パンデモニウムの晩鐘

ご〜〜〜ん…… ごぉぉぉぉぉ〜〜ん……


 人々に入相……つまり夕暮れ時を伝える鐘の音がパンデモニウムの街に鳴り響いた。

 街の中心から少しばかり離れた所に構えられた酒場の店主は、晩鐘を聞き流しながら、影をそのまま削り出したように透き通った黒曜石のグラスを丁寧に一つ、また一つと磨いていく。


 「……ハァ」


 男はここ数週間ずっと閑古鳥が鳴いている店の中を一瞥し、誰に聞かせるでもなく大きなため息をついた。

 何人かの常連はこの酒場に足を運び続けていてくれていたが、今日この日はそれすらも無い。

 ほんの数分前、配られたある紙の記事がでたらめなのかどうかは男にはわからない。とにかく、のっぴきならない事が起きていることは漠然と理解しているのだろう、貼れと言われたその紙を忌々しげに睨み、鉄の杭を力いっぱい、それもまるで呪いをかけるように十字に打ち込み、磔にした。

 

 晩鐘が鳴る頃には皆それぞれの生業を終わらせ、種族も身分も関係なく足並みを揃えてこの酒場に行軍し、互いの勤労を称え合う……なんて高尚ぶった気色の悪いことなんてせずに愚痴ったり、あるいは酒に任せてランチキ騒ぎを起こしてみたりと、連日退屈することは無かった。


 誰が言ったか『大帝国の文化、酒場に在りて生くる』……そんな酒場の中で二番目に大きなこの店も、今は魔王が崩御し、万民が喪に服しているのかと見紛うほどに静かだ。


「パパ~? 潮イモと海鮮スープの仕込み終わったよ~!」

「……あいよぉ~。よし、じゃあ仕事前に飯でも食うべ」


 男は気丈に自分の仕事を手伝ってくれる娘には暗い顔は見せられない、と無理に明るい声を作ってそう返し、来もしない客を迎えるための英気を養わんと、テーブルから離れようとした瞬間……


 ガチャッ……ちゃりりりん……


 扉にくくりつけられた澄んだ鈴の音が鳴り響いた。振り向いた先に立っていたのは、大きな傘を頭にかぶった何者かだった。


「ご無礼する……空いておるかの?」

「ええ、もちろんでっせ。おきゃっさん、見ない顔だねぇ」


 その「よそ者」のゆったりとした衣装は、小柄に見えるはずの体格をずいぶんと大きく、威圧的に見せている。見ない顔だ。男はそう言ったが、頭の傘で顔の上半分が隠れているのだから当然である。

 男はタコ足と海藻の酢漬けをお通しとして差し出しながら、『新顔』の特徴をつぶさに観察する。なだらかな曲線を描く大小の剣を腰に差していることもさることながら、なによりも目を引くのは、その笠だ。


 この類の装飾品は、少なくともパンデモニウムの街ではほとんど目にしないものだったが、笠の穴から飛び出した一対の角を観測すると、男は安心したように肩を下ろした。少なくとも同じくツノを生やした魔族である、それだけ分かれば十分だったのだ。


「なんにしますかい?」

「プルガトリオを一杯」

「……おきゃっさん、失礼ですがお年は?」

「む……二十である」


 店主の男は座り込んだ客の手を見て、何か気にかかるものを感じたようだ。酒を飲める歳頃にしては、あまりにも声が若々しく、手が小さい。年齢を聞いた瞬間、その客の醸し出す空気が一瞬揺らいだのを、店主は見逃さない。


「へぇ~、そうでっか」

「……なんだ……? ワシが小童に見えるかの?」

「いえいえ! ただ念のため……ね? なんせプルガトリオは火酒を通り越して『煉獄酒』なんて呼ばれるくらい強い酒なんで、よしんば子供が飲んだら即死は免れないんで……」


 必死に平静を装う男の頬に冷や汗が伝う。これまで平静だった空気が、年齢を疑う事を言った途端に震えだしたのだ。


「そっ……そうだおきゃっさん! これ見てくだせぇよこれ!」


 男は話題をそらそうと、ハリツケにされた張り紙を無理矢理引きちぎり、四隅がビリビリになった紙を客の前に差し出した。


「ビリビリだの……」


「革命は為った」、そんな物騒な文言が見出しに据えられたその紙には、万民を分断せしめる、階級制度に根ざしたこの帝国は打倒され、これより新たな、平等な政治が行われる。不正や搾取によって退廃したこの街もまもなく立ち直る云々と、これまたどぎつい字体で書かれていた。


「あっしにゃとても受け入れられねぇっすよ……この店が流行ってた時、貴族への愚痴やら、平民への侮辱やらなんざ聞いたこともなくてねぇ。……確かに、客が来なくなったのはそうなんですが、それを帝国の政治のせい、なんて断じるのはどうも腑に落ちなくてねぇ」

 

「……もし……それが民の総意ならば……せんなきこと……」

「そうだ! おきゃっさんみたかい? 今から三時間くらい前、突然大砲がなったんでさぁ! それも一回だけ!」

「……祝砲ではなさそうだのぉ」

「これはあっしの考えなんだがね……もしかして、逃げ出したらしい王子とその仲間は大砲で逃げたんじゃないのかって」


「ふ~む……そういえば、指名手配の張り紙が街中にあったのぉ……小娘の首に百万オーラムとはこれいかに、と思ったが……この手の革命で王族の利用価値は大きいからのぉ、なんとしても取り戻したいのも無理はあるまい」


 一連の話を聞いて、何か思うところがあったのだろう。客はゆっくりと立ち上がり、今まで被っていた笠を脱ぎ去った。


「……酒を口にしなかったのは正解だった。店主。ご馳走になったでござる」

「……そうでしょう? また来てくださいよ。そうだ! お名前は?」


 店主の目に狂いは無かった。その客は、たしかに大人びているものの、顔つきに幼さ……どころのものではなかったのである。

 濡らしたような黒い伸び放題の髪を後ろで縛り、切れ長の目には怪しさを秘めた真っ黒な瞳が浮かぶ姿は、少なくとも店主が知っている地に住む民のそれではなかった。


「……拙者はダイゴロウと申す者。いや、『ダイ』と呼んでくれればよい。……では、また会おうではないか」


 お通しの代価の銅貨三枚を机に置き、ダイゴロウと名乗った少年はその酒場を後にした。


 ◆


 高台に立ったダイゴロウの肩をひやりとした海風が通り抜ける。

 四方を海に囲まれたこの島の端に立ってみても、陸地はとてもではないが見えない。どう考えても、大砲で陸地まで飛べるわけがない。だがダイゴロウの目は、直ぐ側にそびえる魔王城の城壁の窓に、真っ黒な焦げ跡がついているのを見逃さなかった。


「あの方角か……」


 ダイゴロウは静かにそうつぶやいた。パンデモニウムは東西北、三つの方角にかかった橋で周囲の大陸とつながっている……が、どういうわけか橋が封鎖されている。危険なサメの餌になりたくなければ、泳いで渡ることは現実的では無い。


「だが……このまま呆けておれば誰かに百万オーラムを横取りされるかもしれぬ」


 王子を連れ去ったほどの奴だ、当然他の街でも手配されているだろうとダイゴロウは踏んだのか、既に砂浜にまで至っていた。


「待っておれ……百万オーラム!」


 ダイゴロウは海の果てをその鋭い目で睨み据え、高らかに叫んだのだった。

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