第5話 杏樹と印象の薄い子(4)

 杏樹あんじゅが言う。

 「わたしはさあ、日本史のこと、なんにも知らなくてさ。受験のときも日本史やってないし」

 で、くすっと笑った。

 いずみ仁子じんこがまじめな子で、他人に厳しくて、なんにも知らないくせに研究室訪問に来るなんて不届きだ、とか言い出したら、やっぱり日本史研究室はやめればいい。そう思っているから気は楽だ。

 でも、印象の薄い、いや、「関東の古墳」以外の印象が薄い泉仁子は、まったく反応を見せなかった。これではどう思われているかわからない。続ける。

 「でも、一年生で日本史概論ってきいて、それでおもしろいって思ってさ」

 目を細めてわざとらしく笑って見せる。

 「わたし、概論、聴けなかったんだよね」

 泉仁子は口もとをゆるめた。頬もちょっと赤みが差したみたいだ。

 「必修の英語と時間が重なってたから」

 どう答えていいかわからない。「どんな授業だった」ときかれても、杏樹は内容まではほとんど覚えていない。

 この子は日本史概論を聴きたかったのだ。でも聴けなかった。その子に「聴くのは聴いたけど内容は何も覚えていない」と言うと、不愉快だろう。

 さあ、何を言おう、と、杏樹には珍しく詰まったところで、扉のほうでかちっと音がした。

 研究室の扉が開いたようだ。

 でもだれも入ってこない。向こうから声が聞こえる。

 「先生、先に入ってください」

 「まあまあ。わたしが先に入ったら結生子ゆきこちゃんが入れないじゃないの? 本、落としちゃうでしょ?」

 「わたしが先に入ったら先生が本を落としますよ」

 「わたしはだいじょうぶだから、なんでもいいから先に入って。ドア支えとくから」

 「だからどうやって支えるんですか? その姿勢で」

 何が起こっているか正確にはわからないけれど。

 ここは自分の出番だと思って、杏樹は立ち上がって早足でドアのところまで行った。

 外開きのドアを内側から押す。少し開いたところで止める。

 「あ」

 そのドアのすき間から、向こう側の女のひとと目が合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る