ナイトメア ファイト!!

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ナイトメア ファイト‼  前編 「出会い 」 遠之えみ 作

花音が絹代と出会ったのは横浜市緑区、四季の森公園の南口広場だった。

203×年7月18日午後3時頃、この日は梅雨の間の晴れ間で 花音が腰掛けているベンチ近くの広場では小さな子を連れた親子で賑わっていた。花音はその風景をぼんやり眺めながらも意識は別の所にあった。花音は、広場の隅にあるトイレの前でウロウロしている老女がどうにも気になって仕方がなかった。トイレに入ってはすぐに出てきて、南口広場の出入口に向かったかと思えば  またすぐに小走りでトイレに戻るを繰り返しているからだ。

花音はトイレから20メートル程離れたほぼ正面のベンチに腰掛けていたので老女の奇妙な行動がよく見えたのである。やや遠目でも その老女が白髪(はくはつ)でとても小柄である事が解かった。しばらく経って、老女がトイレの中に姿を消したのを確認した花音は少し小首を傾げながら、手にしていた国語の教科書に目を戻した。花音は、教科書に紹介されている短編小説が結構好きである。一冊の分厚い本になっている物は苦手だが、教科書は小説によってはコンパクトに要点を押さえていて読みやすい。しかし、試験に採用となると話は別だが。今読んでいるのは芥川龍之介の「トロッコ」。夕闇迫る森の中を、恐怖に震えながら線路の上を疾走する少年に、何故か共感を覚え何度も読み返している。どの辺に共感か?と聞かれたら恐怖に震えながら 必死に走るところとしか答えられないが、短編小説なので全文読める所も花音向きだった。

「重そうね」不意に声をかけられて、小説の主人公に想いを馳せていた花音は目の前の現実に引き戻された。キョトンとしている花音に構わず老女は花音の隣りに腰掛けた。

「何が重そうなんだ?この教科書?」花音はじりじりと自分の体をベンチの端に移動させながら心の中で呟いた。すると唐突に「ひどいトイレね!」と老女が言った。

「重そう」に引きずられていた花音は「へ?」と間の抜けた返事を返していた。

「ここのトイレの事、まったく酷い。入ろうかどうしようか…ずいぶん迷ったけど家に戻るまで我慢もきかないしね、それで、諦めて、エイッて!!」笑いながらもキビキビ話す老女に、花音はつい今しがた迄引きずられていた「重そう」をすっかり忘れて老女に向き直って聞いてみた。まあそれでもひとつ、老女の奇妙な行動の意味が解って胸がスッとした気分だが。「そんなに?そんなに酷いんですか?」老女は花音の疑問に間髪入れず「酷いひどい!掃除はしてくださっているんでしょうが…」そしてこう断言した。

この公園内には確かに、其処ここにトイレ施設が点在しているらしいが、殆どが和

式トイレで不衛生この上ない、臭いもキツくて到底人間の使用するものではないとまくし立てた。花音は老女の迫力に押され口を噤んだ。花音はたまにこの公園にやって来るが、トイレに入った事はない。

学校にも和式トイレはある。あるどころか何割かは和式トイレだ。言われてみれば和式トイレは使いずらい上に、いつも便器の周りが汚れていて余程の事がない限りパスしていた事を思い出していた。

「私ね、前世は犬かオオカミなのきっと。こう、異常にね、臭いに敏感で」

老女の声のトーンは、先程とは違い落ち着いていた。「要するに使う人の問題かな?」そして、トイレがあるだけ有り難いわね、と、一人ごちている。確かに、使う人の問題だと花音も思う。そこに、トイレ談議に相応しい爽やかとは言えない多分な湿気を含んだ風が二人の間を吹き抜けた時、老女が独り言の様に「さ、そろそろ帰りますか…」と言ったので花音は曖昧に頷いた。花音は老女が南口門を出るまで、何となくその小さな体を目で追っていたが、門を出る時 不意に老女が振り返った顔を見て凍りついた。花音はぎゅっと閉じた目を片方ずつ、少しずつ視界を広めていった。老女のゆっくり遠ざかって行く後ろ姿が視界に飛び込んできた。ベンチから立とうとしたが、腰が抜けて立てない。花音はじっとり汗をかいているのに、一気に血の気が引いていく感覚を覚えて思わずブルッと震えた。

あれは…あれは…「猫…じゃなかった?」不愉快に汗ばむ花音の全身に悪寒と戦慄が走った。


一週間後、花音は件の老女と再会する事になる。スーパーマーケットの中だった。

花音が精肉コーナーで思い悩んでいた時だった。「まあ!こんにちは!この間公園で?」相変わらずテキパキ話す。花音は先ず、老女の顔が猫じゃない事に安心した。勿論、今は、あれは目の錯覚だと思っている。思ってはいるが…どちらかと言えば無理矢理「錯覚」だと自分に言い聞かせたにすぎないが。

「ご縁があるのね、重くない?あなたもこのご近所?」「だから、何が重い?」

花音は又心の中で呟いた。猫は錯覚だとして、「重い」の意味は分からず仕舞いだ。もしかして、私の事を暗に太っていると言いたいのか?花音は心の中で舌打ちした。た・し・か・に・少々ぽっちゃりはしているが…しかし、眉間に怒りの溝を作り、口を真一文字に結んだ花音の表情を見ても老女は気に留めもせず「何のお肉を探してるの?」と、花音の顔を覗き込んでくる。花音は迷っていた。このチョットヘンなおばあちゃんには関わらない方がいいのではなかろうか?しかし、興味はある。大いにある!なんせ、顔が猫に見えたんだから…見間違いだと思う一方で、違う、アレは見間違いなんかじゃない!と誰かが耳元で囁く声が聴こえる様な気もする。ややこしい!さあ、どうしたものかと考え込む花音の姿に老女は諦めたのか「じゃ、」と言って花音から離れた。そうなると逃がした魚はナンとやらで、花音は慌てて老女の後を追い自信なさげに「…スキヤキ…」と、小声で答えた。老女の顔はパッと輝き満面の笑みをたたえ、弾んだ声で言った。

「あらあ!暑い日のスキヤキなんて余程好きなのね!」言われてみれば確かに…何故、養父はこんな暑い日にスキヤキと言ったのか?第一、スキヤキどころか同居を始めて4年になるのに まだ一度も一緒に食卓を囲んだ事がないのにだ。謎だ。

「そうねえ、お肉にも色々あるから、ご予算は?」花音は慌てて斜めがけにしたポシェットに手をやりながら「4800円くらい…」「何人分?」畳み掛ける老女に花音は目を泳がせながら「4人…」と言ってから「多分…」と付け加えた。


花音は このチョットヘンなおばあちゃんにリードされるがまま食材をカゴに入れていったが、会計が4764円とこれまた絶妙で花音を驚かせた。

帰り際、老女が花音に言った。「私ね、このスーパーの近くに住んでます、林 絹代「はやし きぬよ」と言います。81歳です。又お会いできますように。重そうだから気をつけてね」

老女は一方的にそう言うと三叉路の信号を左に曲がって行った。

今の「重そう」は花音も納得だ。花音はしばらく、遠ざかって行く林絹代と名乗る老女の後ろ姿を眺めていた。もしかしたら…ひょっとしてと期待したが、老女は振り返る事もなく、花音は少しガッカリしながら三叉路を右に曲がった。


それから一週間後、再びスーパーの中で再会した二人だが、嬉しそうに声をかけてきた絹代に対し、花音は無言でほんのわずか、こくりと頷いただけだった。

絹代が努めて明るく「今日のメニューは?」と聞いても返事はなく、押し黙る花音に絹代の顔色は曇った。「何か解らない事が…」あったら聞いてね、と、言いかけた時「焼肉」と、やっと聞き取れるくらいのか細い返事があった。

買い物の手助けをしながら、絹代は、今日も多分4人分でポシェットからクシャクシャの千円札を取り出すのだろうか…名前さえ知らない、この目の前の少女には最初から運命的な出会い感じ取っていた絹代は、今日の三度目の偶然で運命を確信した。買物をリードしながら、これを機会にこれから先の少女との自然の成り行き、繋がりの突破口を探ろうと考えを巡らし始める。

別れの三叉路の信号で、絹代はさもついでに、という体裁で花音に話しかけた。

「ねえ、まだお名前聞いてなかったわね?」

途端に花音の目に迷いと警戒の色が滲んだ。

そのまま俯いて微動だにしない花音に絹代は「アハハ…」と芝居じみた笑い声を立てながら「ごめんなさいね、年寄りはせっかちで、気にしないで!じゃ!!」言いながら、絹代は信号が青に変わった左方向に歩き出した。歩きながら、今度はいつ会えるか分からないという焦りもあった為、少し急ぎ過ぎたかと顔をしかめた。

次はいつ会えるのか分からないのに…ああ、やってしまった!残念!! と、チャンスを逃した自分を責めた。ところが、失敗したと思いながら しょぼくれて歩く絹代の背後から、花音の声が聞こえたようで振り向くと、確かに、花音がおずおずとついて来ているではないか!

「あの…あの…」遠慮がちに絹代に目をやりながら、ひどくはにかんでいる。

絹代は、この行動は少女にとってかなり勇気がいった事だろうと思わずにいられなかった。「チャンス?] 絹代は失いかけた希望を今度は…と強い気持ちで花音に向き直った。

「私の家ね、ほら!あそこ!」絹代が指差した建物はすぐ目の前にあった。「良かったら、ちょっとだけ寄っていかない?丁度メロンが食べ頃なのよ!」メロンと聞いて俯いていた花音の目が一瞬はっと輝いたのを見て取った絹代は畳みかけた。

「是非!とっても美味しいメロンだから!」絹代はまだほんの少し迷っている花音をやや強引に促しながら軽やかに歩き出した。


花音、藤森花音。「ふじもり かのん」中学3年生。母と3歳上の姉が一人いる。4年程前この地域に引っ越してきた。

父親が突然失踪して大混乱の中、母が最終的に頼った相手がたまたまこの地域の住人だった。

当時、小学5年生になったばかりの花音には、父親の失踪が受け入れられず苦しんだ。

強面の見知らぬ男たちの激しい出入りも、更に花音を苦しめた。

その上、母からは狂気を孕んだ血走った目で「あれは借金取りと刑事だからね、何も言ってはいけないよ、一人ぼっちになりたくなかったら余計な事は絶対言わないで、一人ぽっちは嫌でしょ?」こんな事を繰り返し繰り返し言われる事も酷く花音の心を苛んだ。自分が一言でも言えば、言ってしまえば崩壊してしまう。でも、それで本当にいいのだろうか…

――花音の心の奥底に隠している罪の意識――  花音は何も言えぬまま、罪の意識を抱えたまま生きていく事を、おかしいと思いながらも母に従うしかなかった。


父が失踪して半年後、母は4歳年下の30歳後半の男の元に娘2人を伴って同居を始めた。建前上養父となった男の名は前田和幸「まえだ かずゆき」 電気工事関係の自営業で独身だった。養父の家はこじんまりした貸家だった。平屋建ての玄関ドアを開けると六畳程の事務所兼倉庫。その奥に狭いキッチンとダイニング。更にその奥に二間あり、狭い廊下を挟んだ崖っぷち側の部屋が花音姉妹に与えられた。この平屋の特徴は切りだった崖っぷちに建てられている事である。山を切り崩し開拓されたこの辺りには多く見られる景観である。花音の姉は怖いと言って嫌がったが、花音はこの部屋が気にいった。窓を開けても遮る物が何もない、眼下に見下ろせる家々が夜になるとイルミネーションさながら輝く。重苦しい真っ黒な塊を抱える花音にとって、せめてもの光だった。緑区三保町という地名である。


「今は夏休みでしょ?いつまで?」言いながら絹代は氷の入ったグラスとジュースをテーブルに置いた。二人用のテーブルだから飲物とメロンで一杯になる。

「9月の一週までです。」「じゃ、まだ始まったばかりね?部活とかは?」「何もしてなくて…」「ああ…そうか、来年は高校生だから、はい、メロン冷たいうちにどうぞ」花音は、くし形にカットされたメロンに添えてあるフォークに手を伸ばしかけてすぐ恥じる様にその手を引っ込めた。絹代がまだ座っていない。「この間も公園で教科書読んでいたじゃない?塾も忙しいところねえ」 言いながら絹代は、フォークでメロンを一口大に切って口に運んだが、花音の浮かない表情に また余計な事を言ってしまったかと首を縮めた。

一瞬気まずい空気が流れ、さて…と絹代がどうしたものかと癖になっている腕組みをした時、花音の方からポツポツと話し始めた。

「特に進学の予定はなくて、その…家庭の事情で…」「…そ…う、ああ…ごめんなさい…余計な事をあれこれ、さ、冷たいうちにどうぞ!お代わりも遠慮なく!」

花音は絹代に勧められるまま メロンを食べてジュースを飲んだ。花音の表情がみるみるうちに柔らかくなるのを見て なんだか絹代も嬉しくなった。花音は、いわゆる美少女タイプではないが優しい面立ちは素敵な個性であろうと絹代は目を細めた。目の前にいる知りあったばかりの少女が背負っている黒い塊の原因は何なのか気にはなるところだが、それは花音の方から心を開いて話してくれる日を待つしかないのだ。絹代は花音と初めて会った瞬間に花音に纏っている深刻な状況を察知していた。

黒い塊を背負った少女が今、目の前にいる。絹代はなんとか花音の力になりたいと思い始めていた。それは花音の背負う黒い塊が見えた時点で決まっていたのだと思う。しかし、たとえ運命的な出会いとはいえ 初めから事実を話すのはリスクではなかろうか?ヘタすればアタマのオカシイお婆さんだ。こうして、絹代は花音を繋ぎとめる手段を模索しているうち、ある記憶の物語に辿り着き提案を試みた。それは――「ねえ、花音ちゃん、嫌じゃなかったら私が子どもの頃体験した不思議な話を聞いてもらえないかしら?」花音はストローでジュースをすすりながらキョトンとしている。絹代は続けた。「今まで誰にも話したことがないの、たわいない話と云えばそれまでだけど、でも、今考えても偶然にしては出来過ぎというか…」「それ、怖い話ですか?」花音の顔に僅かながら興味の色が走った。花音は、飲み干したグラスを静かにテーブルに置いてから 膝の上で手を組んだ。指を組んだり拳を握りしめたりしながら花音は考えた。

深く考えることは過去に置いてきたはずの自分だったが。

まだ知り合って間もないし、赤の他人に自分の家庭の事情を詮索されるのは気がすすまないし、できればパス…いや…まてよ、このおばあちゃんは…花音は初めて公園で出会った時の衝撃を思い返していた。あれは多分見間違いだと思う一方で、このチョットヘンなおばあちゃん、いや、林 絹代と云うこの人には底知れぬナニかがある様な気持ちも捨てきれないでいた。そんな人が話す不思議な体験?聞いても損はない様な気がする。

「花音ちゃんおかわりどお?」「へ?」頬を紅潮させて逡巡していた花音は突然の絹代の問いかけにマタマタ間の抜けた返事を返していた。

絹代はクスクス笑いながらお代わりのメロンを花音の前に差し出した。

「無理しないでいいからね」メロンを勧めながら絹代は明るく言ったが、内心は勿論違う。これをひとつの突破口にしたいと強く思っていたし、必要な取っ掛かりだとも考えていた。

もしかしたら、こんな私でもこの子を救えるかもしれないのだ。この子が背負っている黒い塊は…… 石地蔵だ。


あの日…南口門近くのトイレに向かって歩いていた絹代の目に飛び込んできた異様な光景。最初、大きなリュックを背負っていると見えたがすぐに石地蔵だと判り驚愕した。どれ程の事があってこんな…いやいや、分かったとしても自分には何もできない。触らぬ神に祟りなし…と、あの日は何事もなかった様に別れた。しかし、偶然とは云え三度も……三度目に絹代は確信した。避けては通れない運命の出会いなのだと。

今度は絹代の方が考え込む態勢になり、暫し空調の乾いた音だけが二人を包んでいた。

結局、花音は絹代の顔が猫に見えた事の、――決して思い違いではない――強烈な好奇心が勝って絹代の物語を聞くことになった。時間にすればせいぜい10分足らずのエピソードだったが、花音にとってはこの事が計らずも、心の奥底にへばりついている澱を剝がしていく事になるのだが、今はまだ、花音には想像もつかなかった。



 絹代のエピソード  その一 石碑


二日後 花音は暑い盛りの午後2時頃訪ねてきた。

絹代は慌ててクーラーをつけた。絹代はクーラーが苦手で、どんなに暑くても日中は扇風機を適度に回す事で事足りていたのである。しかし、夜間は昼間開け放たれている玄関ドアも窓も閉めてしまうので、壁一枚隔てた隣室のクーラーを使用している。隣りの部屋は丁度1年前に肝臓がんで他界した夫の部屋で 今は仏壇が設置されている。

買い物は午後4時頃と決めているのだが毎日ではない。買い物ついでに公園まで足を伸ばすこともある。花音と出会ったのもそんな日常生活のワンシーンだった。

「こんにちは!いらっしゃい!暑かったでしょ?すぐ涼しくなるから」

花音は絹代が差し出した冷たいタオルを、湯気でも出ていそうな真っ赤な顔に乗せて「く、ああああ~~」と、オッサンの様な雄たけびを上げた。今日の最高気温は34℃位だと、朝からテレビやラジオのニュース天気予報で、高温注意報なるものをこれでもかと云う位繰り返している。情報は少々ウルサイと思いながらも、今からこれだと8月が思いやられると絹代はため息をついた。

先日、花音が帰り際に又2~3日後に来ますと言っていたので絹代はアイスクリームを用意していた。

「洗面所、貸して下さい、タオル洗いたいから…」どうぞ、と言いながら絹代はもう一枚乾いたタオルをテーブルに置いた。狭い部屋の中はすぐに涼しくなって、絹代はベッド下の引き出しから夏用のひざ掛けを取り出した。

花音が嬉しそうにアイスクリームを食べている間に、絹代は自分用に熱い紅茶を、花音にはアイスミルクティーとクッキーを用意する。


「事の始まりはね…」5歳の頃だったと、絹代が静かに話し出した。


1956年5月 北海道太平洋沿岸の小さな町で絹代は生まれ育った。絹代は5歳。来年春は小学生だ。形ばかりは保育園に通ってはいるものの、お昼ご飯の時間になると、お弁当を持たない絹代は1キロ程距離のあるうちに戻るしかなかった。家に戻った絹代がそのまま園に戻らない事も頻繫で、困った園側と役所の担当者が絹代の父親を交えて捻りだした折衷案が午前中だけ預かると云うものだった。こんな事が許されたのも絹代を取り囲む悪環境と、今では考えられない時代背景の賜物だったろう。

絹代は活発で外遊びが大好きな子供だったが、一人遊びが多かった。いつも薄汚れた格好でいた為 ちょっと年かさの子供たちから意地悪される事も多く、気がつけば一人で遊んでいる時間が多くなっていた。しかし、だからと云って落ち込んでいた訳ではない。一人遊びも思いの外楽しかったのである。

絹代には今、とても気に入っている遊び場がある。絹代にとってはある日突然建てられた石碑。石碑は高さ凡そ2メートル、幅1メートル。楕円形に近い黒ずんだ石だった。石碑には沢山の戦没者の名前が刻み込まれていたが、当時の絹代には戦没者の事など知る由もない。丁度この頃、この辺りは市をあげての宅地造成工事が急っピッチで進められる様になり、点在していた畑や野原が次々と姿を変えていった時期でもある。

ある日、いつもなら大勢の人夫で賑わって、土砂を積んだトロッコがゴロゴロ力強い音を立てて忙しく働いているはずが、この日は休息の日なのか一人の人夫も見当たらずトロッコも下り坂の終点地に無造作に纏められていた。


絹代が気に入っていたのは石碑ではなく、石碑をぐるり取り囲む石柱の方だった。

石柱は大きさも高さも間隔もバラバラで、実に大雑把なのだが幼い絹代にとってはそこが面白かった。石柱から石柱に飛び移るだけの単純な遊びだったが、小さい絹代にはある種の冒険だった。

最初は全く跳べなかった。20センチ位の幅でさえバランスを取るだけで大変だった。高さもバラバラだから余計難しかった。しかし、毎日繰り返しているうち確実に上達していった。達成感も生まれる。そうなると欲が出てきて一段抜きを目指そうかと考える。絹代は楽しかった。しかし、絹代がこうして毎日の様に石碑に足を運ぶのは、実は――楽しいから――ばかりではない。いつ、誰となく石碑に菓子などを供える人がいる。

菓子など たまにしかに口にする事がない絹代にとっては 石碑に供えられる菓子はこの上ない贈り物だった。勿論、罪の意識が全く無い訳ではなかったが、菓子を目の当たりにすると手の方が先に出ていた。ある日、供えられたばかりの菓子を頬張っていたところを通りすがりのオカミさんに見咎められ 「この!バチ当たり!!」と散々罵られ、「お前の様な者が、、、」から始まり石碑の由来まで、 あまりにガミガミくどくど言うので、絹代は自分の非を棚に上げ、この見知らぬおばさんがすっかり嫌になり、その場から逃げ出してしまった。おばさんは追いかけてはこなかったが、絹代に罵声を浴びせ掛け続けていた。絹代はひどく嫌な気分になったが、自分がワルい事をしていると云う自覚みたいな感情は この時しっかり芽生えた。絹代の家にも小さな仏壇があって、箱の中には父親の母と姉の位牌が収められている。絹代はほぼ毎朝仏壇に手を合わせ、湯吞の水を替えてチーンとカネを鳴らしている。父親に言われるままやってるだけだが、死者に対する心得の様な気持ちもなくはない。しかし、絹代は自分のやっている事が良いことではないと知りつつ その後もお供え物をいただく事を止めなかった。

この日も、絹代は石柱に腰かけ、今しがた供えられたと思われるコッペパンを食べていた。コッペパンは固く、口に運ぶ度ポロポロと絹代のかなり傷んだ上着の袖口にこぼれ落ちた。絹代はこぼれ落ちたパンくずを丁寧に拾い上げているうち、左手にしっかり握っていたはずのパンを落としてしまった。慌てて石柱から下りてパンを拾おうとした時異様な気配を感じた。背後に誰か立ったのかと思う程の影が絹代の体を覆ったのだ。絹代は咄嗟に「あのおばさんか?」と思いバツの悪そうな顔で振り向いたが、おばさんどころか絹代以外人っ子一人いない。

それなのに、絹代が感じた異様な気配の影は絹代めがけズンズン迫ってくる。

それはあっという間の出来事だった。辺り一面早春の光に包まれていた大地は、天地の境が消え、石碑に近い小川が聞いた事もない轟音を響かせ激しく波立っている。

絹代は焦った。何が起きたのか解らずとにかく焦った。身の危険を感じた絹代が逃げ出そうと立ち上がったその時、誰かが足を引っ張った。絹代は悲鳴をあげながら足元を見たが誰もいないし、引っ張るモノも見当たらない。だが、足は確実に地中に引きずり込まれている。絹代は渾身の力をこめて、先ず右足を引き抜いた。絹代が持っている唯一のゴム製の短靴が地中に残されたが構っていられない。絹代は石柱に助けを求める様にしがみつき力一杯左足を引き抜いた。が、今度は、先に引き抜いた右足の方が再び引きずり込まれていく。慌てて右足を引き抜くと今度は左足が引っ張られる。

そんな攻防戦を繰り返していた最中(さなか)唐突に絹代の頭に浮かんだのは「これはバチ(罰)だ!」と云う事だった。

何度も何度も、盗み食いを繰り返し、注意をされても止めなかった盗み食い。思えば、絹代の家の仏壇からお下がりを貰う時は、必ず手を合わせ、鐘を鳴らしてから お下がりと称して頂いていた。そうしないとバチが当たると父親から言い聞かされていたのだ。

絹代はこの時初めて、あの口うるさいおばさんが言っていた事に気づいたのだった。――石碑は戦争で亡くなったたくさんの人たちのお墓だった――と。

恐怖と後悔がない交ぜになり、絹代は一瞬この攻防を諦めかけた。バチなんだから勝てっこないと思った。それでも心の何処かでは助かりたいと云う真実もある。絹代は何故だか無性に腹立たしくなり ありったけの憎しみを持って叫んだ。 「馬鹿ーー‼馬鹿――‼」一体誰に向かって言っているのか。執拗に足を引っ張る見えないナニかか、冷たくそそり立っている石碑に対してなのか、自分に腹を立てているのか……絹代は訳が解らぬまま、唯々地中に吸い込まれる足を必死に引き抜く。又吸い込まれる、必死に引き抜くを繰り返していた。


絹代の左肩にフワリとナニかが乗っかったのはそんな攻防戦の最中(さなか)だった。絹代はこの期に及んでの怪奇現象に泣き叫ぶことしか出来なかった。しかし、どんなに泣いても叫んでも誰の耳にも届かない事は、漠然としてだが分かっていた。助けは来ない。助けは来ない事も漠然と分かっている。

それでも、「あんちゃん!あんちゃん!!」絹代は兄を呼んだ。土まみれの両手を黒ずんだ空に向けてすがる様に力一杯伸ばした。歯を食いしばって石柱にしがみ付き、足を引きずり込むナニかを蹴って蹴って蹴り飛ばした。

誰かが絹代の手を引っ張っていると感じたのはその時だった。いや、手ではなく左肩を引っ張られている。強い力だった。地中に吞み込まれた足は 強い力によって徐々に引き抜かれ、やがて絹代の体は自由になった。そして、いつの間にか空の色も辺りの景色も元通りで、夢を見たのかと思ったが、ゴムの短靴が片方土に埋まったままなのを見た絹代は震えた。相当勇気がいったが、絹代は石柱にしがみ付き思い切り小さな身体を伸ばして靴を引き抜き土を払った。唯一の大切な靴だ。

絹代が体中についた土を払いながら石碑を仰ぎ見ると、石碑はまるで絹代を拒絶する様に冷たく、つんとソッポを向いてそそり立っていた。


語り終えた絹代は ふう、、とひと呼吸してから残りの冷めた紅茶を一気に飲んだ。花音は物語を聴きながら、石碑の祟りじみた話より、寧ろ絹代の境遇に興味を惹かれた。毎日の様に拾い食いしてた事。助けを求めた時、母でも、父でもなく、何故兄なのか?絹代の手を、いや、肩と言ったか。肩を引っ張って絹代を引き上げたのは誰か?  ――また謎だ――

今度は花音の方がため息をつく番だった。花音は改めて部屋を見渡した。こじんまりとしたアパートの一室は6畳二間と8畳程のダイニングキッチン。其処ここに置かれた小さな観葉植物が涼しげだ。壁には何点か額縁も掛けられている。

とても居心地の良い部屋なのだろうと思う。一方で、今の物語とは開きがあり過ぎやしないか?と云う疑念が湧いた。しかし、又別の所では「子どもの頃体験した…」と云う絹代の言葉だった。なるほど、絹代が言った通り不思議な体験には違いない。

花音は恐る恐る絹代に尋ねてみた。「石碑には…それから…?」新しい飲み物を用意しながら絹代は笑いながら即答した。「いいえ、とんでもない!正直、御供え物は惜しかったけど!」



絹代のエピソード  その二「兵隊さん」


1956年 8月 6歳になったばかりの絹代は共同の井戸場で麦交じりの米を洗っていた。畳一枚程の掘っ立て小屋である。絹代は小さな身体を器用に使い、ポンプを上下させながら細心の注意を払っていた。油断すると貴重な米を流してしまうからだ。

絹代の家はこの辺りの地主が所有する土地の片隅にあった。歩道を挟んだ家の前はなだらかな斜面で一面畑である。井戸場はその畑の一角にあった。斜面を下りきった所に大人たちが「ドブ川」と呼ぶ、幅2メートル程の川が流れていて川向うは新興住宅街だ。道路も整備されて、近じか車道もできるという噂だった。ひきかえ、絹代の家の前と急坂になっている裏道は、山を切り崩しただけの裸の地面であった為、ひとたび強めの雨が降ろうものなら、粗末な家の中に土砂が流れ込んで来る有様だった。

絹代が4歳になったばかりの頃、母は二つ年下の妹と産まれたばかりの弟を連れて実家に戻った。父の元には6歳上の兄と絹代二人が残された。

絹代の父が強引に決着させたのだという話は其処ここの住人からの噂話で絹代の耳にも届いていた。突然母親と引き離された絹代だったが、幸い、母方の実家は幼い絹代でも一人で歩いて行ける距離だった事である。母の実家には別れる前から 母や兄に、時には祖母に手を引かれて何度も足を運んでいたから歩き慣れた道である。母方の実家は酪農一族で、広大な土地を所有する地主だった。昭和初期、蝦夷の開拓民として秋田から一族をあげての大移動を敢行し、文字通り血の滲む凄まじい自然との闘いの中、逃げ出す者、命を落とした者も少なからずあったが、酪農と貸家で財を成し、この辺りでは田中一族として有名だった。絹代は曾祖父にあたる本家の主とは話した記憶がない。唯々、恐い人だと云う以外は何も知らない。身内といえる30人近い従兄弟や叔父や叔母が、盆暮 一堂に会する絵面は圧巻である。とにかく、どちらに引き取られたかで兄弟の運命は理不尽にも大きく異なったのである。


隙間だらけの井戸小屋の中で 一心に米を洗っていた絹代は、背にしている戸口の軋む音を聞いたが それは風のせいだと決めつけて、それよりも貴重な米を一粒たりとも流すまいと気持ちを集中させていたのだが、洗い終えて振り向いた絹代は危うく抱えていた鍋を落としそうになった。

戸口にボロの衣服を纏ったオジサンが二人立っていたのだ。絹代は一瞬、この辺りで道路工事をしている人夫かと思ったが、片方のオジサンが被っている帽子を見て違うと気付いた。昨夜、ボロの衣服と帽子を被った男が土間に入り込んで来たのを 兄が護身用に持ち歩いている頑丈な角棒を振り回して追い出した事を思い出したからだ。

そればかりか、最近この辺りに戦地帰りと思われる浮浪者が出没しては 農作物や農機具などを盗んでいく事件が頻発していると、地主の奥さんと女中さんが話していたことまで記憶が甦ってしまった。

絹代は抱えている鍋に一層力を込めて 抱きかかえる様にしながら小屋を出ようとしたが、二人のオジサンにアッサリ押し戻されてしまった。片方のオジサンが絹代に何事か話しかけてきたが、外国語の様で意味が分からない。絹代が、どうしていいか分からずプルプル震えながら突っ立っていると、もう一人のオジサンが鍋を引ったくった。狭い小屋の中で逃げ場を失った絹代はポンプの後ろに回り込み、せめてもの盾にしようと試みたが帽子を被った方が笑い出した。そして、二人は膝をついて何やら相談を始めた。外国語なのか、それとも余程訛りがきついのか、絹代には全く聞き取れなかった。ほんの数分だが相談が纏まったらしく二人は立ち上がった。

帽子を被っていない方が絹代を引っ張り出そうと手を伸ばしてきた時 絹代は声の限り叫んでいた。慌てた二人は重なり合う様に体を捻じ曲げ絹代の口を塞ぎ、腰に巻き付けていた南京袋を広げた。しかし、口に荒縄をかまされ手足を縛られ、南京袋を被せられようとした瞬間 絹代の左肩がうねった。

そして直後、不意に戸が開いて三人目のオジサンが現れた。二人組と同じくボロを纏った男で絹代はその姿に絶望したが、二人組のうち帽子を被っている方が、いきなり第三の男に殴りかかったのを見て仲間じゃないと気付いた。そして、今更ながら泥棒ばかりではなく人さらいも横行していると云う事を思い出していた。

男たちの勝負は実にあっけなかったが、これには理由がある。どうやったって勝ち目はないと解かった以上は無駄な抵抗は怪我の元。下手に怪我でもしようものなら野垂れ死にしかない。

戦意喪失の二人組は、唯一の財産であろう南京袋を奪われても、唯々しょぼくれてうなだれるだけだったが、その情けない顔が次の瞬間一気にほころぶ事態が…

三人目の男が二人組を小屋の外に連れ出し、今 奪ったばかりの南京袋に土まみれのジャガイモや人参、南瓜、トウモロコシ等を放り込み、更に二人組の手に握り飯を二個づつ握らせたからだ。今しがた、人さらいを企てた事が噓の様に二人組の男たちは三人目の男に何度も頭を下げ、絹代にも何事か一言言うと深く頭を下げて小屋を後にした。

「今のオヤジたちは本物の人さらいじゃない、腹が減りすぎて魔が差したんだ。」

ポンプを激しく上下させながら男が言った。勢いよく流れる水で手足を洗い、ズダ袋から人参を一本取り出すと丁寧に洗ってがぶりと噛んだ。これは絹代も何度か経験している。極たまに従兄弟たちの後にくっついて、本家の広大な畑から生で食べられる物は引っこ抜いて食べていた。大抵はリーダー各の勝(マサル)と云う年長の従兄弟が仕切っていたから、絹代はマサルが洗ってくれた大根や人参を食べる事が多かったが。

「今、この辺は危ない。一人で来るんじゃない。鍋、落とすな」

男はぶっきらぼうにそう言い残すと、あっという間に畑の畦道を走り抜けて行った。

夜、バイトから戻った兄にその話をすると、兄から父に、父から地主へ、地主から警察に通報された。

その後、戦地帰りと思われる浮浪者による畑荒しや略奪は激減した。


二話目を語り終えた絹代はカップの底に残っていた冷めた紅茶を飲み干し言った。

「その時は「魔が差した」って意味も、私に袋を被せようとした二人組が何を話していたのか解らなかったけど、ずっと後になって…」絹代は目を伏せた。

何を話していたんだろう…と花音は絹代の様子を窺った。明らかにされていく絹代の幼少期。本当だろうか?石碑、人さらい、畑から大根や人参を引き抜いて食べる?

花音は心に引っ掛かっていることを聞いてみるのは今だと思う一方で、躊躇いもある。少しずつではあるが、打ち解けていく自分がいるからだ。ここで水を差して嫌われたくない。何故だか…何故だか、絹代は自分を大事に扱ってくれる。それだけではない。絹代にだけは真実を話せる様な予感がするのだ。

「戦争は残酷。あの訛りのキツイ二人組は東北出身の人たちだった。故郷に帰っても仕事がなくて、日雇いの漁師をしながら辿り着いたのが北の果て。」

「でも、…戦争はもっと前に終わっているのに…」と、花音。「終わってはいたけど、個人レベルでは…現実は厳しい…」

絹代の脳裏にふと、あの時自分を助けてくれたオジサンの顔が浮かび上がった。ハッキリとは覚えていないが今思うと、若く精悍な顔だちではなかったか。ただひとつだけ、これだけはハッキリ色褪せず記憶している。ズボンがずり落ちない様に荒縄を腰に巻き付けていた事だ。


花音は結局、絹代に何も聞く事が出来なかった。謎は三つに増えた。


絹代のエピソード  その三 「おつかい」

1959年 10月  絹代は小学三年生になっていた。学校入学前、兄の特訓のお陰で辛うじて自分の名前だけは平仮名で書ける程度だったが、今ではすっかり年相応の学力を身に着けていた。学校は絹代にとってとても楽しい居場所だった。毎日 新しい文字を覚える事で好きな本が沢山読める事。小さい身体ながら運動神経が勝っていた事。絵が得意だった事で先生からよく褒められたりしたからだ。しかし、それより何より、絹代が嬉しかったのは給食である。絹代にとって給食は、たとえコッペパン一つでも不味いと評判のスキムミルク一杯でもご馳走だったから。クラスの中にはあれもこれも嫌いと言って給食を残す子もいて、絹代には信じられない光景に映った。

晴れの入学時にはピカピカのランドセルを背負った子供たちの中で 絹代を含む3~4人の子が古びたランドセルを背負っていた事で、絹代の心は慰められた。絹代は従姉妹から譲って貰ったランドセルと、母が親戚から調達してくれた真新しい、――古着だが――ぶかぶかの服を着て式に臨んだ。父は自分にとって都合の悪い事には見て見ぬふりをする様なズルい大人だったから、入学式に連れ添ってくれたのは従兄弟の勝と兄の重男(シゲオ)だった。

そのランドセルはいよいよ貫録を増しているが、絹代にとってはかけがえのない大事なものだから、兄に教わった通りせっせと乾拭きをして磨いた。

絹代の父は深酒が祟って、この頃には気まぐれ程度にしていた拾い仕事さえ覚束ない状態に陥っていた。それでも、何処でどお都合をつけるのか酒の切れる日はなかった。絹代はこれまで、父の言いつけで学校に入学と同時にしょっちゅう山一つ越えた酒屋まで行かされていた。

ある晩の事。夜7時になろうという時刻に、絹代は父から酒屋へ行って来る様言われた。これまで、しょっちゅう行っていた馴染みの酒屋ではあるが、暗くなってからのお使いは初めてである。頼みの兄はまだバイトから戻っていない。暗い夜道をたった一人で歩く姿を想像しただけで絹代は震えあがった。道路が整備されたとは云え、人通りがほとんどなく野犬がウロウロしているのだと兄から聞いているからだ。

部屋の隅で縮こまっている絹代に構わず、父の濁った怒鳴り声が覆い被さる。

絹代は仕方なく土間に下りて靴を履いた。


幸い満月の夜だった。山といっても開発が盛んで 極稀に自動車が砂煙を立てながら走っている事もあるにはある。舗装もされていないデコボコの道で、雨が降った後は気を付けないと深い水溜まりに足を取られる。酒屋に向かう途中 数人の大人たちと行き交い 絹代はその都度胸をなでおろした。山でいうところの中腹辺りは新興住宅地として開拓中だが、絹代が歩いている右側はまだ だだっ広い藪で、微かに数軒の灯りが見え隠れしているだけだ。左側は、この為に一角だけ残したと思われる山の頂上に、最近建立されたばかりの仏舎利塔が聳え立っていた。仏舎利塔が完成した当時は、今 絹代が歩いている山道に何キロにも亘って屋台が連なり、祭典は三日以上も続いた。建立祭で企画された「のど自慢大会」で兄が三等賞を取って貰った景品の中に見たこともないお菓子が入っていて、絹代は嬉しくて嬉しくてそこらじゅう跳ねて回ったものだ。

「く~ろ~いい~はなびら~…」確かこんな歌だったと絹代は懐かしく思う。一等賞は勝だった。ギターを弾きながら外国の歌を歌っていた。沢山の女の子に囲まれて、、、絹代は思わずクスリと笑った。勝はその後、バンド活動に熱中するあまり高校を中退してしまい、鬼より怖いと恐れられる田中一族の長から勘当を言い渡されてしまったが、6人兄弟の末っ子で、しかも唯一の男の子だった為そんな罰などないに等しかった。勝の父と絹代の母は兄妹の仲だったからか、勝は重男のアルバイト先を探してきたり、絹代の入学式についてきたり何かと気にかけてくれる様な優しい男だった。


仏舎利塔を過ぎるとゆるゆる下り坂が続く。町に近い、ここまで来れば…と胸をなでおろした絹代の耳に犬の遠吠えが聞こえてきた。近頃 野犬がのさばっていると言った兄が頑丈な角棒を持ち歩いている事を思い出した絹代は 手ぶらで来た事を今更ながら悔やんだ。


「こんな子供を!あの!バカ親父!!」酒屋の女将の声で、隅の方で立飲みしていた男二人が振り返った。二人の視線は遠慮なく やり取りする女将と絹代に注がれていたが、そこに「おばんです」と近所の人らしい若い女性が店に入って来てくれたお陰で、絹代はその、感じの悪い視線から逃れる事ができた。

「途中、何かあったら戻っておいでね」女将はいつも、駄賃だよと言ってお菓子を一つ二つ握らせてくれるのだが、今夜は袋に入れてくれた。酒は当然ツケ払いだから女将の差し出す二合徳利と、駄賃のお菓子を胸に抱えて、絹代は何度も頭を下げて店を後にした。よく解らないが、――なんだか――とても恥ずかしかった。

町から離れるにつれ、人家もまばらになり、形ばかりの街灯がぼんやり弱い光を放っている。誰でもいい、大人が通りかかる事を祈りながら絹代は急いだ。やがて道は山に差し掛かっていく。急ぎ足で上り坂を歩いていると雲間から月が顔を出した。

月の明かりは街灯の光よりも強いと云う事に絹代は驚いた。くっきりと影が映し出され気味が悪いくらいだ。しかし今は心を励ましながら自分の影と共に歩き続けるしかない。やがて、仏舎利塔の辺りに差し掛かった時、左側の藪がザワザワしだした。たちまち絹代の頭の中を、ある予感と恐怖が支配する。そして、予想通り藪の中から三匹の野犬がゾロリと出てきた。

三匹のうち一匹は仔犬だが何の慰めにもならない。絹代は祈るように後ろを振り返った。――誰か、誰か、、、―― 兄が言っていた。「野犬と目を合わすな」「急に走り出すな」「堂々としてろ」兄の三箇条だが、、、「あんちゃん、無理っしょ!!」絹代は心の中で叫んだ。できない、できない、そんな事できない!絹代はわんわん泣き出した。その時、絹代の左肩が大きくうねったが、パニックの絹代は気付かなかった。やがて、大きい方の犬が二匹、脅す様に泣き喚いている絹代に纏わりはじめた。

絹代はどうする事もできず、全身をガクガク震わせながらされるがままである。気づくと野犬は二匹増えて五匹になっていた。

更に、月にわずか雲がかかって絹代と野犬の影が薄れた時、藪の中から一際(ひときわ)大きい茶褐色の野犬がヌッと姿を現した。背後に十数匹従えている。「ボス犬、、」絹代は兄からボス犬の事は聞いていたのですぐに解かった。茶褐色で大きい、いつも子分を従えている。利口な犬で、無闇に人に危害を加えるマネはしない。兄はそう言っていたが何故そんな事が分かるのか?ボス犬は絹代に纏わり付いている五匹を追い払うと、絹代の前に立ちはだかった。絹代は目を合わさぬ様月を仰いだ。顔を上げるととしょっぱい涙が口にも流れ込んで来る。ボス犬は絹代の周りをゆっくりと、時折絹代の様子を窺う仕草を見せながら、徐に歩き出した。訳が分からず突っ立っている絹代の尻を子分が突っついた。このサインは絹代にも理解できた。ボス犬が歩き出した方向は絹代の家路である。

だが、助けてくれるのか?と、絹代が安堵の吐息を漏らし、ボス犬の後を歩き出した途端、ボス犬に追い払われた五匹が突然牙を剝いた。五匹の中でも気の荒そうな、やや大型の一匹が絹代を取り囲む様に歩いていたボス犬の子分に襲い掛かった。

ところが、ボス犬の動きの方が数段上手で素早かった。子分たちの最前に踊り出し、激しい唸り声で五匹相手に――一匹は仔犬だが―― 戦闘の態勢に入った。ボス犬対五匹、この勝負は実にあっけなかったが、やられた五匹はボス犬率いる集団とは別の群れだった事で、ならず者集団を呼び寄せるゴングになってしまった。絹代の家路の方から、酒屋の方角から、仏舎利塔の山の中から、夥しい数の野犬が狂った様に吠え立てて集まって来た。

最早、絹代など問題外の闘いが始まろうとしている。絹代は睨み合っている集団から極慎重に、背中を見せずに、じりじりと後退し遠ざかった。


「実は ボス犬はね」 絹代は空になったテイーカップを両手に包み込んだ。

「はい…?」花音が緊張の面持ちで頷くと絹代は立ち上がり、ちょっと待ってね、と言った。部屋の中は小気味いい温度だが、花音の掌はじっとりしていた。それは花音にも消してしまいたい犬の記憶があるからだ。花音は幼い頃、父の実家 群馬県の高崎市に何度か連れていってもらった。ある日、人気のない実家の前で姉と二人で遊んでいたところ突然、飼い主のリードを振り切った中型犬に激しく吠えたてられ、姉と抱き合ってこの世の終わりの様な声を立てて泣き叫んだ。幸い、飼い主が近くにいたし、家の中からも大人たちがわらわら飛び出してきて、怪我もなくその場はそれで済んだが、花音にとっては 物凄く嫌な思い出として胸に刻まれている。今でも。

だから、絹代の物語に登場した「野犬の集団」がどれ程恐ろしいものか想像はつく。

絹代は新しく紅茶を淹れなおし、花音には炭酸飲料と追加のクッキーをテーブルに置いた。花音は絹代が座るのを待って 「ボス犬、大きかったんですよね?」

と、前のめりになって問いかけた。絹代は紅茶を一口すすってから頷いた。

「あのボス犬はね、私が一年生か二年生の頃に何度も出会っていたの」「え?」と云う表情の花音に絹代は続けた。


絹代が学校から帰ると、入れ替わりに兄がアルバイトに出かけた。現在中学三年の兄は、勝の紹介で中学一年の頃から材木会社でアルバイトをさせてもらっているが、卒業したら、材木会社のオーナーの紹介で膠工場への就職が決まっている。

兄が出かけた後、暖かい日であったので戸口は開けたままだった。大体、夜以外は開けっ放しであるからいつも通りの習慣だった。絹代は、前日祖母が届けてくれた鍋いっぱいの茹でジャガイモを二つ手にして、万能ちゃぶ台に今日の宿題を広げた。芋を頬張りながら アタマの隅では早く済ませて母の家に行こうと考えていた。

ゴトンという音に気付いたのはそんな最中(さなか)である。多分、父親が帰って来たのだと思い、宿題を続けていた絹代だが、父親ならすぐに何かしら言ってくるはずが 何もない事にドキリとした。つい先日も、浮浪者が土間に上がり込んで来たのを兄が追い払ったばかりである。常々、2~3軒だけのご近所さんから鍵くらい付けなさいと言われている。父は鼻で笑っていたが、そもそも父に鍵の概念がないのだから兄もない。ましてや、絹代に…ある訳がないと思うがそうでもない。母と弟妹が留守の時は鍵が掛かっていて入れないし 同い年の従妹の家も留守だと当然鍵が掛かっている。鍵はするものなのだ。

学習はしているはずだが、習慣とは恐ろしいもので、つい いつも通りの開けっ放しにしたままだ。絹代の家、このバラック小屋は12畳程の一部屋と4畳の土間だけである。12畳の部屋で親子3人寝起きしている。土間には水がめと煮炊き用の七輪が二台。あとは父が気まぐれ程度に使う工具箱や筵が雑に積まれているばかりだ。

絹代は怖々土間を覗いてみた。右、左と目を凝らしたが何も見えなかったので、少しだけ安堵しながら鍵――ただのつっかえ棒だが――をしようと土間に降りた瞬間、ナニかが絹代の足に纏わり付いた。絹代が「うーーーわーーー!!」と悲鳴を上げると その声に驚いたのは仔犬二匹。二匹は我先とばかり一目散に土間の奥へと突っ込んでいった。

しかし、なんだ…チビ犬かと安心した絹代は二度目の悲鳴を上げる。薄暗い土間の奥に二つ光るものが見えたからだが、仔犬がクンクン云いながら小さな身体を押し付けていると云う事は…やがて、筵の中から顔を出したのは絹代の予想通り親犬だった。

鋭い目で絹代の様子を探っているが、唸ったり吠えたりはしない。そのうち、仔犬たちが再び絹代の足に絡みついてきた。腹ペコなんだなと思った絹代は鍋から芋を五つ取り出し 仔犬に一個づつ、親犬に三個分け与えた。仔犬は夢中で食べ始め、あっという間に平らげてはおかわりをねだってくる。絹代は又 鍋から芋を二つ取り出し仔犬に与える。

そんな事を繰り返しているうち、鍋一杯だった芋は数える程度になり、鍋底が見える様になって絹代は慌てた。あんちゃんに𠮟られる。絹代は、クンクン云いながらねだってくる仔犬に、もうお終いと言って鍋に蓋をした。その時である。土間の奥の方で静かに芋を食べていた親犬が立ち上がり ゆっくり、絹代と仔犬の方に歩み寄ってきた。絹代は、外から差し込む光で露わになった親犬の姿に声を失った。茶褐色の親犬は全身傷だらけで 耳の辺りからは血が流れている。野犬同士の争いに負けたのか、今みたいに人家に忍び込んでコテンパンにノサレタのか…絹代はどうすればいいのか解らず、たてつけの悪い玄関の戸板に体を預け、親子が出ていくのを呆然と見ているだけだった。玄関口に常に立てかけてあるスコップが一本倒れている。ゴトンという音はこれだったかと絹代はぼんやり考えていた。その後、あの親子が土間に入り込んで来る事はなかったが、絹代はそれらしき親子連れと何度も遭遇している。畑の中で、お使いの途中で、母の家に行く道すがら野イチゴを貪り食べていた時など。不思議だったのは最初傷だらけで、哀れそのものだった親犬の変化である。体が二回り程大きくなって、常に仲間と思われる7~8匹と行動を共にしている。その中にはあの時の成長した仔犬もいたはずだが絹代には見分けがつかなかった。


「じゃ、その時の?」花音の問いに絹代は感慨深げに頷いた。そして言った。「兄の言っていた事が少し理解できたの」花音は頭の中で大急ぎでストーリーを巻き戻した。確か、利口な犬で無闇に人を襲ったりしない…「兄も私と同じ体験をしてたのね、だから あのボス犬がいる限り大丈夫だって思っていたんだと…」


あの日の騒動の後、役場による掃討作戦で野犬は一掃されたが、兄が言っていた言葉を絹代は信じた。「あいつは利口な犬だ。仲間を連れてもっと山奥に逃げたさ!」


花音は震えた。そして今日も謎は解けない。


絹代のエピソード その四 「旅人」

1960年 8月 絹代は4年生。夏休みは今日が最後という日。

絹代は残っている最後の宿題を仕上げようと朝6時40分に起床した。最後の宿題は得意の図画工作だったので写生と決めていた。前の日、眩しいくらいの夕焼けが空を覆っていたので今日の快晴は分かっていた。絹代は先ず、土間の流し台で顔を洗い口を漱いだ。アルミ鍋の蓋を開けると大きめの塩むすびが五個入っている。

兄は、給食のない夏休みや土日休みには、絹代の為にいつもこうして用意してくれていた。兄は、中学を卒業するとバイトをさせてもらっていた社長の紹介で膠工場に就職した。膠工場に就職が決まった時、珍しく勝が反対して俺が何とかするからと言ってくれたが、勝の伝手だと殆どが水商売系だから、重男は自分には全く向いていないと断った。実際勝の生活は重男の目から見れば無節操そのものであった。資産家の親にねだって、今風にいうところのスナックや少々いかがわしさが漂うバーなどを経営しながら、片手間にギター流しもやるという。女出入りも激しくて、いつも、俗に言うケバイ女に囲まれている。沢山の女たちと同居生活を繰り返し、重男が知っているだけで両手両足の指に余る程である。勝は優男風で見栄えがよく、基本優しく気前のいい男なのでとにかくモテた。重男は正直、恵まれている勝を心のどこかで羨む気持ちもあったが、勝の節操に欠けるその生き方だけは受け入れられずにいた。膠工場は臭いもキツイし労働時間も長い。だが、重男は辛抱すれば中卒でも高給が得られるこの職場を選んだ。重男は日曜日以外休みを取らず必死に働いた。工場の始業が7時だったので、毎日の様に握り飯を10個程作り、5個は自分の朝飯と昼飯、残りの5個は絹代と、今、部屋の隅で酒の匂いを振りまき だらしなく寝ている父の分を用意してから出かける。近頃 絹代はそんな父を不快に思うことが多くなっていた。

工場までは重男の足でも1時間はかかる。バスが走っている道路に出るまで30分を要し、バスに乗ろうとしても極端に運行数が少ないから、結局歩くしかないのだ。

だから、二度目の給料で中古の自転車を手に入れた時は 絹代も自分事の様に嬉しくて兄が誇らしかった。そして、兄の体に掴まって初めて自転車に乗せてもらった記憶は生涯忘れなかった。


絹代は先ず、握り飯を一つ食べてから今日が最後のラジオ体操に出掛けた。1キロ程先の校庭まで駆けて ラジオ体操を済ませて家に戻ると父は居なかった。

絹代は担任の先生から貰った画用紙二枚と、兄が器用に作ってくれた写生版と、母がコッソリ買ってくれた8色のクレヨン。これらの宝物を風呂敷に包んで目的地に向かった。握り飯を持たなかったのは 帰りに母の家に寄って何かしら食べさせて貰おうという算段である。

写生を決めた場所は、母の家に近いといっても山ふたつ向こう側だ。確かこの辺りも本家の土地だと聞いたことがある。本家の土地の逆側に近頃テレビ塔が設置された。テレビ塔のこちら側、つまり、本家が所有するこの辺りは自然が色濃く残っているが、テレビ塔側は道路が整備されて拓けている。

絹代はこの場所が好きで、遠い所にも関わらず度々訪れていた。

絹代は腰掛に手頃な石を探し出し、もう一つ画材を置ける大きさの石を探してそこに風呂敷を広げた。足下は湿地だがゴム製の短靴だから水が沁みてくる心配はない。

絹代は早速 山の向こうに聳え立つテレビ塔を描き始めようとしたが、ここで、ある事に気付いた。見間違いかと思ったが、どうも見間違いではないらしい。テレビ塔がほんのわずか右に傾いているのだ。テレビ塔は、お椀をひっくり返した形の二つの山の真ん中から空に向かっていたので絹代にも傾斜が分かったのである。

この当時の絹代は、見たままを描くのが写生だという真理は分からぬまでも、迷わず絹代の目に映ったままを描き始めた。

真っ青な空と眩しい太陽。空には数羽トンビが円を描く様に飛んでいる。

見慣れた風景である。絹代は鉛筆で極薄く、画用紙の半分近くを占めるであろう大きな空と 所々プカプカ浮いて見える白い雲のデッサンから描き始めた。

色を塗り出して数分後 絹代は立ち上がり360度見渡した。空の色が、青は青でもちょっと角度を変えただけで均一ではない事に気付いたからである。

そうなると雲の色も気になりはじめる。雲だって決して均一ではない。さあ、どうしようかと腕組みしながら空を見上げているうち、ふと、違和感を覚えた。空にトンビは珍しくないが、異常なのはその数である。いつの間にか数え切れないトンビの群れが空を覆う様に旋回している。山の何処かに動物の死骸があって集まってるのか、それとも…絹代は、今自分を取り巻く環境が、とてつもなく嫌な事だと気付き、慌てて帰り支度を始めたが、既に絹代の周辺は変化していた。絹代の近くにはいつの間にかトンビではない猛禽が三羽、肩を怒らせ油断なく絹代の動向を探っている。絹代は写生版で頭を隠しへたり込んだ。たかが鳥じゃないかと思う反面、今、目の前にいるコイツラの恐ろしさも知っている。年寄りの犬がコイツラに追い掛け回された挙句、殺されて内臓を引きずり出されて食べられてしまった事。産まれて間もない羊の赤ちゃんが、大人たちが居たにも拘わらずアッサリ攫われてしまった事。絹代は、当時の出来事で今だに納得できていない事がある。仔羊が攫われた時は大人たちが大騒ぎして 追いかける者もいたのに、老犬の時は皆、一様に「ああ…あ」といった感じで眺めているだけだった。その反応の差は何なのか、幼心にも途轍もない理不尽を感じた瞬間だった。

絹代は必死に考えた。ここから一番近い民家は凡そ1キロ。写生版を盾に走れば…それとも誰かがこの獣道を通る事を祈るか…春先には野草狩りで結構賑わう場所でもあるのだ。だが、誰も来なかったら?それじゃダメだ。やっぱり逃げよう!絹代は決めた。足には自信がある。伊達に毎日野山を駆け巡っている訳じゃない!

――しかし――それ!!と立ち上がった絹代に、一旦空に舞い上った一羽が襲い掛かってくると、それまで様子見だった他の二羽も攻撃態勢に入った。

「来ーるーーなーーー!!!!」絹代は力一杯叫んだ。叫びながら板を振り回すと猛禽は一旦離れるが、又すぐに態勢を整えて襲ってくる。絹代が叫ぶ、猛禽は一旦離れる、また襲ってくる。この繰り返される攻防戦に先に斃れたのは絹代の方だった。疲れ果てた絹代は尻餅をついた。湿地帯らしくすぐに冷たい感触が尻に伝わってくる。気持ち悪いが今は構っていられない。絹代は尻餅をつきながらもジワリ近づいてくる猛禽を相手に板を振り回すが、代わる代わる攻撃を仕掛けてくる敵の姿を見て、徐々に無力感にとらわれ始めた。一種、観念にも似た気持ち。ああ…自分もあの老犬の様に、仔羊の様に、……と。だが、完全に諦めモードに入りかけたその時だった。

左肩が大きくうねりナニかが跳ねた。それは、無意識の中でも微かに身体が覚えているいつかの、あの時の感覚、と、言ったらいいだろうか。これまでも何度か体験したはずの感触。普段はすっかり忘れている感覚。それが今、確かにハッキリと絹代の肩を揺さぶり跳ね上がった。

絹代の心にポッと火が点ったのはその時だ。絹代は立ち上がった。そして、背後に迫る猛禽の体を板で打ち付ける事に成功した。初めて!!

猛禽の羽がひらひら舞う。攻撃態勢に入った絹代に、三羽の猛禽は絹代から少しだけ離れたが諦めた風でもなく 依然つかず離れずの態勢のまま隙を狙っている様に見えた。絹代は、こんなヤツラに負けてたまるか!!と、自分を鼓舞し再び猛禽との戦いに突入した。

そして、必死の攻防戦のさなかである。遠くから人の声が聞こえた。絹代が荒い息づかいで声の方に目をやると、獣道を疾走して来る男の姿が見えた。その男はあっという間に絹代と猛禽の間に割って入ると、持っていた大きな番傘で猛禽を追い払った。

だが、猛禽の方も負けてはいない。素早い動きで旋回攻撃を仕掛けてくる。

それでも男が番傘を滅茶苦茶に振り回しているうち、その中の一撃が偶然一羽にヒットし、バシッと云う音と共に猛禽を叩きのめした。形勢逆転となった猛禽は、極アッサリと叩きのめされてノビている一羽を残して飛び去って行った。

「大丈夫か?」散らばったクレヨンを拾い集めながら男が言った。汗と涙が入り混じった汚れた顔で頷く絹代に、ふいに男の視線がある一点に釘付けとなった。

「…お…前…」そう呟くなり男は黙り込んだ。突然黙り込んだ男に、絹代はどうすればいいのか分からず、濡れた尻をさすったり、残りのクレヨン一本を探したり、とにかく気まずくて仕方がない。男は30代後半の中肉中背、青っぽい千鳥格子柄の開襟シャツに作業ズボンを履いており、古びれたトランクを持っていた。ボサボサに髪を伸ばした頭にちんちくりんな帽子を被っているが、よく日焼けしているせいか口元に覗く歯が白く見える。言葉の言い回しから、この辺の人ではなかろうと云う事は絹代にも解かった。解かったが、今はもうとにかく早く帰りたい。絹代は、腕組みをしながら仁王立ちしている男の顔を上目遣いに覗き込みながら 思いきって「あの…」と、声を掛けた。しかし、恐る恐る絹代が口を開くと同時に男が唐突に喋り出した。

「俺は山の向こうの道路を歩いていたんだ。」男が言う通り、山の向こうは道路が整備されている。とは云っても舗装されてない裸のデコボコ道だが。

男は続けた。「トンビの群れは俺にも見えてたよ」「誰かが呼んだんだ、、いや、いやいや違う!引っ張られた!! 何かに引っ張られるままに走ったらお前が居た。俺はトンビのあんな群れは初めて見た、他の鳥なら何度も見たが…」自然の中で育った絹代も初めて見た光景だったから 男の言う群れの部分は至極当然だと思ったが、引っ張られたというのはどう云う事か。男は続けた。「しかし、これだから面白い!!世の中は不思議に満ちている!!」と男は満面の笑みで空に向かい番傘をグルグル回した。絹代は、男が何の事を言っているのかサッパリ解らず唯々小躍りしている男を眺めていた。

束の間の興奮から醒めた男は再び絹代のある一点を凝視した。そして、絹代の左肩に大きな手を置くと「悪霊じゃなさそうだ」と、ボソリと言う。

不安で顔が曇る絹代に、男は「心配しなくてもいい、何でもないから。この状況から見て、多分お前の守護神だ」と言った。

絹代には悪霊も守護神もよく分からないが、助かったのは確かにこのおじさんのお陰だから、おじさんが心配しないでいいと言うならそうなのだろうと、何故だか素直に思えた。

二人が並んで歩き出すと、少し離れた所からノビていた猛禽の一羽が 力強く羽ばたくところだった。男は嬉しそうに「おーーーい!またなーーー!!」と、これ又、番傘を力強く突き上げた。そして絹代には「アイツラも生きるために必死なんだよ」と言う。帰路に向かいながら、男が話してくれたのは「俺は民俗学を研究してて…」日本中を旅して回っている。この町に来る前はサッポロに居た、これからヨコハマに向かう、と言いながら快活に笑った。勿論絹代はサッポロもヨコハマも授業で聞いたくらいの知識しかないから、遠い外国の様に思えた。

別れ際、男は絹代の左肩に顔を寄せ、軽くポンと叩くと「守ってやれよ」と囁いた。そして生真面目な顔で絹代に言った。「お前、これからも辛い事、厳しい事がいっぱいあるよ。でもな、お前は大丈夫だ、大丈夫だ!」男は大きく頷き、もう一度絹代の左肩を叩くと「うん!大丈夫だ!お前には守護神がついている。」男はそう言い残してズンズン遠ざかって行く。訳が分からずボーっとしていた絹代は慌てて 忘れていた言葉をありったけの大きな声で叫んだ。「おじさーん!ありがとうございました――!」

遠くから旅人の突き上げた番傘がクルクル回っているのが見えた。


花音は謎が解けた気分だった。

見える人には見えるんだ。もう自分の目を疑う余地もない。旅人に見えたのは…

多分…アレだ。多分、この世でたった二人だけの唯一の目撃者。

絹代は切羽詰まった顔で、せわしなく 氷だけになっているグラスをカタカタいわせている花音に言った。「そのずーーーと後になって分かったの」何の事ですか?と言いたげな花音に 「何故、羊は助けようとしたのに、犬は、手の届く所にいたのにほったらかしたのか?」ああ…と花音は声に出して言った。が、正直、あまり興味を引く部分ではない。しかし、ここは聞かねばなるまい。花音はグラスに残っている小さな氷を口に含んで喉を潤し話の続きを待った。「要するに、食物連鎖…かな?」「人が死んだら焼くけど、動物は余程の事が無い限り、つまり、疫病以外は死んでも火葬はしない」大型の家畜は専門の工場で解体してもらって 肉にしたり加工されて、その命を全うするのだ。と、言う。だからね、と続く。「当時、犬を食べる人がいた事はいたけど、大概は自然に返していたわね」花音は目を剝いた。犬を食べる?犬を食べる?待って待って!!犬を食べる!!って、無理!無理!無理‼ 花音は予想だにしないあまりの展開に思わず両手で口を塞いでいた。

何という人生だろう…本人はいたって涼しい顔をしているが、こんな環境の中で、その後どうやって生きて来たのか…


絹代のエピソード  最終話 「スーパームーン」


花音はある決心をしていた。絹代のエピソードは作り話ではない。自分には絹代の顔が猫に見えた。絹代もきっと、自分にナニかを見たはずだ。「重くない?」と、何度も私に言った。私が心の奥底に沈めているモノが見えたのか?そうだ…そうかもしれない。いや、絶対そうだ! 絹代は話せる人だ。そうなんだ!話していいんだ!

そう気持ちが固まると、重苦しかった胸の中が幸福に満たされ、見慣れた景色が新鮮に映るから不思議だ。解放感からか花音は絹代の家に向かう足取りがいつもより軽く、羽根でも生えた様に感じられた。


「取り敢えず、ここで一旦おしまいにしましょうか」と絹代が言った。

成長するに従って体験した事は、リアルな厳しい人間模様に過ぎないから、と付け加えて語り出した。


1960年 10月  

真夜中の出来事だった。

絹代はただならぬ気配で目が覚めた。川の字に敷かれた布団に父と兄の姿がない。

絹代の頭はある予感で急激に覚醒した。

土間に下りて靴を履くのももどかしく、形ばかりの玄関を飛び出すと 暗がりの中で激しく言い争いながら父と兄がもつれ合っていた。近所の人たちが離れたところで、組み合う二人に「やめろ!やめろ!」と声を掛けているが、二人の間に入って止めようとする者はいなかった。

近頃、大人し目の兄、重男が父親に憎悪の目を向けて あからさまに罵る口調が激しくなっていた。原因は勿論父のふるまいだ。

酒に酔った父が重男の会社まで押しかけては強引に給料の前借りを強要する事だ。

金を出すまで居座るので、その都度揉めに揉める。会社から厳しく注意を受け、同僚からの視線も厳しい。大半は重男に同情的だが、中には聞くに堪えない酷い言葉で詰る者も少なからずいたのである。

絹代はこの話を重男の口から聞いていたので、漠然とした状況は想像できた。兄が可哀そうで、父が憎らしかった。しかしそうかと云って、当事者である重男の裸の情感をどこまで共有できていたか…


力では重男の方が勝っていた為、とうとう父親は、ポケットから小刀を取り出し、アッと言って飛び退く重男に向けて無茶苦茶に振り回し始めた。取り巻きたちの声が一層大きく騒がしくなった。 「駄目だ!警察!おまわりだ!おまわりを呼べ‼」絹代は取り巻きたちが口々に叫ぶ中を縫って父親の腰に縋りついた。絹代は必死に「父さんやめて!父さんやめて!」と泣き叫んだが、酒の悪魔に吞み込まれた父親の耳には届くはずもなかった。

兄の重男が怒鳴った。「馬鹿!離れてろ――‼」父親の腕を押さえつけていた重男の腕が一瞬離れ絹代を押しのけた次の瞬間 絹代の顔にヌラりとしたものが降りかかった。

重男の「やったな!親父――‼」と云う声が取り巻きたちの殺到と騒ぎで消され、

重男を取り囲む大人たちの間から うずくまる重男の姿が見え隠れしていた。


結局 この事件は親子喧嘩として処理された。

重男が被害届を出さなかったから、と云う事を絹代はずっと後になって母親から聞かされた。

事件の翌日、父が警察に呼び出されている間に重男が戻って来た。絹代は先ず、頭に包帯を巻いているが重男の元気そうな姿に安心した。丁度日曜日だったので絹代も重男も休みである。だが、嬉しくて「あんちゃん!」と駆け寄る絹代に、重男は戻るなり 絹代に身の回りの物をこれに包めと言って大きな風呂敷を投げて寄越した。

重男は数少ない衣類や靴を手早く風呂敷に包み込むと土間に下りて水を飲んだ。

訳が分からず突っ立っている絹代にイラついた重男の声が厳しく飛んでくる。

しかし、一向に動こうとしない絹代に、遂に「来ないのか‼」と怒鳴りつけた。怒鳴ったり、宥めたり、懇願したり、母からの伝言を伝えたり、と、重男は知ってる限りの言葉を駆使して絹代を説得したが、絹代には届かなかった。

なしてだ?(何故)と聞いても、何度聞いても絹代の返事は「わからない」だった。

仕方なく諦めた重男は、部屋の隅で小さく丸まっている絹代に 苦り切った顔で「どうしようもなくなったら、すぐ母さんの所へ行くんだ」と言い残して去って行った。

絹代には兄のように割り切れない、どうしても出来ない理由があった。

あんな父でも一人にしては可哀そう……などと云う事では勿論ない。寧ろその逆だ。

父が嫌いだったし、どうしたら早く独り立ちできるのか、そればかりを考える様になっていたのだから。理由の一つに一年前の母の再婚があった。再婚相手は同郷の遠い親戚筋の男で、母より一回りも若かった。絹代が遊びに行っても嫌な顔をした事はない。だが、れっきとした他人には違いないのだ。もっと幼い頃ならすんなり受け入れられたかも知れないが、もう遅い……絹代の偽りのない心の声である。

二つ目の理由は、やはり父の言動である。母の再婚で火に油を注ぐ結果になった。

理不尽も理不尽、自分勝手も甚だしいが、当の本人にしてみれば正論だから話にならない。歪んだ亡執に操られるまま酒浸りになり、意識を失う直前、毎回必ずこう叫ぶ。「火いつけて皆殺しにしてやる!皆殺しだー!ザマアみろ‼」火い付けての後は辛うじて聞き取れるレベルのグデグデ調だが、その都度絹代は外に飛び出すか、布団を頭から被って耳を塞いで耐え忍ぶしかなかった。こんな、何をしでかすか分からないアブナイ、出来損ないの父を一人にしてしまったら、と考えるだけで恐ろしい。


明日は引っ越しだ。

この数年の間に絹代の家の周辺も随分と様変わりした。地主の畑は住宅街に。

各家庭に水道が行き渡り、電話網も設備され、近くに小さいが商店街もできて生活が便利になった。しかし、この便利さは絹代の家にとっては不都合だった。

水道を引くには相応の資金が必要だったからだ。地主が井戸場を撤去すると云って来たのは六月。今日までの数か月間、絹代は200メートル先の地主の家まで天秤棒を担いで水を貰いに行かなければならなかった。

夜、絹代は家の裏の坂道に 一本だけ地面にしがみつく様に根を張った木の枝に腰掛けた。物心ついた頃からの馴染みの木である。今ではすっかり成長した絹代を持て余す様に枝はしなった。木の下は10メートル程の崖だが絹代はこれまで一度も怖いと思った事がない。

まん丸な月が今夜は殊更大きく見える。そうか、今日は満月なんだ!と、絹代は思ったが、それにしてもこの大きさは何だ? 闇の中に浮かぶ巨大な星。いつもなら青白く光って見える星が今夜の燃える様な橙色はどうだ⁉ 絹代は月に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

まるで本当にあと、ほんの少しで手が届きそうだ。絹代はやがて、夢と現(うつつ)の狭間を彷徨いだした。自分が今、何をしているのか、何処に居るのか、今にも折れそうな枝から転げ落ちて死んでしまうかもしれない意識があるにはあるが、どうでもいい。

いっそ、月が自分を攫ってくれないか、とさえ思う。切実に。絹代は両腕を大きく広げ無心で月に抱きついた。だが、絹代を支えていた両腕が枝から離れると同時に左肩が大きくうねった。その瞬間、冷水を浴びせられた感覚を覚え、絹代は現実に引き戻された。絹代の宙に浮いた足元には 黒々と広がる崖があるばかりで、絹代はそれがまるで自分を吞み込もうと大きな口を開けている様に見えて、突然恐怖心が全身を覆った。気が付いてみると、絹代を乗せた枝は大きくしなりミシミシ言って すぐにでも折れそうだった。この崖を怖いと思ったのは初めてだった。

絹代は震えながらも慎重に身体を幹の方に移動させた。身体を完全に幹に密着させてやっと絹代は安心した。安心してみると、何故こんな事になってるのかと自分に聞いてみた。勿論 答えは都合のいい言い訳ばかりだ。あまりにも月が綺麗だったから、月に唆されてこんな事に。などと、何も言わない月に罪を被せたのがチョットむず痒い。すこし恥ずかし気にその眩いばかりの月を仰ぎ見た絹代は次の瞬間わが目を疑った。

純白の猫が真っ直ぐ絹代に向かって来る。ゆっくりと。ゆっくりと。

絹代は顔を背け、幼馴染の古木にしがみついて無茶苦茶に祈った。「神様仏様お月様、ごめんなさい、もうしません!もうしません!」しかし、もうしません!と祈りながら、何がもうしません!なのかは実際絹代自身も分かっていない。お月様に罪を被せた羞恥心なのか。他に祈る言葉が思い浮かばないからなのか。これ以上首が回らない位顔を背けていた絹代だったが、ふと、谷底が目に飛び込んだ瞬間あの記憶が甦った。普段は心の片隅に追いやられている記憶。しかし、絶対忘れる事など出来ない恐ろしい記憶である。

石碑、井戸場、野犬の群れ、猛禽との闘い。これらは毎日の忙しい日常生活で忘れていられるが、ふとしたきっかけで、何時でも何処でも甦ってくる厄介な心象だった。

だが、今絹代は祈りながらある事も思い出していた。民俗学者の先生は絹代の左肩に手を置いて確かにこう言ったのではなかったか?「お前の守護神だ」その時の絹代には守護神の意味は解らなかったが、今は解っている。

――自分を守ってくれるのなら逃げる必要はない――

心を決めた絹代は思いきって顔を上げた。猫は、白い猫は絹代の目の前にいた。ゆっくりと首を回してから、一瞬だったが絹代の瞳を覗き込む仕草をした。と、同時に絹代の身体をすり抜ける様に姿を消した。


花音は、今日ここに来る前に決心して来た事を差し置いても 絹代のその後が気になって仕方がなかった。ただ、謎は一つ解決した。やはり猫だったか……と、花音は思う。普通に考えたら眉唾ものの話だが 花音は信じた。信じられた。

絹代に尋ねたいことは山ほどあったが、口をついたのは「引っ越しは?遠い所?」だった。「そうね…もっと山奥で、そんなに大きくない一軒家の二階に間借りして…とにかく窮屈だった。でも、そこに居たのは半年くらいで、その後三回引っ越したけど、いづれも酷い環境だった。」酷いとはどの程度だろうと花音は考えた。おやおや、また謎か?絹代が続けた。「ただ一つ良かったのは学校と、いつか話した酒屋がうんと近くなって、それぐらいかな?」「その……お兄さんとは?」「兄はね、」と言いながら、絹代はつっと立ち上がって冷蔵庫を開けると 一房の葡萄を出して空になっている花音の皿に載せた。絹代が嬉しいのは、花音がこうして自分物語を聞いてくれる事と、好き嫌いが無いせいかもしれないが、なんでも喜んで食べてくれるところだった。

「兄はね、あの後しばらく勝さんの所に厄介になっていて…」

ああ…あの勝さんか、と、花音は濃厚な葡萄の味を噛みしめながら頷いた。

資産家のボンボンで優しくてモテモテの男性だ。重男のバックボーンが勝なら何の心配もいらないだろう。しかし、お兄さんラッキーでしたね!と言った花音に絹代の表情は曖昧で寂しげなものだった。


田中一族は散り散りバラバラになった。没落と言った方がいいだろうか。

長老が亡くなった後、長男である勝の父親が跡目を継いだが、元々不仲であった二男、三男、四男と揉めに揉めた挙げ句、他家に嫁いだ長女、次女とそれぞれの伴侶まで巻き込んでの諍いが何年も続く最中(さなか)、突然首吊り自殺をしてしまった。全てを長男の勝に委ねるとしたためられた遺言書は、骨肉の争いが始まって間もなくの事。それが国の然るべき機関に保管されていたというから 覚悟の自殺だったのかと、これはこれで物議をかもした。跡目を継いだのが勝だったが、元々放蕩に近い生活を送っていた勝にとっては 父の自殺はともかく、突然の棚からぼたもち的な襲名に大いに慌てた。 端から「家を守る」と云う気概も酪農を続ける覚悟などは毛頭無い。が、自分が継がなければ骨肉の争いは続くだろう。どっちにしろ揉めるのであれば、と勝が下した判断は…

勝は全財産を一族に均等分配すると宣言して実行した。取り分が減る本家筋は到底受け入れられないが、むしろ数では勝っている分家には恵みの雨の様な出来事だった。

ここに新たな諍いが勃発したが、勝は我関せずを貫き通す。しかし十数年後、遺産がある間は勝の放蕩も許されたが、底をついてしまうと、最初は母や姉にねだって凌いでいたものが、それも行き詰ると今度は、昔昵懇の仲だった女たちの間を渡り歩く様になった。しかし、これはこれで上手くいくのだから分からないものである。


花音はガッカリした。そんな軽薄な人だったとは。後付けだが、絹代の兄が何となく勝と距離を置いていた事が分かった気がする。

「兄とは、一度だけ、それも偶然…会っただけ」花音が頷く。「兄は18歳で航空自衛隊に志願して、内地(本州)の何処かの駐屯地に居るって言ってた」花音は又黙って頷いた。「一応、元気でやってるか…って、聞いてくれたけど、それだけ。」

「それだけ?」「そう、それだけ言うとスタスタ行っちゃった」語り口は淡々としたものだが、花音にはこれまでにない絹代の途轍もない哀しみが伝わってきた。あんなに、あんなに絹代を庇っていたお兄さんなのに…やはり、あの事件の後 絹代が兄の必死の説得を振り切ったせいだろうか…

そんなの酷いよ、本当の理由も知らないで…花音の歪んだ頬を涙が伝った。

絹代は花音の手を両手で包みながら コクコクと小さく何度も何度も頷いた。


この日を境に二人はお互いの事を、親愛を込めて「のんちゃん」「キヌさん」と呼び合う様になった。










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