第2話 杏樹と印象の薄い子(1)
元気に扉を開けて大げさにお辞儀をし、大きい声で言う。
「お邪魔しますっ!」
「あ、はい」
思ったより細い、頼りなげな声が聞こえた。
いきなり壁にぶつかった。
「うわっ!」
いや、壁ではなかった。本に埋め尽くされた本棚だ。それが扉を入ってすぐの正面に立ちはだかっている。前は人一人が立てるぐらいの空間しか空いていない。
「壁」ではないとしても、「本の壁」だよな、これは……。
棚には上から下までびっしり本が詰まっている。いや、本が詰まっていないところもあるけれど、そこには紙をはさんだファイルが積んであったり、箱が置いてあったりして、「ものが存在しない空間」というのがない。
右側を見るとガラス戸棚がある。そこにも本や紙の資料があふれていた。
本棚とガラス戸棚にはすき間があったが、そのすき間は狭く、暗い。どうも右へ行くのは不正解のようだ。
そこで左に行くと、壁に出っ張った柱と本棚のあいだにやっと視界が開けた。
わずか三‐四歩しか歩いていないけど、これだけで、ゲームでダンジョンからやっと抜け出したような感覚がある。
本と紙のダンジョンを抜けた向こうには空間があって、そのまんなかに大きいテーブルがあった。廊下の側には、段ボール箱が置いてあったり、踏み台が置いてあったり、
本ばっかりの研究室だ。
テーブルのまわりには十脚ぐらいの椅子が置いてある。
向かい側のいちばん左の端の椅子に女の子が一人座っていた。
女子大だから、学生は女しかいないのだが。
その子がとまどい気味に顔を上げ、ちらっと杏樹を見て、また顔を伏せた。
なんだろう?
聞いていたのとはちょっと違う。いや、ずいぶん違う。
「えっと」
杏樹が普通に話しても大きい声だと感じてしまう。さっき、この子のか細い声を聞いたあとでは。
「研究室訪問で来たんですけど」
それはわかるよ、と、自分で自分につっこむ。今日はその日なのだから。
相手の女の子は、困ったように顔をそむけた。
印象の薄い子だ。
髪の毛は肩の線あたりで切りそろえている。細面で、そのぶん頬骨が出ているのが目立つ。鼻筋は通っているけれど鼻は小さくてひ弱そうだ。顔色も青白い。白い照明のせいかもしれないけれど、少なくとも顔色がいいという感じではない。青いVネックのセーターの下に黒いドレスシャツを着て、セーターの上にウィンドブレーカーのような薄手の白いジャンパーを着ていた。
小柄で、痩せている。
杏樹がそれだけ観察してから、相手の女の子は顔を上げた。
「あ、いま、先生と
ああ、やっぱりいたんだ、と思う。
安心すると同時に、緊張感も走った。心臓が打つどくっという音が体のなかから上がって来る。
テーブルのところまで行き、椅子の背もたれに手をかける。椅子は、そんなに高級そうな椅子ではなかったけど、パイプ椅子やプラスチックの椅子でもない。明らかに色落ちしているけれど、背にもクロスが貼ってある。
でも、先生がいないところで、勝手に座っていいものだろうか?
コートを脱いで、鞄も置きたかった。照明は白くて寒そうだけれど、やっぱりここのほうが廊下よりも暖かい。
「座っていいんじゃない?」
杏樹の動きが止まっているのを見て、印象の薄い子が印象の薄い声で言った。
「たぶん、しばらく帰ってこないよ、先生たち」
この子の判断に従っていいかどうかはわからない。でも、それだけのことでその先生というのが不機嫌になるのなら、この研究室に来るのをやめればいいだけだ。そう思って、
「じゃ、失礼して」
と言って印象の薄い子に笑いかけ、コートを脱いで印象の薄い子の正面に腰掛ける。鞄を隣の椅子の上に置き、コートをたたんでその上に置く。ていねいに置く。
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