壺や教典

中学生になって、恐らく母が統一教会から逃げた時期がありました。確信はありませんが、母と買い物から帰ると2人組の女性が家の前で待ち伏せをしていたのです。母はその人たちを軽くあしらって家に入っていきました。この頃は母とよく話しをするようになっていました。

しかし、家に電話がかかってきてそれに出ると、「長野」と名乗る女性から母の勤務の日数を教えてほしいと連絡がありました。誰かと問いかけると「母の友人だ」と。それを素直に信じてしまった私は母の勤務状態やその月の勤務予定を教えてしまったのです。その後、母に怒られましたが今思ってもあの時どうして教えてしまったのだろうと猛省するばかりです。

それから暫くしないうちにまた母が家を空けることが増え、日曜日も朝から居ないことが増えました。


母が恐らく教会に戻ってしまってからの私の中学生時代は、人よりも長い反抗期を迎えました。この頃には「父も母も私を愛してくれてなんかいない、私が死んだって世間体を気にして外面では泣いたふりをするけど内心死んでもどうでもいいと思うに決まっている。」と思っていました。

そのせいか、リストカットも止まらず、部屋で暴れてしまうのが止まらないこともありましたし、エリに対する暴力も止められませんでした。

そんな私を止めてくれたのは、同じ統一教会を信仰する親をもった、私と同い年の従兄弟でした。彼の、

「いつまでも子どもみたいなことしてないで、自立して大人になろう。」

そう言われたのをきっかけに私の反抗期は嘘のように終わり、エリとの関係もここから良くなっていきました。


だいたいこのくらいの時期から母にはお金を出すことを渋られるようになりました。ノートがない、シャーペンを買いたい、学校で要るものがあってお金が要る…。そういったものの要求を全て煙たがられるようになりました。

「そんなお金、お年玉を貯めて自分で出すものやろ!」

日頃、誕生日以外に欲しいものをお菓子すら買ってもらえなかった私にとってはお年玉は唯一友だちと遊ぶための費用でした。母からお小遣いなんて貰ったことなんてありませんでした。

その頃から家に白い壺が数個、置かれるようになり、本の端に金箔が貼られた教典のようなものが増え始めていきました。

学校の友人たちに、学校が主催する長崎県の原爆跡地の観光に1泊2日で行かないか、と誘われました。私は学生時代の友人たちのことは大好きで、2つ返事で「行きたい!」と返事をしました。

しかし問題があります。私はお小遣いを貰ったことがありません。その長崎観光に行くにはどうしてもお金が必要でした。少ないお年玉では行けるようなものではありませんでした。お年玉は全て合わせて良くて1万あるようなものでした。

私は母にお願いをすることにしました。しかし母から言われたのはとんでもない言葉だったのです。

「そんなもの行かなくていい。お前はずーっと家に居たらいい。友だちなんかと遊ばなくていい。ずーっと家に居れ。」

ケラケラと笑いながら言われたこの言葉は衝撃的すぎて今でも忘れられません。父にも相談しましたが、うちにはお金がないから、と説得されました。

この頃から友人たちが私を誘うことは少なくなっていきました。そのうち1人の友人によると「めぐみの親はヤバいから」という理由でした。

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