サイアクな状況
「ドクター! 怪我人だ!」
「……! これはマズい! すぐに処置します!」
地下に運び込まれた怪我人の様子に一瞬うろたえたが、カシミヤはすぐに我に返り、持ち出した車輪付きの台に意識のないウィレムを乗せると、脇目も振らず鉄の大きな扉の向こうに消えていった。
「ジャンヌさん! ……あいつハ……! ウィレムは……!」
「安心しろ、奴は稀代の天才だ。……今はあいつを信じるしか無い。……とにかく、その刃傷の手当をするぞ」
ジーナは薬が染みる痛みにうめき声を漏らすどころか眉一つ動かさない。よほどあの少年のことが心配なのだろうと察したのか、ジャンヌは口を開くことは無かった。どんな言葉をかけたとしても、その感情を和らげることが出来ないことは身に沁みて分かっていたのだろう。一通りの手当が終わると、ジーナの手元に不思議な色をした、湯気の湧き上がる石の容器が置かれた。
「わたしハ……」
「ん、どうした」
渡された飲み物を一口だけ流し込むと、ジーナはうつろな目をしたまま語りだしたのを見て、ジャンヌは音も立てず隣に座り込んだ。
「わたしハ……パンデモニウムの人じゃなくテ……イェヘムから来テ……」
「ほぉ、あのイェヘムの村からか」
イェヘム。闇の世界の原住民族たる死神族は、より後に現れた人々と習合し、住むところを同じくしていく中、その流れに従わない者達の住む村だった。
「はじめてパンデモニウムの街に来た時……突然……」
「……何かあって、あの少年に助けられたのか?」
ジャンヌの推測が当たっていたようで、うなずきながらジーナはまたコップの中身を飲み下した。
「……なるほどねぇ」
ジャンヌは極めて面倒な課題に直面したような面持ちになって肩をすくめた。命の恩人があれだけひどい怪我を負っていたら無理も無いだろうが、それだけにかける言葉を見つけられない。
「よし、一丁上がりだ。……いいかジーナ。今、私達に出来ることは一つだけだ。……これからの事を考える、それだけ。……私はお前が採ってきてくれた薬草でマルティス王子を仕上げてくる。待っていろ」
あくまで冷静な表情を崩さないまま、ジャンヌはうなだれている怪我人の頭を優しく撫でてやると、すっくと立ち上がって別の部屋に走っていった。
◆
「ぎえええええ!!」
「うわッ……」
ジャンヌが出ていってしばらくすると、この世のものとは思えない断末魔が響き渡り、一言二言やり取りがあったと思えば、ジーナが座り込んでいた場所に、見事復活した王子が現れた。どういうわけか鼻を真っ赤に腫らし、赤く染まった両目からは涙がこぼれている。
「世話をかけたな……ジーナ」
「王子! よかっタ! ……って! ナニコレ!」
見事復活したマルティスに近づいた瞬間、ジーナは突然鼻を刺した空気に驚き、思わず顔をそらした。あの二種類の薬草が混ざると、まるで強い酸で鼻の中を焼かれるような痛みに一層の磨きがかかるようで、今度は自然な反射による涙がジーナの頬を濡らした。
「全然取れないよなこれ。こんなナリになったせいか、一層鼻に響くんだよ。とはいえ、ようやく戻ってこれた」
「もどって……?」
奇妙な言い回しに首を傾げるジーナに、マルティスは呪いのせいでタマシイが体から離れていたようだった、と付け加えた。実際の所、自分の魂がどんな状態にあったのかは本人にも分かっていない。
しかしヒトからまるで獣人のような姿になってしまっている中、マルティスの中身……つまりタマシイはこれまでとまるで変化していないことだけは、ジーナにもマルティスにもはっきりと分かっていた。
「これ……作り物……じゃないよナ」
「前に言った通り、変異の呪いの影響らしい。この耳から尻尾まで、全部作り物じゃない本物だ。だから……ふがっ!」
「歯の形も獣人ダ……こんなことがあるなんテ……」
口をこじ開けて覗いてみれば、オオカミか何かのように、するどく尖った牙が生え揃っている。口の中に手を突っ込んで見れば、必死で舌を動かして口の中の異物を追い出そうとするところまで、イヌか何かとそっくりである。
「やめろ!」
「うわぁよだれでベトベト」
「そりゃそうだ! 妙なことするなよな!」
「やりたくなったラやらないと気がすまないかラ」
ジーナが何食わぬ顔をしたまま、両手にまとわりついたベトベトを体毛で拭い取ろうとするのをマルティスが全力で抑え込もうとしているが、やはり力では勝てず、ついには押し負けてしまった。
「はぁ……楽しそうで何よりですよ」
「……あんまり楽しくはないが……」
諸々の支度を終えて戻ってきたジャンヌは、二人がじゃれ合っている様子を見て、深い溜め息を吐いた。この非常事態に何をしているんだか、と聞こえるか聞こえないかの声でつぶやくと、二人に場所を変えるように促した。
◆
「ウィレムは?」
「……まだわからなイ。ドクターが今治療してるらしイ」
「……なら大丈夫だな。お前の怪我ですら完璧に直したんだ。いわんやあいつをや、ってもんだ」
ジャンヌに連れられながら交わされる短いやり取りには、三人組のうちの一人が必ず戻っててくるという確信が見て取れた。ジャンヌはそれを尻目にしながら通路の突き当りに座していた扉を指さした。
「ここだ。ここで少し話をする」
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