第71話 スコーンの日(2)

 「仁子じんこちゃん、次の時間、授業ある?」

 「ない」

 だったら、もしかして、杏樹あんじゅが現代社会学に行かないかどうか確かめるためだけに学校に来たのだろうか?

 「じゃさ、どっかでお茶しない?」

 「あ、いや」

 仁子ちゃんは消極的に答える。

 ああ、やっぱりまじめな子は……。

 「お茶するんだったら、日本史研究室行こうよ」

 「はあ?」

 いや、たしかに。

 たしかに……。

 「いや、でも、昨日はケーキとバウムクーヘン出してもらえたけど、今日も何かもらえるとは限らないし」

 「だいたい図々しすぎるでしょ?」と続けようとしたけど、その前に、仁子が言う。

 「今日はスコーン焼いてくるって、昨日、そういう話だったから」

 「はあ……」

 だめだこりゃ。

 何がだめかわからないけど。

 ふと、きいてみる。

 「昨日、何時までいたの? あの研究室に」

 「学校閉まるまでいたよ」

 当然のことのように、泉仁子は言う。

 「だから八時半くらいかな? 追い出しの放送が入るまでいたから」

 明珠めいしゅ女学館じょがっかんは規則上は八時で閉門なんだけど、ほんとうに門が閉まるのは九時ごろで、それまで、学内に残っている人がいないか、ていねいにチェックする。

 女子大だから、まあ、当然なんだろう。

 それで、その最終チェック前に、八時半ごろに、「学内に残っているひとはすみやかに退出してください」という放送が入る。それを「追い出しの放送」と言って、だいたい八時半過ぎぐらいだ。

 つまり、杏樹がつん子さんの店を出たときには、まだ仁子はあの研究室にいたのだ。

 「ずっと古墳の本読んでたの?」

 「いや、まあ」

と、仁子はことばを濁してから、

「文献調べたりとか、あと、古墳だけじゃなくて、木簡もっかんとか石碑せきひとか」

 だめだこりゃ……。

 「途中で三善みよしさんがパスタハウスまで行ってピザ買ってきてくれて、みんなで食べて、それから、また、古墳群の地図とか衛星写真とか、みんなで見たりとか」

 悪魔だ。

 魔女っていうのが生ぬるいくらいの悪魔。

 そこまでして、後輩を日本史の沼に引きずり込みたいか!

 「そして、先生が、明日はスコーン、って?」

 「うん」

 また明るく細い声で仁子は答える。

 「じゃ」

 吹っ切れた。

 「行こうか」

 杏樹も日本史研究室の悪魔に降参することにした。

 伝説のお姫様みたいに、だまされて人買いに買われるよりはずっといい。

 少なくとも、自分で選ぶ余地は、あった。

 あったと信じたい。

 その講義のあった教室棟から階段を下りて、研究室棟へ行く。

 外に出るとぱっと明かりが射して、杏樹と仁子は空を見上げる。仁子も息をついて

「はあ」

と小さく声を立てた。

 晴れていた。

 杏樹が二十歳になった次の日の空は青く晴れて、小さい白い雲が少しだけところどころに浮いていた。


 (終)

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