第一話 車二台持ち!?

「ねえ、凄いでしょ? カッコいいでしょ? 可愛いよね!」


 黒色のジムニーの横で無邪気にはしゃぐ雪子。

 長い手足を大の字に広げ、全身で喜びを表現している様子に、菜津子なつこは笑みを浮かべる。


「あんたは、もう。いったい何歳になったのよ?」

「二十二歳! あ、もうすぐ二十三歳か」

「いや、真面目に答えないでね? そうじゃなくて」


 と、笑みを苦笑に変えながら、菜津子は雪子の側に近づいていく。


「立派な大人なんだから、もう少し上品に喜びを表しなさいってことよ」


 と言って、菜津子は雪子の二の腕をガシリと掴む。


「それはともかくとして。さて、雪子ゆきんこ

「えっ? なに? ……わわっ。菜津子、引っ張らないで。どこに行くの!?」


 困惑する雪子の腕を掴んだまま、菜津子は元来た方角へと戻り始めた。

 ズルズルと、雪子は引っ張られていく。


「ねえ、ちょっと待って。どこに行くのよ? それよりも、ジムニー……」

「いいから、こっちに来なさい」


 笑みを浮かべたまま雪子を引っ張り、菜津子は母屋の脇を抜けて、玄関側へと進む。

 そして、赤いスポーツカーが置かれている車庫兼納屋の前までやって来た。


「雪子」

「ん?」

「この、赤いスポーツカーは何?」

「フェアレディZ Z34 バージョンSTだよ!」

「はい、そこ! 素直に答えない」

「えええっ! 菜津子が質問してきたんじゃない!?」


 本気で驚く雪子に、菜津子はやれやれと肩を落としながら言う。


「そうじゃなくてね? 私が言いたいのは、このZは誰が乗っているのかってことよ?」

「それは、わたしだけど……?」


 そんなこと、幼馴染なら当たり前に知っていることでしょ。と不思議そうに首を傾げる雪子に向かって、菜津子は言い放つ。


「だよね! 雪子は今、Zに乗っているのよね? ってことは何? あんた、大学卒業したばかりの新社会人でありながら、車二台所有ってこと!?」

「言われてみると、そうだね!」


 言われるまで意識してなかったよ、と笑う雪子に、菜津子はガックリと項垂うなだれた。


「雪子、もう少し一般市民の常識を持ちなさい」

「わたしだって、ごく普通の一般市民だよ? それに、菜津子だって知っているでしょ? Zは親戚の叔父様おじさまに借りているだけだからね?」

「いやいや、Zをポンっと貸し与えてくれるような親戚がいる時点で、ブルジョワだから。そもそも、Zとか高級車を、大学を卒業した直後の親戚の娘に譲る時点で、一般的な常識ともかけ離れているからね?」


 雪子自身は、先祖代々続く農家の生まれになる。ただし、母である冬美ふゆみの家系が少し特殊だった。

 そして、その特殊な家系の本家当主である「叔父様」の趣味が、気に入った車を実娘や身内に買い与え、その車が走っている姿を眺めることが好き、という稀有けうなものだった。


「このZもね、元々は祐希ゆうきおばちゃんがずっと乗っていた車なんだよ」

「たしか、叔父様が娘である裕希先生に新しい車を与えたから、お下がりで雪子が貰ったんだっけ?」

「そうだよ。まだ綺麗だし、廃車にするのは勿体無いからって。乗り潰して良いよって言われているんだよね」


 乗らなくなった車を売るのではなく、廃車にしようとする辺りが金持ち志向よね。と菜津子は雪子の親戚の常識を疑った。


「だからね。Zにはガソリン代しか掛かっていないんだよ?」

「車検は?」

「叔父様持ち」

「税金は?」

「叔父様持ち!」

「その他、整備費用は?」

「全部、叔父様持ち!!」

「ブルジョワめ!」

「違うよ、わたしは一般ピーポーだよっ」


 あくまでも一小市民であると主張する雪子を、菜津子は「わかった、わかった」、となだめる。


「それで、雪子。なんでお金の掛からないZに乗っているのに、ジムニーを買ったわけ?」

「ええっとね。それは、聞くも涙、語るも涙の深い物語があるんだよ」

「よし、話しなさい」


 菜津子に促されて、雪子は素直に話し始めた。


「あのね、切っ掛けは十月の初め頃だったかな。お爺ちゃんに言われて、わたしが軽トラを車屋さんに車検に持っていったんだよね」






雪子ゆきんこ、すまないが、軽トラを今日のうちにいつもの車屋へ持って行ってくれんかね? 爺ちゃんは、婆ちゃんを県病院の定期検診に連れて行くことになったから、行けなくなったんだよ」

「今日? 良いけど、朝は車屋さん開いていないし……。仕事帰りの夕方でも良いかな?」

「ああ、構わんよ。車屋へは、爺ちゃんから昼間のうちに連絡を入れておくから。ああ、軽トラは右の新しいヤツだからね?」

「はーい。それじゃあ、今日は軽トラで会社に行って、帰りに出してくるね」

「代車は車屋が出してくれるだろうから、よろしく頼むね。ありがとうよ、雪子」

「お安い御用だよ、お爺ちゃん」






「ってことで、この軽トラを車検に持って行ったんだよ」


 と、Zの右側に置かれた軽トラを指差す雪子。

 ちなみに、車庫兼納屋にはあと二台の古い軽トラが停まっていた。


「それでね。仕事帰りに軽トラを車屋さんへ持って行ったんだけど……。そこで、出逢ってしまったんだよ!」

「あの、ジムニーに?」

「ううん、少し違うの。あのジムニーの前で、ものすごーく落ち込んでいる女の人に!」

「えっ? 意味がわからないんだけど?」


 困惑する菜津子に、雪子は話の続きを語り出した。






 夕方。会社帰りに、国道沿いの車屋へと軽トラを持ち込んだ雪子。

 店員を呼ぼうと周りを見渡した雪子の視線に最初に映ったのは、整備車両が並ぶ車の前に立つ女性だった。


「あのう、どうなさったんですか?」






「流石は雪子。その人に普通に話しかけたわけね?」

「うん。だって、すっごく悲しそうに見えたんだよね。だから、放って置けなくて」






 雪子に声をかけられた女性は、最初は事務所の方を振り返った。そしてすぐに店員から声を掛けられたわけじゃないと気付き、周囲を見渡して、雪子を見つけた。


「あら? 貴女は確か」

「あっ、友里ゆり次長さん!」


 思いがけず、女性は雪子の見知った顔だった。

 女性も雪子だと気付いたのか、身体ごと振り返る。


「やっぱり。総務課の雪子ちゃんよね?」

「はい。雪子ですよ。友里次長さん、どうしたんですか?」


 総務課の雪子は、書類を届けるために現場の次長である友里と面識を持っていた。また、社員食堂でも何度か相席し、会話を交わしたことがあった。

 友里は雪子に質問されて、悲しそうに目の前の黒い車体を指差す。


「実はね。あともう少しでこのジムニーを納車してもらえる予定だったんだけどね……」

「わあっ! この車、とても可愛いですね!」

「ふふふ。そうでしょ? 男性には無骨でカッコ良く見えるらしいんだけど、女性から見たら可愛いわよね?」

「はい。すっごく可愛いですよ。ジムニーっていう車なんですね。覚えました。良いなぁ、可愛いなぁ。わたし、一目惚れしちゃったかも。……あっ。でも、友里次長さんは悲しいんですよね? ごめんなさい」


 可愛いジムニーを目にしてテンションが上がった雪子だったが、すぐに友里の落ち込んだ様子を思い出し、反省する。

 良いのよ、と友里は微笑みながら、落ち込んでいた理由を話した。


「実はね。納期を一年間も待ったジムニーが、ようやく納車するという時にね、急に転勤が決まっちゃってね」

「えっ。友里次長さん、転勤になるんですか!?」

「ええ、そうなの。それも、ドイツに三年間」

「えええっ!」

「あっちの支社で、急な欠員が出たみたいでね。向こうで必要な専門知識を持っていて、すぐにでも動ける身軽な独身者ってことで、私に白羽の矢が立ったみたい。私は若い時にドイツ支社に行っていた経験もあるし、ドイツ語も話せるからって」

「それで、急にドイツなんですか!? それも、三年間って……」


 つまり、これからジムニーを受け取ったとしても、こちらに置いて転勤しなければならないということだ。

 ドイツにジムニーを持ち込む、という選択肢もあるかもしれないが、あまりにも余計な経費や煩雑はんざつな手続きが掛かってしまう。

 それで友里は、待ちに待ったジムニーの納車が目前に迫った状態にも関わらず、いきなり処分しなければならないかもしれない、という悲しい問題に直面していた。


「それにね。契約手続きも終わらせてお金も払ってしまっているから、今更キャンセルも難しいのよ」

「あううぅぅ、そうなんですね」


 踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことだ。と雪子も一緒に落ち込む。


「受け取っても、三年間は乗ることができないないなんて……」

「三年も放置していたら、乗っていないのに傷んでしまうわよね」


 それでも、家族がいれば誰かに乗ってもらいながら維持することはできるかもしれない。だが、独身だったからこそ友里に急な転勤辞令が降りたわけで、そう考えるとドイツ駐在中に車の状態を管理してくれる家族は、友里にはいなかった。


「はぁ……。この子に乗って、ドライブやキャンプに行きたかったわ……」

「友里次長さんは、車がお好きなんですね」

「そう言う雪子ちゃんも、若いのにZなんかに乗ったりして、車好きなんじゃないの? あら、今日はZじゃないのね?」

「はい。お爺ちゃんに頼まれて、軽トラを車検に出しに来たんです」

「そうなのね」


 雪子と友里がジムニーの前で話し込んでいると、事務所の方からようやく店員の女性が姿を現した。


「すみません、お待たせしました」


 店員は、まず最初に友里に声を掛ける。そして、隣の雪子を見て、笑みを浮かべた。


「雪子ちゃん、お久しぶり。軽トラの車検よね? 聞いているわ。でも、少しだけ待っててもらえるかな?」


 どうやら、店員は友里に用事があるようだった。

 しかも、なかなかに深刻そうな話だ。


「友里様、お待たせしました。社長に確認を取ってみたんですが、やはり車を三年間もお預かりして保管するようなことはできないみたいで……」

「ですよね」


 どうやら、ジムニーの今後の扱いについて話し合っていたようだ。

 友里としては、納車した後のジムニーをどうやって三年間も保管しておこうか、それとも処分した方が良いのかと悩み、店員の女性は、まさかの土壇場どたんばで契約がキャンセルになるのではないかと頭を抱えているようだった。


「困ったわね……」

「困りましたね……」


 友里と店員の女性が揃って頭を抱え込む。

 雪子も、二人に何か協力できないかと、一緒に悩み込んだ。

 むうむうと、ジムニーの前で項垂うなだれる女性三人。そこに、電話が掛かってきた。


「あ、お兄ちゃんからだ」


 雪子はスマホを取り出す。


『おい、雪子ゆきんこ。ちゃんと軽トラを車検に持って行ったか? 出したのなら、早く帰ってこい。夕飯だぞ』

「うん。今、車屋さんなんだけどね」


 と、雪子は現場の状況を軽く説明し、兄に妙案がないか聞いてみた。


『雪子!』

「はいっ!」

『お前が、そのジムニーを買い取れ!』

「はひっ!?」


 兄の突飛とっぴな発案に、変な声をあげる雪子。


『お前、ジムニーが可愛いって思ったんだろ? なら、その女性のためにも、お前が代わりに買って乗れば良いじゃないか』

「いやいや、でもね、お兄ちゃん?」

『それにな、雪子』


 スマホの向こうで、兄が真剣な声になった。

 雪子は無意識に姿勢を正し、兄の言葉を待つ。


『良いことを教えてやろう』

「ごくり」

『もしも、お前がジムニーを買ったら』

「買ったら……?」

『畑の中に車で直接乗り込めるんだぞ!』

「すごい、お兄ちゃん!」


 車高の低いスポーツカーのZでは、田んぼの畦道あぜみちや畑の中には入っていけない。

 しかし、車高が高いジムニーであれば、楽々と入っていける。

 可愛いだけじゃない。それが、雪子の心を後押しした。


「あのう。ちょっと言い出し難いご相談なんですけど……」


 通話を終えた雪子は、今も頭を抱える二人に向かい、兄からの提案を伝えてみる。


「もし良かったらなんですけど……。このジムニーを、わたしに売っていただけませんか? あっ、もちろん、三年後に友里次長が帰ってきた時には、返却します。その時は、ちょっと中古車になっちゃってますけど……」


 真剣に悩んでいる者に対して身勝手な提案だといことは、雪子も重々承知していた。

 それでも、この提案が全ての問題を解決する方法だという確信があった。


 友里は、高くない金額を払って購入したにも関わらず、ジムニーを放置してドイツに転勤するという最悪の話を回避できる。店側は、契約者が変わるが、キャンセルという最悪の事態を避けられる。そして雪子は、一目惚れしたジムニーを長い納車待ちをせずに手に入れることができる。


 雪子の提案に、友里と店員の女性の顔色が明るくなった。


「雪子ちゃん、本当に良いの!? 私としては、雪子ちゃんの提案はすごく魅力的なんだけど……。でも、このジムニー、マニュアル車よ?」

「大丈夫ですよ、友里次長さん。Zはオートマですけど、ウチにある軽トラは全部マニュアルですから」


 実際に、マニュアルミッションの軽トラを運転して出社し、帰りに車屋へ持ち込んだのは雪子自身だ。

 農家の娘たるもの、マニュアル車に乗れなくてどうする。という兄の言葉で、雪子もマニュアルの免許を取得し、週末は実家の農作業を当たり前のように軽トラに乗って手伝っていた。


「雪子ちゃんの提案は、素敵なものじゃないでしょうか」


 と、店員の女性も乗り気だ。


「雪子ちゃんは、Zをとても綺麗に乗っていますし、きっとジムニーも綺麗に乗ってくださいますよ」

「はい。その辺はバッチリ仕込まれているので、安心してください」


 叔父様からZを譲り受ける際に、幾つかの条件があった。

 そのひとつに、車を大切に乗ること。という一文がある。

 そのおかげか、Zはいつでも新車のような輝きを放っていた。

 友里も、雪子がZを大切に乗っていることを知っているようで、それなら、と笑みを浮かべる。


「雪子ちゃんが良いのなら、安心して譲れるわ。知らない誰かに売るよりも、見知った美人さんが乗ってくれる方が、私も嬉しいしね。ああ、でも、そうだ。この子、私の好みで少しだけ標準じゃない装備とかを追加しているのよね」

「そうなんですか?」

「オーディオと、タイヤと車高を変えているの。今も、本当は納車できる状態だけど、その部品待ちで預けたままになっちゃっているのよよね」

「そうだったんですね」

「だから、雪子ちゃんに譲るにしても、そういう部分まで支払ってもらうわけにはいかないわ。私からの提案なのだけれど。雪子ちゃんは、車両代金だけ負担してもらえるかしら?」

「ええっ、それじゃあ、友里次長さんがいっぱい損するじゃないですか!?」

「良いのよ。本当なら、丸々大損するところだったのだもの」


 友里の太っ腹な提案を、雪子は喜んで受け入れた。






「というわけでね、わたしはジムニーを手に入れたわけです」

「なるほどねぇ。それで、私たちが知らない短期間の間に、ジムニーを増車したわけね」


 納得した、と菜津子は満足そうに頷く。

 しかし、ジムニー購入の経緯を話し終えた雪子は、逆に不満そうな顔をしていた。


「ねえ、菜津子」

「なに?」

「わたしは不満なのだよ」


 何が? と視線をわざとらしく逸らした菜津子の前に、雪子は回り込む。


「ねえ。そろそろツッコミを入れてくれても良いんだよ? ほら、ここ!」


 と、雪子は自分の頭を指差す。

 菜津子は、はぁっ、と大きくため息を吐くと、目を逸らし続けていた問題をようやく直視した。


「雪子」

「なになに?」

「あんた、なんで朝からパンツなんて被っているのよ?」

「菜津子が被って待ってなさいって言ったんじゃん!」


 愕然がくぜんとする雪子を見て、菜津子は愉快そうに笑った。

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