向へと進んだのではないか?と遅まきながら実感している。
借金の肩代わりをしてくれた養父に対し、母の異常とも思える気の使いようが詩織の気持ちを一層イラだたせた。そして、ここに転がり込んで来た当時、夜中、廊下を隔てた隣室から獣の様な声が聞こえたり、ある時は母が養父から脅迫めいた脅し文句を投げつけられても 母は唯々ごめんなさいと謝るばかりで 詩織から見ればいいように操られているとしか思えなかった。それでも母は3つも掛け持ちの仕事をしながら、借金は確実に返しているはずだから 将来は…と、思う反面、母は一体何時どこでこの男と知り合ったのか…母は昔からの知り合いよ、と言っていたが疑念が拭えない。
大体、あの獣の様な声は何だ!近頃は滅多にないが、それでも思い出しただけでも吐き気がする! こんな所早く逃げ出したい!父があんな事にならなかったら、と、詩織はいつも母に対する疑念と浅ましさと同情がない交ぜになった感情をコントロールする事に疲れ切ってしまうのだった。いつも学校の制服か同じ色合いの地味な格好で、左右長さがちぐはぐなショートボブは、格安のカット専門店にすら行かず自分で鋏を入れているからだ。
そんな詩織の元に、ある日を境に およそ詩織には似つかわしくない性別不明の友人が頻繫に訪ねて来る様になった。
翔(しょう)と名乗るこの友人は、180センチ程の長身で服の上からでも窺える明らかな細マッチョで、端正な顔立ちと金髪に染めた髪が全体の雰囲気に馴染んだ様はスクリーンから抜け出したスターさながら輝いていた。
ところが、一応 養父と云う体の同居人、前田和幸が翔の出現以来 頻繫に暴言を吐く様になったのだ。「お前らはゴミだ!ゴミ以下だ!」「誰のお陰様でお前ら一つ屋根の下に暮らせる⁉ああっっ‼」これは前田の決まり文句だが、時には感情が沸点に達するとこんな事も口走る。「俺が出るとこに出りゃあなー…」引き攣った顔で詩織家族を嘗め回すが声は押し殺している。そして不思議なことにこれ以上は言った事がない。
詩織と翔の出会い事態は凡そ3年前だ。
詩織は将来のため高校入学と同時に 駅中のコンビニエンスストアでバイトを始めた。詩織と同時に面接を受けたのが当時大学2年の翔だった。翔は常に物静かで古参のパート主婦や同学年のバイト仲間とも仕事以外の話は殆どしないが、仕事に取り組む姿勢が抜群だった事で翔を悪く言う者は皆無だった。詩織とシフトが被る事も度々あったが、やはり仕事以外の話はした事がない。それが ある事をきっかけに二人の距離は劇的に縮まった。きっかけとなった日、詩織は午後からのバイトに遅刻した。
この店舗を事実上回しているのは数人のベテラン主婦である。大半の主婦バイトは夕方までのシフトだから、学生バイトの遅刻は非常に迷惑なのだ。とは云え、やむを得ず遅れる時、休む時は速やかに連絡を入れるのが鉄則だ。それなのに詩織は鉄則を破り2時間も遅刻した挙句、つまらないミスを繰り返した。小さな声で謝っては同じミスを繰り返す詩織に、詩織が無断で遅刻した為に、2時間以上もフォローせざるを得なくなった古参のパートが遂に怒りを露わにした。
バックヤードに呼び出され、散々𠮟責されていた時、すぐ傍で作業をしていたのが翔だった。翔はオーナーを筆頭に古参パートからの信頼も厚い存在だった事で、詩織を𠮟責していた古参のパートも、さすがに翔の目を気にしてか早々に解放してくれた。
夜10時。深夜のバイトと交代した詩織が駅前を歩いていた時、突然背後から腕を掴まれた。翔が立っていた。「話がある」と言う。イマイチ状況が掴めず怪訝な表情の詩織に翔は又短く言った。「話したい」 うるさそうにツッと顔を背け歩き出した詩織の後をヒョコヒョコついて来て更に言う。「話してよ」と肩を並べる。並べると云っても頭一つ分の差がある。「話してごらんよ。どんな話でも驚かないし受け止められるよ」
詩織はカッとなった。調子に乗って!アンタに何が分かるんだ‼落ち着き払って御大層な事を‼ 詩織は腹の中で散々毒づき、怒りで爆発しそうな頭を抱えフラフラ歩き続ける。足は自宅に向かっているが、家には帰りたくない。が、他に行くところがないから仕方なく帰る。10時を過ぎた商店街の人通りはまばらだ。カラオケ店の呼子が数少ないカップルに営業をかけている。詩織と翔をカップルと勘違いした呼子がアプローチをかけようと近付いた時、翔がさりげなく遮った。
とうとう、詩織はシャッターの下りたドラッグストアの前で動けなくなった。――重い、重い……重くて、重くて…もう歩けない ―― 詩織はゆらゆらと振り返り後ろから付いてきている翔を見つめた。詩織の救いを求める瞳を翔は力強い瞳で受け止めた。
翔と初めて会ったのはバイトの面接の日。忙しい店長の都合で二人同時に行われた。面接の席でオーナーは翔にこう言っていたと詩織は記憶している。
「横浜国大…ここで3店舗目か…ああ、引っ越しね、住まいは…」一応詩織の耳を気にしているらしくゴニョゴニョと誤魔化していた。詩織が「あ!」と思ったのはその後である。「スポーツとか、モデルさんとか、何か目指したりしてる?」 アッサリ首を横に振る翔にオーナーは「あ、そう?いやぁ、私なんか見ての通りコンマイ(小さい)から 大きな女性に憧れる部分があるんですよ」と笑った。セクハラじゃないですよ、と付け加える事も忘れずに。詩織はビックリした。女子⁈ 見た目は完全に男子なのに。チラチラと詩織は何度も翔を盗み見たのだが、どう見ても男子にしか見えない。それもそのはずで、この後、詩織が間違えるのも無理はない出来事が起きて、スタッフの間でちょっとした笑い話になったものだ。翔の正体を知らない若い女性客――大半は中高生――2~3人のグループが買い物するでもなく競う様に出入りする様になっていたからだ。どうやって調べるのか、ちゃんと翔の出勤日に限って現れるのだからオソロシイ。しかしこの現象は一時的なもので今は落ち着いている。あくまでも噂だが、どうも翔の素性を誰かがバラしたらしい、とか、学校に買い物の邪魔だと苦情が入った、とか、翔自身がわざとバラしたとか… 真相は藪の中である。
「藤森さん家の近くにパートさんがいるんだよ。ウソかホントか、よく色んな事を知っててさ」 先に沈黙を破ったのは翔の方だった。詩織の胃がキリキリし出した。
心の中で、きっと、ナニかを知っているのだと考えただけで、身裡から沸々と煮えたぎるモノがせり上がって来る。かつて無い程の怒りと恥辱が怒涛の如く押し寄せて来る。苦悶で顔を歪める詩織に翔が言った。
「取り敢えず話そうか?」詩織は、車除けのポールに腰から下を預けて落ち着き払っている翔の顔を見て殴り飛ばしたい衝動に駆られた。殴ってやろうか!と拳を握った時、翔が詩織を見つめ愁い顔で言った。
先に自分の事から話してもいいんだ、と。詩織は混乱した。
どういう事なのか分からず突っ立っている所へ すぐ近くの居酒屋から酔っぱらいの団体が騒がしく出て来た。男女入り乱れてけたたましい。酔っ払った熟年紳士が呂律の回らない声で○○ちゃ~んと呼べば、その呼びかけに嬉々として応える中年女子。
重苦しい空気が漂う翔と詩織の前を、賑やかに通り過ぎて行く。社交辞令か何か知らないけどよくやるよ!「平和ボケ‼」と詩織は小さな声で吐き捨てる。すると、一番後ろを歩いていた中年女子の一人が振り向き、「今、なんか言った?ガキのくせに!」詩織を睨んだが、それも一瞬で、すぐに団体の輪に吸い込まれていった。詩織は八つ当たりの悪口を聞かれ睨まれた事で、とても恥ずかしい気持ちになった。荒ぶれた感情も一瞬スッと消えてなくなる。更に不思議な事に、縺れながらも陽気に騒いで遠ざかって行く団体を見てるうち、詩織の心は先程までの荒々しさがすっかり影を潜めていた。
チラと、他人事の様に話してみようか?と思う。友達の体験として話せば……いや、翔はさっき、自分の事から話そうかと言った。私に比べたらつまらない、ユルい、どうでもいい話に違いないんだ。 でも、と詩織の心にまた少し荒々しさが戻ってきて意地悪な気持ちがグイっと首をもたげる。詩織は薄笑いを浮かべながら言った。
「先輩に何があるって言うんですか?」
堂林 翔 (どうばやし)は、レントゲン技師として大学病院に勤務する父と、母の実家が運営する弁護士事務所で、弁護士として働く母の間に生まれた。東京国立市で親子三人暮らしていたが、両親はいつも忙しく翔が生まれて三ヶ月後に母が仕事に復帰した為、家事と翔の世話は殆どが通いの家政婦とベビーシッター任せだった。
家庭よりキャリアを重んじる母の穴埋めに、吉祥寺の母の実家から祖母が頻繫に訪れて翔の相手をしてくれた。翔が二才になって保育園に行き出した頃、母が国際弁護士のキャリアを手に入れる為 アメリカへ留学した。周りの、特に母から(翔の祖母)の強い反対の声も届かず「1~2年の事だから」と押し通し強引に留学した。結局のところ5年かかったが、アメリカと日本を行き来しながら、それでも何とかキャリアを掴んだ。
国際弁護士と云う肩書きの威力は絶大で すぐにスポンサーのなり手が現れる。港区青山の一等地にスポンサー所有のビルに事務所を構え、やり手の弁護士として辣腕を振るう様に。これまでも殆ど家庭を省みる事などなかったが、翔にとっては生まれた時から、と云う妙に慣れ切った歪な環境である。いつも母が居ない事は当たり前でしかない。最初から存在していないと一緒で、母がいなくても寂しいと感じた事はない。極たまに、家政婦や小学生になるまで付き添ってくれたベビーシッターから、無理しないで、とか、涙目で、あまり頑張っちゃダメよ、とか言われた時など逆に不愉快な感情を持ったものだ。親切に言ってくれてるのかもしれないが、何も解っちゃいない、と云うのが翔の言い分である。
母とは毎日、モニター越しだが一応会話はしている。五分程の短い時間だが翔はこれでも長いと感じている。と云うのも母は常にせわしなく事務的に話す。しかも一方的だ。そう云う事も翔の気持ちを傷つける。翔が親しく話したいのは祖母である。祖母は今だに週三日程度は吉祥寺から来てくれる。翔にとっての母親は寧ろ祖母なのだ。
そしてもう一人。父親である。父は翔が赤ちゃんの頃から祖母と力を合わせて翔の成長を見守ってきた。生まれて間もなくは勿論、母が渡米した後は一晩も欠かさず翔を抱いて朝を迎える。今、翔は小学二年になったばかりだが、相変わらず父の腕に絡みついて眠っている。この頃から、祖母は翔に自立しなさいと注意するようになったが、翔は夜になると不安になり、枕を抱えて父のベッドに潜り込む事が多かった。ところが、祖母には勿論秘密にしたまま数年が経ち、翔が四年生になった時、その秘密は思いがけない形で暴露されそうになり心底翔を慌てさせた。
その日は授業参観の日で、いつも通り祖母の出番である。
参観は三時限目の社会科と四時限目のフリーワーク授業である。フリーワーク授業とは生徒各々が自由に発言したり、問題提起したりできる授業である。デイベート力も付くと云う事で学校側が積極的に取り入れている。
この日は翔の仲良しで「ユアちゃん」と云う子が当番だった。ユアちゃんが、皆さん
どう思いますか?と提起したのはこんな事である。
昨夜 お風呂に入っていたら突然父が乱入して来て大喧嘩になった。確かに、二年生くらいまで時々一緒に入る事はあったが、昨夜はとても気持ち悪いと感じた。父はどうやら、一年生になったばかりの妹と間違えたらしいと判ったが許せないと言う。
参観者は父親が僅か二名で後は担任含め全員母親である。このクラスは生徒数20名だから父親にとっては、欠席者一人を除いた18対2の厳しい状況だ。僅か二人の父親達はお互い顔を見合わせては苦笑いするばかりで所在なげだ。しかしながら、母親の間でも温度差があって笑いをかみ殺している母親もいれば、不快感を露わにする者、何故かドギマギしている母親がいる中で、翔は急いで祖母の顔色を盗み見たが、これが失敗だった。
祖母の目は真っ直ぐ翔を捉えていたからだ。祖母は少し口角を上げたが目は笑っていない。翔がわざわざ振り向いた事で、恐らく、勘のいい祖母は気付いたかもしれない。翔の動悸が早くなる。さらにユアちゃんが追い打ちをかけてくる。勿論ユアちゃんに悪意はない。悪意は皆無だが翔にとっては最悪だ。
二週間前、ユアちゃんが参観日にフリーワーク授業の当番日だが、何を話していいのか分からないから相談に乗ってほしいと言ってきた。
翔はその時確かに、教室のアドレスをなくすのはどうか?とアドバイスしたはずだ。いつも決められた席じゃなくて座りたい席に座る。その方が机の中に物を残さないと云うのが翔の考えだった。と、云うより翔自身が頻繫に机の中に置き土産をするからである。ユアちゃんもその時は大乗り気だったはずなのに、どこでどうしたのか、話はその後の二人だけの内緒話にすり替わっている。多分、昨夜の事件のせいだと思うが翔は気が気じゃない。もう、後ろを振り返る勇気もない。
「ついこの間もお友達と話したばかりですが、皆さんの中でまだお父さんと一緒にお風呂に入ったり一緒に寝たりしている人いますか?」翔は気分が悪くなるのを覚えたが、教室内がザワザワし出したのも同時だった。
二人の女子が挙手したからだ。気持ち悪くないですか?と問うユアちゃんに対し、一人は個人の自由ですと答え、もう一人はお父さんが大好きだし、親孝行のつもりですとあっけらかんと答えた。父母の間から笑いが起きる。
そうですか、、、そうですね!確かに個人の自由だし、と言いながらユアちゃんはここで爆弾を落としてくる。
「ところで、もう一人いるはずなんだけどなぁ、恥ずかしいのかな?」クラス中がえ?と云う空気に包まれた。まるで犯人探しの様にソワソワしながらユアちゃんの視線の先を追い出したところで、後方で父母に混じって様子を見ていた担任が手を叩きながら突然割込み遮った。「はい!そこまで!こういう問題はあくまで個人の自由だし極めてプライベートな問題です。突然お風呂に侵入してきたお父さんに嫌悪感を抱いたのは それだけ成長したと云う事でしょう。今、手を挙げてくれた二人も近々そんな日が来るかもしれない。来ないかもしれない。因みに先生は二年生まででした!父がとてもガッカリしていたことを思い出しました――‼」最後はおどけた調子だったので教室のあちこちから笑いが漏れる中、担任はキリッとした顔つきに戻り言った。「さて、もう一人のお当番の人お願いします。」かなり強引だが事実上の幕引きである。
ユアちゃんが不満を露わに、席に戻るとき後方の席に座る翔に顎をしゃくった。
ユアちゃんの目は真っ黒な空洞の様で翔の心を押しつぶした。
――二週間前――
「絶対!絶対!秘密だよ!」そう念を押して翔は話し出した。
生まれた時から今でも父に抱かれて眠りにつく事。お風呂では頭から足の先まで洗ってもらっている事。クラスメイトの二人が言った通り自分自身が納得していればいい話であるが、殊更秘密に拘ったのは二年も前に祖母から注意を受けながら、さも約束を守っているかの如く振る舞い続けている後ろめたさにある。大好きな祖母を裏切っていると云う背徳感がそうさせるのである。
その時のユアちゃんは大きな目を見開いて「お姫様と召使いみたい!」と言ったまま暫く黙り込んでしまったので、翔はとても不安になり話してしまった事を後悔した。
それでも、ユアちゃんが指切りげんまんしてくれた事で多少は安心して、話した事も不安になった事も 時間と共に記憶が薄らいでいった。
「今時の四年生って、半分はオトナなのね」学校帰り、翔は祖母のお供でケーキが美味しいと評判のカフェに立ち寄った。祖母は紅茶を口にしながら、さりげなく言った。「今日のお当番の女の子、思春期突入ね?翔ちゃんの仲良しでしょ?」翔はチョコレートケーキを食べながら頷いた。頷くしかない。首を横に振ったら勘繰られる。
翔はこの後の展開が気になって、折角のチョコレートケーキもまるで味がしない。
次に祖母が何を言い出すのか心配で堪らないので、ひたすら美味しいと言って渇いた喉に味のしないケーキを流し込んでいた。
しかし祖母はアッサリ話題を転じて 飼っているペットの事を話し出した。祖母の家は大家族である。弁護士事務所の跡目を継いだ長男家族と同居しているばかりか、見習いの弁護士二人、住み込みのお手伝いさん一人、別に通いのお手伝いさん一人。長男家族だけでも五人なのでいつも賑やかだ。しかも飼っているペットがそれぞれ違う。これが原因で度々プチ衝突が勃発する。いつだったか、祖母が可愛がっていたインコのフワちゃんを、嫁のお気に入りのシャム猫が手を出して大騒ぎになったのを翔は思い出していた。その後、祖母は取り敢えずは大人の対応で何事もなかったかのように振舞ってはいるが、翔の前では時折毒を孕んだ言葉で嫁とシャム猫をいじり倒す事もある。
翔は祖母の追及がなく、話がそういう事で一安心したが、後ろめたさは消えなかった。そして、もう一つの気がかりが翔に暗い影を落としている。何故、ユアちゃんは約束を破って急にあんな事を言い出したのか、、、
翔はユアちゃんに理由を聞こうとしたがそれは叶わなかった。翌日からユアちゃんが学校に来なくなってしまったからだ。一週間程してからユアちゃんは家庭の事情で転校しました、と、担任の先生が言った。翔だけではなくクラス中が驚いたが、担任の先生は家庭の事情なので詮索せずに、ユアちゃんが転校した学校でも元気に頑張ってくれる事を祈りましょうと淡々と言って授業を始めた。
ユアちゃんから翔に手紙が届いたのはそれから一週間後。手紙には父親には愛人がいて子供もいた事。自分は父の子供ではなく、母が父と結婚する前に付き合っていた男の子供である事が分かった途端、父の態度が急変した事。それで両親が離婚した事。そして長い長い文章の最後に短く、ただ一言ごめんなさいと綴られていた。住所はなかったが、消印は宮崎市となっていた。いつか聞いた事がある母親の実家だろうと見当はついた。そういえば、あの日ユアちゃんの両親どちらとも参観に来ていなかったと気付いた翔の脳裏に突然、それは突然葉脈が全身を這う様に広がり始めた。ユアちゃんが翔に相談したかったのは……本当に相談したかった事はフリーワークの事なんかじゃない。本当の悩みを聞いてほしかったんだ!そして先生も事情を知っていたからあんな形で終わらせた。ユアちゃんが暴走するのを止めたんだ。転校の話も余計な詮索を避けるために、ピシャリと、少々冷淡に感じる程の言い回しをしていたのだ。
今、翔はこれまでの流れ全てが解った気がしていた。自分が父に甘え切っている話を聞いてユアちゃんはどんな気持ちだったろう……
「ユアちゃん……」翔は腰から砕ける様にへたり込んだ。虚しさと切なさと悔しさが容赦なくこみ上げてくる。やがて、やり切れなくなった翔は歯嚙みをする様に顔をクシャクシャに歪めて泣いた。泣き続けた。
翔が通う学校は東京都文京区にある小学校から高校までの付属校である。完全な女子校だ。
翔は14歳になっていた。小学校低学年の頃の身長は、他の生徒よりちょっと大きい程度位だったが、高学年になったあたりから筍の様にスイスイ伸び出した。名門校と云われるこの学校で、中等部に進んだ時 あらゆるスポーツ部からスカウトされたが、翔が唯一興味を持ったのは校内では未だ未認可の「合気道同好会」だった。
翔が入部して部員が4人になり、今年一人増えて5人になったばかりだ。
部活動とは言えない、顧問も付かない完全な同好会だ。しかし、翔はそこが気に入った。格式ばったルールもなく、先輩後輩の縛りもない。この会を立ち上げたのは現在キャプテンを努める3年生の姉である。父親が整体師で合気道の有段者だそうだ。武道はメンタルトレーニングになり、美容にもいい。何と言っても痴漢撃退には最適らしい。翔はその部分も気に入っている。
ある日、イメージトレーニングの練習が終わった後、各々が他の部活の邪魔にならぬ様、体育館のスミッコで私物を片付けていた時である。部員の一人が言った言葉で、翔は崖から突き落とされた気持ちになった。
「うちのパパったらどこまでもバカなの‼昨夜ぐでんぐでんに酔っぱらって帰って来て、姉のベッドに潜り込んだって、もう~~~大騒ぎ‼」他の部員たちがキャアキャア騒ぎ出した。唯一人翔を除いてだが。
「部屋を間違えたって弁解してたけど どお~~~だか!」それで?それで?と、興味深々な女子たち。――翔、以外は―― 「姉から半径一光年近づくな!って、ママからはこの先一ヶ月間我が家出禁の厳しい判決~~~‼」ドッと笑いが起きた。勿論、かなり話を盛っているだろう事は見え見えだ。
翔は大盛り上がりの女子たちを尻目に 引き攣っているであろう自分の顔を覗かれない様 巧みに身をよじり片付けるふりを続けた。あっけらかんとした女子たちの口から飛び出す「変態」「ロリコン」「児童性愛者」果ては「サイコ」まで言いたい放題だ。しかし、女子たちが面白おかしく言っているそれらの単語はいちいち翔の胸を突き刺した。
翔の母がアメリカへ渡る前から 翔は父に抱かれて眠るのが習慣になっていた。
父は毎晩欠かさず翔に物語を読み聞かせ 翔が眠るまで傍についていてくれた。
翔は父の匂いが好きで 父の胸に顔を押し当て心ゆくまでその香りに浸ったものだ。
そんな翔に心の変化が現れたのは、家庭の事情で宮崎に転校せざるを得なかったユアちゃん事件がきっかけだった。いや、確かにきっかけはそうだったかもしれないが、翔はそれ以前から父にある違和感を抱く様にはなっていたのだ。勿論、具体的には説明がつかないが……。
時を経て、翔が五年生になって二学期の終わり頃。急激に身長が伸び始めて関節の痛みに悩まされていた時の事、父は痛いと嘆く翔の手足を優しく擦り出した。翔が初めて気恥ずかしいと感じたのもこの時だ。しかし、痛みで深夜目を覚ます事もあり、保健の先生から取り敢えず痛む所に湿布を貼る様勧められて実行していたが、痛みは続いた。
湿布と引き換え父のマッサージは心地よく、寝落ちする事も度々あった。
そんなある日、翔が心地よい眠りから覚めた時、胸のあたりに圧迫感を感じた。父の大きな手が翔の蕾の様な乳房を覆っていたのだ。翔は動揺した。パパ…と翔が上ずった声を掛けると父の手は離れたが 重苦しさで翔はそれ以上何も言う事が出来なかった。父は「関節痛は成長期にはよく起こる現象だよ。」と言った後こう続けた。「パパにマッサージをしてもらうのが、翔が恥ずかしいと思うなら、これは二人だけの秘密にしよう。それでいいね⁈」一応 翔の意見を聞いている様だが一方的である。父が部屋から出て行った後、翔は例え様のない不快感と恐怖心で、思わず祖母に電話していた。
しかし、電話はしてみたものの いざ祖母の声を聴くと上手く伝える事ができない。ありのままに話せば事は早いが、心の何処かで父を庇う気持ちが捨てきれないでいる。まさかパパに限って、と云う気持ちがとても強く 結局祖母には話せず仕舞いに終わった。代わりに、実際始まっていた初潮に話をすり替えた。初潮の問題そのものは保健体育の授業やクラスメイトの情報で全く問題なく迎える事ができたので、当時、祖母にも母にも相談していない。担任の先生とユアちゃんには告白した覚えがある。そして、父にも……。 その後も父は毎日翔の部屋に入っては来るが、終始たわいのない話をするだけだった。
翔は時間の経過と共に次第に「あれは何かの思い違い」」と考える様になっていった。テレビでスポーツ選手がマッサージを受けている場面を何度も見た事がある。選手はトレーナーに全身をマッサージしてもらうのが当たり前なのだ。自分はスポーツ選手ではないが、成長期痛と闘っている。許されるのではないか?
そして、更に時間の経過と共に、何時の間にか父への重苦しい疑念は父のひとつの愛情表現だったと上書きされてしまった。
しかし、暫く遠のいていた父の暗い影が再び浮き上がってきたのは 翔が中等部に進んで間もなくの事だった。
翔はこの時既に170センチ越えの身長で、顔立ちこそ幼いが身体つきは少女のものではなかった。
父の行為は次第にエスカレートしていく様だった。母が地方出張で留守になると翔の部屋に忍び込んで来る。他愛のない会話を終えても父は翔の部屋から出て行こうとしない。翔が不快な表情を見せると一旦は悲しそうに出て行くが、深夜 翔が完全に寝入ってからベッドに潜り込む様になった。
さすがにこれは翔の怒りを買い、これまで緊急の場合に備えて付けていなかった鍵を付けるに至った。鍵をかける、かけないの攻防は母の知るところとなり、やがて祖母の耳にも。母は翔と父が仲良過ぎた結果だと笑い飛ばしていたが、祖母の対応は厳しいものだった。父の面前で「変態」と言ってのける祖母に、翔はまるで自分が言われている様な気分に陥り恐れおののいた。何年も前に、既に忠告されていた事だったからである。
元々 翔は父が嫌いで鍵を付けた訳ではない。ベッドに潜り込むのも不意に、断りもなしにするからであって、正直、父に抱かれていないと眠れない夜もたくさんあったから、祖母に罵倒されて弱々しく項垂れる父の姿は翔の心を締め付けた。殆ど家庭を顧みない妻に反論する事も出来ず、唯々諾々と支配されるがままの父が、反動で翔の成長にのめり込んだのも解る様な気がするし、かく言う自分も母に対する複雑な気持ちを父の胸に埋めていたのかもしれないと思うと、、、
可哀そうなパパ。私まで離れてしまったらパパが独りぼっちに……パパが絶望してこの家を出て行くと言ったらどうしよう…そう考えただけで胸が苦しくなってしまう。
結局、翔は鍵を外した。勿論祖母には内緒で。
父は再び母が留守になると翔のベッドに滑り込む様になった。父は他愛のない話をして翔の頭を撫でまわし、頬や額にキスをして自室に戻っていく。暫くはそんな状態が続き、翔は無抵抗に受け入れた訳ではないが、やはり心のどこかで父の温もりを感じ取っていたかったのである。
ある深夜、重苦しい気配で目を覚ました翔はギョッとした。背後に分厚い重みを感じる。しかし、そう感じたのも一瞬ですぐに父の身体だと解った。
「また こんな事を……」父の身体を撥ね退けながら翔は舌打ちした。だらりと弛緩した身体から微かに酒の匂いがする。しかも熟睡状態だ。まるで子供だと翔は思った。グニャリとした父の身体に肌布団を掛ける。時計を見ると午前三時。翔は仕方なく今日も帰らぬ母の寝室に向かった。
この歪んだ関係を翔は時間の経過と共に慣れていった。父が身体を寄せてきても、手足をさすってきてもマッサージをしてくれている、位に受け止める様にまでなっていた。鬱陶しいと思った時は眠ったふりをする。ひたすら父の体が離れるのを待つ。慣れとは実に罪深い。
そんな、いわゆる普通ではない関係が数か月も続いていた時、同好会の女子たちが発した数々の過激な言葉の描写が翔の横っ面を張り倒した。
魔法が溶けた、と云う表現がピッタリ当てはまる。
深夜、重苦しさで目を覚ました時は必ず父の身体がヒルの様に張り付いている。
今更ながら思い返してみると、これも又何時しか、父の手はマッサージの域を越えた大胆な動きをしていたのにと思う。荒い息遣いと共に身体の一部を強く擦り付ける様な仕草。翔は考えた。自分は何をしていたのだろう、と。父に洗脳されていたのか?それとも、アブノーマルな性分のせいか? いや、そうではあるまい。
今、気付いたじゃないか!相当時間はかかったが、不適切な関係を断ち切る時を掴んだじゃないか!寧ろ、翔をそんな危うい世界にいざなった父こそ罪深いのではないか!
同好会での出来事から三日後、母が父と共に、とあるパーティーに出掛けた。ここ3~4日母は家に帰っていたので、翔は手足を伸ばして眠る事ができた。父の事は言わないと決めている。言わないが、二度と繰り返さないとも決めている。そして、いつか決着をつける時が来るとも思っている。
下腹部に違和感を感じたのは、カーテン越しでも外が明るくなっているのが分かる時間帯である。
翔はそのおぞましい手を払い除けて立ち上がった。仁王立ちした翔の般若の形相に面食らったのか 父は狼狽えながらも何とか繕った態度を見せたが、翔の振り上げた拳を見て これまで見せた事のないどんよりした目で翔を睨み付けていたが やがて部屋から出て行った。翔が自分の身体がぎこちないのは震えが止まらないからと気付いたのは、部屋から忌まわしい対象が消えた十数分後の事だった。
そして、誰にも言わないつもりだったがが 自分一人で抱え込むには限度があると悟った翔は 事の顛末を母にではなく祖母に打ち明けた。
予想通り祖母の怒りは凄まじかった。夫の言い訳に偏る娘に対し、「あの変態の言い訳を一ミリでも信じるなら親子の縁を切る」と言い切った。
実際 翔より夫の言い訳に吞み込まれた娘に「馬鹿に付ける薬はない」と言い放ち断絶した。祖母の周りの人間は、最初こそ宥めたりしていたが、怒りの度合いが深いと知って、今では時間が解決すると静観の構えである。
祖母曰く、刑事事件に持ち込まなかったのは、あくまでも翔の為が99パーセントで、残り1パーセントがせめてもの肉親の情であるという事だった。
翔は大学に進学するまで祖父母の下で暮らした。大学生になったのをきっかけに翔は一人暮らしを始めた。祖父母の厚い援助を有難く受けつつも、翔は甘え過ぎない事を心掛けた。事件後、翔の両親は離婚し、翔は母の旧姓である「堂前 翔」と改められた。
母は離婚後再びアメリカへ飛び、二年後ドイツ人弁護士と再婚した。父は離婚後大学病院を辞めて以降行方が知れない。
「知りたくもないけどね」話し終わった翔が面映ゆい表情で付け加える様に言った。
詩織は呆然と突っ立っているばかりである。長い沈黙の後、やっと詩織が口を開いた。 「……そ、れって…マジで?」翔は微かに目をそらし、「ホントの事。嫌な思い出…」呟く様に言った。詩織の、どうしてお祖母ちゃん?ママじゃなくて、の問いには「単純な事だよ。一番信用できる人がお祖母ちゃんだったからね」と詩織に視線を戻して答えた。「あの人はね、母は名声と権力の虜になっていて、家族はただの添え物にすぎなかったんだ。」そして、祖母は娘の為に良かれと思って手を貸したが為に、こんな事になった事を大いに悔やんでいる、と付け加えた。
「お祖母ちゃんは…今、どうしてる?」 今はかなり吹っ切れて元気にしてるよ、と翔が笑顔を見せた。翔の整った顔立ちの中でも特に魅力的なパーツ。瞳。
全てが完璧に見える翔の眼差しが、時として憂いに包まれるのはこの過去の体験によるものだと知った詩織は、全てを話せるのは翔しかいないと思った瞬間だった。
翔が、ネガティブな過去を赤裸々に話してくれたから、だけではない、もっと根源的な魂の繋がりを感じ取ったからだ。
詩織の家族は表向き養父となった前田の家に 文字通り転がり込む形で同居を始めた。ここに辿り着くまでの慌ただしい毎日は地獄の様だった。債権者からの電話に怯え、買い物に出るのも憚られる。と云うのも、失踪した父は闇金にも手を出していたからだ。取立人は法律の手前、表立った脅しや強引な取立はしないが、詩織家族は、いつも何処かで、陰で見張られていると気付いていた。そんな詩織家族を救ってくれたのが前田だったのである。前田は取り敢えず闇金の整理はつけてくれた。それだけでもどれだけ助かった事か。その上住居まで用意してくれたのだから、本来なら感謝してもしきれない相手だが、詩織には最初から疑念があった。突然現れたこのオジサンは「誰?」と云う素朴な疑問だ。妹の花音の様子も解せない。このオジサンが現れると貝の様に黙り込んでしまう。しかし、そうは云っても行く当てのない自分たちはオジサンを頼るしかないのだと自分に言い聞かせる。頼みの親戚とは全て酷い喧嘩別れをしているのだから。
詩織姉妹の母の名は里美(さとみ)と云う。夫の安藤忠志(あんどう ただし)が多額の借金を残したまま失踪してから、母は残された家族の盾になって親戚中に窮状を訴え続けたが、どこからも満足のいく解答は得られないと知るや、取り敢えず借金地獄から逃れるため離婚届を提出した。公印文書偽造だが、日々鬼の形相で債権者と渡り合ううちに大胆というか、一線を超えた精神が芽生えたかの様だった。勿論、親戚に報告などしない。安藤姓から旧姓の藤森に戻し、娘二人を伴い八王子から横浜緑区に越して来たのは世間がゴールデンウイークで賑わっている最中だった。好都合だったのは家も金目の物も債権者に取り上げられた後だった事で身軽に住み替えができた事だろう。
行き掛かり上 養父となった前田は一見ヘラヘラしていて、八歳年上の里美がリーダーシップを取っている様に見えたが実態は真逆だった。親子三人が越して来て荷ほどきの最中にそれぞれの役割分担を指図した。母の里美には肩代わりした闇金を先ずは返す為に外で働く事。家事全般を姉妹が担うこと。ヘラヘラしながら指図する前田に、母はいちいち荷ほどきの手を止めて何度も繰り返しありがとうと言っている。
詩織は母と前田の関係を不快に思いながらも、母の言う通り一日も早く借金を返さなければ次のステップに進めない現実を受け入れざるを得なかった。
当初、養父前田は二人の姉妹には無関心で、夜 里美が仕事で遅くなった時などは寝室に籠ってゲームに興じるか事務所のパソコンで、やはりゲームらしきもので遊んでいる。前田の生業は請負の電気技師だったので地方出張も頻繫にあった。当主の居ない日こそ姉妹にとって息抜きの時間だった。養父前田は何につけ声を荒げて強要する事はなかったが、無言の圧は確実に感じられた。
いつもヘラヘラしながら、そのくせ里美を意のままに操っていた前田が度々怒声を吐く様になったのは、「翔」と名乗る性別不明の詩織の友人が頻繫に出入りする様になってからだ。
翔の事を「バケモノ」「ハンパモノ」と言って蔑み罵る。最初は違った。初めて翔と会った時の前田は この美しい友人に強い興味を示して、アレコレ詩織に尋ねている。先ず、男か女か。やっと重い口を開いた詩織から「女」と聞いた時の前田の嬉しそうな顔。ある日、翔に握手を求めたが拒否された前田は、強引に翔の腕を取り自分の胸に引き寄せようとして股間に強烈な膝蹴りを食らった。 顔を歪めて悶絶する前田に翔がボソッと言った。「いい加減にしろよ」 物言いは冷静だが、次は容赦しないという強い意志が感じられた。
かくして翔は前田の目の敵になったのである。
ある夜の事。詩織が翔と電話で話していた時、突然、前田が姉妹の部屋の襖を日頃から事務所の片隅に常備している金属バットで打ち据えた。ぐしゃぐしゃに破壊された襖を指差して「風通しが良くなったべ‼」と嘯く前田に詩織は無論、妹の花音は突然の前田の狂気に泣き出し母に縋りついた。だが、母の対応は詩織にとっても泣き出した花音にとっても救い難いものだった。
母の里美は詩織に対し、謝れの一点張りで、頑なに拒否する詩織の頭を床に押し付け「あの友達と縁を切らせるから!」と云う様な事を繰り返し繰り返し前田に言いながら自身も床に頭をこすりつけて哀願した。狼狽える花音に対しても土下座を強いる。
――この出来事より以前。詩織が翔と親密になる前。――
詩織の通う高校が創立記念日で休校になった水曜日の事。
朝早く仕事に出かけていた前田が不意に戻ってきた。夜までの予定が変わったのだろうか、と、詩織はガッカリした。今日のバイトのシフトは夕方になっている。と云うのも、花音の学校も夏休み前の期末テストで午前授業だったからだ。丁度二人分の昼食を準備していたところに あまりオヨビじゃない奴が突然現れて、「おい、コーヒー淹れて!」などと勝手なことを言っている。詩織は仕方なく電気ケトルに水を入れてスイッチを入れる。コーヒーは粉の入ったフイルターをカップに載せてお湯を注ぐだけの簡単なものだから面倒ではないが、相手に依る。
詩織は、前田と二人きりで居るのが不愉快でお湯の沸く僅かな時間さえ舌打ちしたくなる程長く感じられた。
詩織が眉間に皺を寄せながらポットのお湯をコーヒーに注いでいる時だった。
背後に嫌な気配を感じた詩織が徐に振り向くと 目の前に養父前田の顔があった。
前田は体が硬直して声も出せない詩織の背中にヌラリと手を這わせ、何事もなかったかのようにコーヒーカップを手に事務所に消えた。時刻は午前11時半。もう暫くの辛抱だ!花音が帰って来る!もうすぐだから!と自分を励まし、背中に残った感触を振り払う。親しい友人はいないから、スマホでグーグル先生に聞いてみる。滅茶苦茶だ。そんな事は分かっている!分かってはいるが何かしていないと、居ても立ってもいられないのだ。
花音が帰宅して、二人で昼食を食べていた時、前田が花音を事務所に呼んだ。
詩織が耳傍立てていると、どうやら花音に買い物を言い付けている様だった。
花音は、詩織に引っ付いてスーパーに行く事はあるが、一人では行った事がない。家事全般は詩織に丸投げだから野菜の種類が覚えられず、簡単な玉子焼きさえも覚束ないのだ。それでも最近では玉子焼きをひっくり返す事も覚えたし、やたらと調味料を振りかける事もなくなった。
花音は養父から突然「スキヤキ」の材料を買って来いと言われて面食らっている。
そして姉と一緒に行きたいと懇願しているが、養父の声が遮った。
「お前はいつもいつもお姉ちゃんお姉ちゃん‼甘えてばかりいやがって‼おい、詩織!メモに書いてやれ!」怒鳴り散らす養父に花音は事務所の端っこで縮こまり不貞腐れている。
詩織は嫌な予感で真っ黒になった胸の内を抑え、必死に訴えた。
「…あの…今日のところは二人で行って来ます、メモに書いてもカノは……」
「黙ってろ‼」詩織が言い終わらぬうちに養父が大声で制止した。
「早くメモに書いて来い!」詩織は不穏な空気に押しつぶされそうになりながらも、もうそんな季節でもない「スキヤキ」の材料を、震える手でメモに書き花音に渡した。
玄関で、わざとノロノロ靴を履く花音に養父が言った。「お姉ちゃんはこれから事務所の掃除があるんだ。スーパーの近くな、駅前にバーガー屋があるじゃん?アイスでも食ってこいや」 そして、「ゆっくり行って来な!」と言いながら何枚かの紙幣を 花音が首から下げているポシェットに捻じ込んだ。花音はポシェットに手を突っ込んで紙幣をぐしゃぐしゃさせながら養父と姉の顔を交互に見やっていたが、やがて諦めた顔で背を向けた。今迄やった事がない、強い力で乱暴にドアを閉めた。
この様子を半ば放心状態でぼんやり眺めていた詩織は バタンと乱暴に閉められた戸の音で我に返った。養父を押しのけ裸足で三和土に飛び降りたが、首根っこを掴まれ引き戻されてしまった。その手を払い除け部屋に立て籠もったが襖はあっけなく金属バットで打ち破られた。そうだ!窓だ!と気付いた詩織が崖っぷち側の窓から身を乗り出し、大声を出そうとした時、背中に鋭い痛みが走った。
「フ~~ンフ~~ン」と詩織の知らない鼻歌を歌いながら、痛みで動けなくなった詩織の足を引っ張り部屋の中央に叩き伏せた。これから何が起きようとしているのか、勿論詩織は知っている。痛む背中を庇いながら必死に逃げようと試みるが、金属バットが行く手を阻んだ。蒼白な顔で壁にへばりついている詩織に養父が言った。
「な~にそんなに怯えてんだよ、煮て食うとか焼いて食うとかって話じゃねえよ」
言いながら押し入れから布団を引っ張り出す。詩織は泣きながら懇願した。「やめてください!お願いします!やめてください‼」しかし、土下座しながら懇願する詩織に養父は詩織の顔をジッと見ながら吐き捨てた。「お前ら親子がひとつ屋根の下で暮らせるのは誰のお陰?俺だろ?感謝が足りないって話なんだよ‼」詩織の頭に母の口癖が蘇る。失踪した父のヤバい借金を肩代わりして、路頭に迷いそうな親子三人を救ってくれた恩人。母の盲目的な献身。しかし、その言外にはナニかウラがあると詩織はずっと前から感づいていた。ここに越して来た当時、毎夜聞こえてきた母の獣の様な喘ぎ声。花音が何も気付かずに眠ってくれていた事がせめてもの、と思うばかりである。……お‥んじん?、これが? 人の弱みに付け込んで!このクソ野郎‼
「何?ナニ?、今クソ野郎って言ったか?」詩織が思わず声に出して言ってしまったのを養父は聞き逃さなかった。「まあ、いいよ~、貸しにしておくから」 だが、口調とは裏腹に表情がより凶暴になっている。詩織の身体を布団の上に投げつけると、その上にダイブでもする様にのしかかり、初夏の事で一枚しか纏っていないTシャツを剝ぎ取った。
その後、悪夢が覚めやらぬまま詩織は機械的にバイトに出かけた。
花音が苦労して仕入れて来る「スキヤキ」は誰が調理するのか……などと考えながら。
誰にも、母にさえ言えない、いや、母だからこそ言えない。花音は論外だ。風呂場でどんなにゴシゴシ洗っても、アノ不愉快な感触は拭い切れない。この一週間、詩織は極力養父と顔を合わさぬ様苦心していたが、次の水曜日、再び悪夢に襲われる。
養父は一週間前と同じ理由で花音を使いに出した。今度は焼き肉がエサだ。
ところが、肝心の花音が動かないという事態が起きて、養父は怒り狂ったように怒鳴り散らし、ダイニングテーブルの上にあった食器や雑誌などを壁に投げ付け出した。
それからも暫く「早く行け‼」「嫌だ!行かない!」の攻防が続いたが、結局は花音に勝ち目はないのだった。花音は養父の差し出す紙幣をふんだくり、養父の目の前で紙幣をぐしゃぐしゃに丸めて出掛けて行った。
詩織は花音の十分の一でいいから、その勇気が欲しいと思ったが、到底叶わず二度目の悪夢に飲み込まれてしまった。
そして程なく、詩織に三度目の悪夢が訪れる。花音は最近知り合って親しくなったキヌさんと云う人の所へ頻繫に出向いている。今日も昼食を済ますと出掛けて行った。
詩織は、夏休みに入ってバイトのシフトを増やしてもらったが、日中は主婦がメインなので思い通りにはならない。母の様にバイトの掛け持ちも考えたが、家事全般との両立はハードルが高い。かと言って家出も違うような気がする
詩織は最早、涙も出なくなっていた。いつしか自尊心も打ち砕かれて、ただ人形の様にケダモノのなすがまま、ケダモノが満足して身体から離れるまで必死に堪えた。
ただ一つ、詩織の心を支えたものと云えるのは犠牲の精神だ。自分の犠牲に依って母と花音は無事でいられる。私と云う生贄があるから無事に暮らせるのだ。それが唯一の救いだった……が、四度目の悪夢はその僅かな希望の光をも無残に打ち砕いてしまうものだった。
養父と名乗る前田はそのオゾマシイ行為を撮影し始めたのである。虚ろな表情の詩織に「シオリちゃん」と猫撫で声で言った後に「お前はこれからもこうやって俺に尽くせ。嫌とは言わないよな?これからもっと色んな事を教えてやるからよ!」言いながらスマホをかざし、詩織に様々な体位を取らせヘラヘラ笑っている。
詩織が解放されたのは、いつもより一時間以上も長い時間が経ってからだった。花音がキヌさんの家に出掛けた日は帰りが遅い事も織り込み済みなのだろうと詩織はぼんやり考えていた。全裸のまま、太股辺りにヌメりとした触感の気持ち悪さも忘れて肢体を投げ出し、築50年の古い天井を眺めていた。
一体何のために生きているのか……皆のため?……解らない、もう、解らない!
ふと、いっそ窓から飛び降りようかと思う。が、「あんなケダモノの為に‼」と云う真逆の怒りもある。あんな奴の為に死んでたまるか!絶対許さない!許さない!沸々と心の底から湧いてくる怒りの力が詩織の背中を押して奮い立たせる。
しかし、そうは云っても簡単ではない。誰かに相談出来れば、力を貸してくれれば…
相談できる人、力になってくれそうな人が誰一人浮かばない。詩織が再び暗澹たる気持ちに沈みかけた時、突然、降って湧いた様に心の中の声が聞こえた。そうだ、バイトに行こう、と。
詩織にとって寄る辺のない学校よりも、バイト先で一人前の扱いを受ける自分の方が生きている実感の様なものを感じられるからだった。
詩織は絶望と云う重しに潰されまいと、錆びた歯車がギシギシ唸りながら、ゆっくり、ゆっくり動く様に上体を起こした。そして、虫の様に這いずり散らばっている衣服を搔き集めて着替える。
バイトの時間は大幅に過ぎていた。
一気に話し終えた詩織の喉はカラカラに干上がっていた。
詩織は、翔がこの話しをどう受け留めたのかはどうでもいいと思っていた。とにかく話せた。
今、目の前に居る知り合い程度の、友達でもない他人に全て話せた。何だか可笑しいとさえ思える。詩織は、まるで 天から命綱が下りてきた様に感じられて愉快だった。まるで幼い頃読んだ「蜘蛛の糸」じゃないかと思ったのである。
「これって少ない話しじゃないんだ」満足感に浸っていた詩織に翔が静かに言った。
こういった境遇の中では、逃げ出したくても、誰かに打ち明けたくても出来ない子供たちが沢山いるんだよ、と言う。そして、祖母があれ程激昂したのは、30年も前からこの忌まわしい問題と向き合っているNPO団体に席を置いているから。と打ち明けた。そういった機関がある事を詩織は知らなかった。NPOと云えば、何でもかんでも発展途上国の問題を取り上げていると云うイメージしか持ち合わせていなかったのが恥ずかしい。
時刻は午前2時になろうとしている。詩織は、送って行くよと言ってくれた翔に甘えて二人並んで歩き出した。歩きながら、翔が提案したのは夏休み中に今の環境から逃げ出す事だった。勿論、詩織はまだ未成年者だから、法律上保護者の意向は無視できない。そこは、祖母や今だ現役の弁護士である祖父の力を借りれば何とかなりそうだった。こうなったのも、問題は前田の方にある。
詩織は翔との打ち合わせ通り、母と妹が留守になりそうな時は自分も出かけるか、翔が時間を遣り繰りして訪ねて来た。こうして頻繫に出入りする様になった翔に対し、最初こそニヤけていた前田だが、股間事件以降、翔が現れると血相を変えて何処かに出かけるのが常だが、翔が帰った後が酷かった。
その怒りは詩織を中心に執拗に繰り返された。母はいつも通り床に頭を擦り付け、唯々謝るばかりだが、たった一度だけ、妹の花音が前田に歯向かった事がある。
「おじさん、どうして翔さんが来るとそんなに怒るの?翔さんが来るとマズイ事でもあるの?」はっと顔を上げたのは前田ではなく寧ろ母の方である。訝しげな母の視線が前田に向けられた。
途端に、それまで威丈高に喚き散らしていた前田のトーンが急速に落ちた。
落ちたが、ここからはいつも通りのパターンである。「なんだなんだ‼文句があるってのか⁉気にいらねえなら今すぐ出ていきな‼俺が出るとこに出りゃあなー……」前田はここまで言うと、ハッとした様に顔を背けた。前田はここから先は漏らした事がない。ダイニングキッチンから出て行く時、険しい目を注いでくる里美に捨て台詞を吐き、花音の頭を乱暴に掻きまわし「生意気なガキだ!」と吐き捨てる。
それからも母は何事もなかったかのように忙しく仕事を掛け持ち、朝10時から夜10時まで家には居なかった。
詩織は母がナニか気付いてくれたのではないかと考えたが、どうやらそうでもないと解り失望した。詩織は夏休み中に家を出る決心をしていたが、母にその話しを持ち掛けるタイミングの難しさに苦労していた。翔は、正直に話すのが近道だよと言ってくれるが。 ――話せない―― 翔の言う通りだと詩織も思う。何もかも赤裸々に話してこの家を出て行くのが理想だと云う事は解っている。
だが、 ――話せない―― 真実を話す勇気がない。自分に「蜘蛛の糸」は届いたが妹の花音はどうする……翔は、花音が一緒でも構わない、寧ろ一緒の方がいいとまで言ってくれた。が、そうなると花音にも打ち明けなければならなくなる。どうやって?普段 何気ない素振りなのに、実は養父に……なんて言いづらいし、花音はこんな私をどお思うだろう……詩織は考えれば考えるほど解らなくなっていった。
こうして時間ばかりが過ぎていったある夜。まさかの悲劇が起こってしまった。
前田のスマホに、母がパート先の急な都合で、ほぼ定刻の時間より一時間程帰りが遅くなるから娘たちに伝えてとラインが入った。前田は詩織の目を盗み、花音を事務所に呼ぶと抑え気味の声でこう言った。「フロまだか?婆さんもうすぐ帰ってくるけど、婆さんが帰る前に入っちゃえよフロ」突然何を言い出すんだ?と云う顔の花音に前田は珍しく上機嫌だ。「どうせな~お姉ちゃんはあのおっかないデカ女と夜中までライン三昧だし、じゃんじゃんシャワー浴びて来いよ」花音はシャワーが大好きで、長時間シャワーを浴びて、母や姉からよく注意されていた事を前田は知っている。「気にしないで入ってきな!」と云う押しの声で、花音がウキウキしながら部屋に戻ると姉の姿がない。狭い家の中だから、大声で呼べば聞こえる。大声で姉に声がけすると、返ってきた姉の声が籠っていたのでトイレの最中と解る。花音は風呂場に入るや、蛇口全開で派手にシャワーを浴び始めた。身体を洗う時、束の間シャワーを止めると壁伝いにロック調の音楽が聞こえてくる。花音は、又あのオジサンだ、と思った。音楽はいいがいつも音がでかい。嫌な奴め!身体を洗い終わった花音は聞こえてくる音をかき消す様に蛇口全開でシャワーを浴び続けた。
大好きなシャワーを心ゆくまで堪能した花音が部屋に戻って目にしたのは、姉が半裸の状態でうずくまる姿だった。辺りにはスマホの破片が散らばっている。
花音は今更ながら思い出した。風呂場で何かが壁にぶつかっている様な衝撃が二度あった事。詩織は、お姉ちゃんどうしたの?と尋ねる花音の手を振り払い、泣くでもなく床に突っ伏して震えている。お姉ちゃん、と花音が詩織に抱きつくと、僅かに詩織の顎が上向きになり、鼻から一筋赤いものが生々しく滴り落ちてきた。
詩織はそのまま貝の様に口を噤み、花音が繰り返し尋ねても虚ろな表情で天井を見上げているばかりである。
定刻より一時間以上遅く帰宅した母と前田が、ダイニングテーブルで缶ビールを手に談笑していた時、詩織はほろ酔い気味の母と前田の目の前で手首にカミソリを引いた。
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