第33話 赤ワインの時間(1)

 つんさんは、さっきよりちょっと大きいグラスに、赤ワインというのを注いでくれた。

 「あ、すぐ飲まないでね。しばらくしてからのほうが開いて、香りがよくなるから」

と言って台所に戻る。

 「開く」というのがまたどういう状態かわからないけど、香りがよくなるというのだから、しばらく待つことにする。

 香りというと、あの紅茶の香り……。

 あのときは一面の花が咲いたようだった。季節は冬なのに、あのあたりだけ春が来たみたいだった。

 でも、いまは、日本史研究室にいるのではなく、嘉世子かよこ先輩といっしょにいる。

 「最近、マスメディア研、どうなってます?」

 もしかしてなんか踏むかな、と思って、半ばびくつきながら、きいてみる。

 「あ、わたしも最近顔出してないから」

 先輩の答えはあっけなかった。

 「あれ、もともと学部のサークルだし、院生がいつまでも居座るってよくないしね」

 地雷だったのだろうか?

 まだよくわからない。

 「いや」

 杏樹あんじゅはまだ残っていたシャンパンを少し飲んだ。

 「先輩が院生だったから、わたしたち、いろんな相談をしてたんですけど」

 「ま、バカだったよね」

 先輩は言って、軽い笑い声を漏らした。

 「あんたたちもだけど、わたしたちも、さ」

 「いや」

 杏樹は正直に返す。

 「あんまり思い当たらないですけど」

 「それはいいことだ」

 もういちど先輩は軽く笑う。

 肉豆腐はぜんぶ食べてしまって、豆腐の細かいかけらが汁に浮いているだけになった。その汁を、先輩は、レンゲで自分の小皿にすくい、杏樹のところにもすくってくれる。

 つん子さんが出してくれた取り皿はさっきの日本史研究室のケーキのお皿よりも小さい。でも、小さくて少し深みがあるので、汁は広がらないで溜まる。

 その小皿を持ち上げて汁を飲んで、先輩は言った。

 「でも、ジャーナリストになりたい、っていうので、うちのサークル、っていうの、珍しいよね」

 「そうですか?」

 不服とは言わなくても、多少異議があるという言いかたで、先輩に返す。

 「だって、ジャーナリズムだってマスメディアの一種ですから」

 「だから、入る前にもうちょっと研究しな、って」

 先輩はおかしそうにくふくふっと笑う。

 杏樹は先輩に倣って肉豆腐の汁を飲んだ。ちょっと醤油が焦げたような香りがしたけど、うまみが口の隅々まで広がるようで、おいしい。

 「だいたい、新聞記者になりたいって子は、新聞委員会に入るんだよね。そういうのは考えなかった?」

 「新聞委員会ってポスターは見ましたけど、学生が入るものじゃないと思ってました」

 明珠めいしゅ女学館じょがっかんには、大学の先生たちというか大学を運営している人たちのほうに広報委員会というのがあって、学生には新聞委員会というのがあって、広報委員会が『明珠女学館ほう』というのを編集し、新聞委員会が学生新聞として『いなほ新聞』というのを編集している。

 一年生に入った最初でそんなややこしい仕組みがわかるわけもない。

 「学生が入るものじゃないもののポスターを新入生向けに貼るわけないじゃん?」

 そう言われればそうか。そのままことばにする。

 「ああ。そう言われれば、そうですね」

 「おんなじ高校の先輩とか、教えてくれなかった?」

 先輩の目はちょっとうるんでいる。

 「あ、わたしのとこ、おんなじ高校の先輩っていないんですよ、この大学に」

 「ふん」

 先輩が中途半端にうなずいたので、説明する。

 「家が中途半端に遠くてですね、近くの大学行く子は地元の大学に行きますし、遠くだったら、東京とかの大きい街に出てしまいますし」

 「じゃ、なんで明珠女めいしゅじょ選んだの?」

 「高校の部活で、一度、明珠女、来たことありまして」

 「ああ」

 言って、先輩は、まだ残していたシャンパンを飲む。

 「第一高校ね」

 明珠女一高は大学のキャンパスの隣にある。中学校もある。幼稚園と小学校は線路の向こうでちょっと離れているけれど、幼稚園から大学院までの一貫校だ。

 もし幼稚園で明珠女に入って、大学院までいたら、二十年以上をこの学校で過ごすことになる。

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