闇の雨の中で


 ドクン!


「……!」


 重い傷を負い、大雨に打たれていたジーナは、自分の心臓の、ある一度の鼓動が魂にはっきりと響き渡り、死の境にあった意識がこの世にまた飛び起きた。


 「ゆ……夢か……?」


 もちろんジーナの言葉に明察の通り夢である、と答える者はいない。ただ冷たい雨の音と共に雷鳴だけが周囲に響くだけ。それは言葉を発した本人も分かっていた。

 ずっと手負いの身でぬかるんだ地面を這いずり回り、雨で体が冷え上がり、いつの間にか気を失ってしまっていたようだ。どれだけの日子が過ぎたのかはおろか、あれからどれだけ歩を進められたのかもわからないまま、死を待つがごとくにジーナは気絶していた。


「王子……? 良かった……」


 ジーナは背中に乗せてあったマルティスを一瞥した。無事息があることを確認すると、安心したのか長い息を吐いた。白く化けた吐息を追うように目線を上げると、ジーナはその目を見開いて驚愕した。周囲を取り囲むは四足の怪異、『ヘルハウンド』だ。闇の中に輝く赤い瞳の数は数え切れず、不気味な唸り声が幾重にも連鎖する。


 幸いにもヘルハウンドはこちらから敵意を見せなければ襲ってこない。死期の近づいた獲物が息絶えるのを今か今かと待ち構えるだけで、何もしてこないという。

 ……しかし、それは少しでも敵対する素振りを見せなければ、の話。さもなくば連中の持ち帰る死体に有無を言わせず仲間入りさせられるだけだ。

 ジーナは祖母から聞かされていた話を思い出し、目を合わせまいとうつむきながら、その場から逃れようとあてもなく進む。鉛のように重い色をした雲が月を覆い隠し、加えて大雨とくれば、見える範囲は手の届く範囲ほどしか無い。それでも他にできることは無い、とただ無我夢中に地を這い、助かる道を探すしか今のジーナにはやりようはない。


「王子……ダイジョブだからナ……なんとか安全な場所、探すかラ……」


 マルティスは宰相の謎の攻撃を受けてからずっと眠ったままで、当然ジーナの呼びかけに答えることは無い。

 それでもジーナは目を見開き、ボロボロの体に鞭打って身を起こした。左腕を勢いよく地面に叩きつけ……


 ぎゅむっ


「あっ」


 その叩きつけた先には、かなり近くまで迫りきていたヘルハウンドの足があった。小さな悲鳴をあげてのけぞった瞬間、周囲の魔物たちの目の色が変わった。


「ハハ……ごめん……」

「「「キ……キキキキ……」」」


 ジーナの言葉に魔物が耳を貸すわけは無い。五十匹はいるであろう群れが一斉に不気味な牙を剥いて少女に飛びかかる。既に死期を悟ったのか、あるいはもう体力が尽きてしまったのか、その場から動かずにうわ言のように繰り返すだけになった。万事休すと思われた瞬間……


 突然、ジーナ達をぐるりと囲むように巨大な火の嵐が巻き起こった。火に全身を飲まれた魔物はたちどころに灰になり、巻き込まれずともその爆風はヘルハウンド達をどこか遠くに吹き飛ばし、宙を舞う獣達が視界から消えたと思えば、遠くから何かが地に叩きつけられる音と犬の悲鳴のような声が聞こえるばかりだった。


「な……なんだ……? 突然昼間のように……」

「まったく……魔物に襲われてると思って助けに来てみれば……まさか子ども二人とは……育児放棄も甚だしいな」


 状況を飲み込めず、ただ大雨の中にあっても消えるどころかますます燃え盛る炎の熱と光にあっけにとられているジーナの後ろから、黒いローブで身を隠した何者かが話しかける。

 炎の起こした風がローブを一撫ですると、フードで隠れていた顔が顕になった。

 紅玉のように真っ赤な髪をした女だった。鋭い2対の角が側頭部に並び、その鋭い双眸はまるで夕日のような煌めきを帯びている。


「ひ……ヒト……?」

「失礼だな君は……私が化け物か何かに見えるとでも?」

「助かっタ……感謝しまス……」


 「……ッと、二人共酷い怪我じゃないか! その髪の色……君は死神族の者か。 む……? そのお方は!」


 女はマルティスの懐で何かが光ったのを見るなり、小さく飛び跳ねて二人から距離を離し、両腕に細長い剣を構え、動けないジーナの首元に突きつけた。


「貴様……どうしてこのお方を連れている。まさかあの邪教徒の手の者か」

「エ……? ジャキョウト……?」

「ふん……当然か。まさか邪教徒が自分を「はい邪教徒です!」などと言うはずはあるまい。死神族が邪教に堕ちるとはな……悪いがそのお方は預からせてもらう」


 女はマルティスの足を勢いよく引っ張った。しかしマルティスの回収は失敗した。どれだけ強く引いても、まるでビクともしていない。女が足元を見ると、ジーナがマルティスを渡すまいと必死で両腕を掴んでいた。


「渡さなイ……! あいつに……頼まれタ……絶対守る……ッ!」


べキャッ


「ぎゃうっ!」


 女はその言葉に何の反応もせず、ジーナの顎を鋼鉄の靴で勢いよく蹴り飛ばした。宙を踊り、叩きつけられて頭を強く打ってしまったのか、地に倒れ伏したまま動かなくなってしまった。


「ふん……邪教徒め。魔物の餌にでもなるがいいさ。そうさ……私はただこの王国を汚すクズを一匹潰しただけ……思い出せジャンヌ。奴らがかつて私に何をしたのかを。……忘れるなジャンヌ。王へのを旧恩を……」


 ジャンヌとひとりごちた女が少女から目をそらし、マルティスを担ぎ上げてその場を立ち去ろうとするも、その動きを止めるものがあった。


「ま……て……」

「!? 王子!」

「そいつ……敵じゃない……そいつも……あそこに連れて行け……!」


 突如声を絞り出したマルティスに、ジャンヌは真っ赤な髪を打ち消さんばかりに顔を青くして、意識を失っているジーナを担ぎ上げた。顎の骨が砕けてしまったらしく、顔が血だらけになっているがまだ息はある。

 ジャンヌは暗闇の中、マルティスの言った“あの場所”への道を歩み始めたのだった。

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