辺境の虜囚 第十八話 境界
エイナは隣室の扉をガンガン叩き、寝ぼけ眼で出てきたシルヴィアを突き飛ばすようにして部屋に押し入った。
そしてシルヴィアの首根っこを掴んで顔を洗わせ、目を覚まさせると、マグス大佐の話を説明した。
最初の内は、ぼんやりしていたシルヴィアも、その内容を理解するにつれ、次第に真剣な表情に変わっていった。
「あなたとカー君なら、一時間もあれば蒼城に飛べるでしょ?
とにかく、一刻も早くシド様にこのことを報告して、当面の指示を仰いでちょうだい!」
エイナがそう言って話を締めくくる頃には、シルヴィアはもう着替えを終え、重い飛行服に袖を通していた。
床に寝そべっていたカー君も、
この二時間後、エイナは川港でマグス大佐の出立を見送っていた。
船がゆっくりと視界から消えていくと、彼女は第四軍から借りた馬を走らせ、自らも蒼城市へと向かった。
ところが、マルコ市街をまだ抜けきらないうちに、街道の上空に黒い点が見え、それが急激に近づいてきた。
エイナの目の前に落ちてきたカー君が、コウモリのような翼を羽ばたかせて急制動をかけ、ドスンと音を立てて乱暴な着地をした。
驚いた馬が
周囲にいた馬車や通行人は、悲鳴を上げながら遠ざかる。
シルヴィアは胸の革紐を引いて、身体を固定している金具を外すと、カー君の背中から滑り降りた。
「早かったのね、シド様は何て?」
エイナが馬から降りて駆け寄ると、シルヴィアは顔に巻いていたマフラーを片手で引き下げた。
「あたしはこのまま王都に飛んで、マリウス様の指示を仰ぐわ!
シド様は『エイナは蒼城に寄らずに、真っ直ぐカイラ村に向かうように』って言ってた。
あの方の見立てでは、あたしたちがカーン少将の捜索に当たるみたいよ」
「うん、予想どおりの指示ね。
それで、マリウス様に会ったら、マグス大佐の要望を容れてくれるようお願いして欲しいの。
大佐は必死だったわ。帝国の工作員が使うルートを明かしてまで、部下だった少将の安否を知りたいと懇願していたの。
伝説化している帝国の大魔道士が、私みたいな駆け出しの手を取って、頭まで下げたのよ。
私たち王国人は、その信義に応えるべきだと思うの。
お願いだから、このことは必ず伝えてちょうだい!」
エイナの真剣な表情に気圧され、シルヴィアは何度もうなずいた。
「分かったわ。あたしはマグス大佐とほとんど話していないけど、あんたがそこまで言うなら信じるわ。
今の言葉は、そのままマリウス様にお伝えすると約束する」
エイナはシルヴィアの手を握り、涙ぐみながら「ありがとう」とつぶやいた。
「カー君が一日で飛べる距離は限られているわ。王都との往復は三、四日かかると思うの。
それくらいあれば、エイナもカイラ村に着けるでしょ? あたしたち、村で落ち合うことにしましょう」
シルヴィアの提案は、エイナとしても心強い。
「ねえ、カイラ村から大森林に入るんだったら、ユニさんの協力を得られないかしら?
森のことなら、あの人とオオカミたちが、誰よりも詳しいわ」
「あたしもそう思ったんだけど、シド様の話では、ユニ先輩は不在らしいの。
でも、協力は得られるだろうって……、よく分かんないけど、蒼龍帝は何かご存じらしいわ。それが何かまでは、教えてくれなかったけどね。
――とにかく、あたしが今言えることはこれだけ。
じゃあ、行くわね!」
シルヴィアは早口でまくし立てると、再びカー君の背中によじ登った。
低い椅子に座って、革ベルトに飛行服を固定すると、ぽんぽんとカーバンクルの肩を叩く。
カー君は四つ足を踏ん張り、身体をぐっと沈めると、翼を大きく羽ばたかせて浮かび上がった。
そして、あっという間に上昇し、空の彼方に消えてしまった。
* *
エイナは馬に乗って、ひたすらに南へ向かった。
そう言うと、馬を走らせたようなイメージが湧くが、実際には
もちろん走らせればかなりの速度が出るが、それだと短時間で限界がきて、馬が回復するまで余計に時間がかかる。
常足でも水飲みや餌やりの休憩が必要だが、長時間進み続けられるので、一日に五、六十キロは移動できた。
しかも、エイナに対しては、蒼龍帝の名で途中の親郷での替馬が容認されていた。
馬が元気なことと、エイナが無理をしたことで、思った以上に行程は捗った。
北部のマルコ港から、辺境中南部のカイラ村までは二百キロほど離れているのだが、エイナはこれを三日の強行軍で踏破した。
ただ馬に乗っているだけで、自分の足で歩くわけではないが、その身体的負担はかなりのものだった。
夜遅く着いたカイラ村の宿に転がり込み、泥のように眠ったエイナは、翌朝ボロボロの状態で外に出た。
全身の筋肉が悲鳴を上げたが、特に股関節が痛くて、歩くとどうしても〝ガニ股〟になってしまう。
軍の出張所で新しい馬を借り、ユニの住む小屋(村から二十キロ以上離れた森の中にあった)まで行こうかとも思ったが、シルヴィアとの行き違いを恐れ、そのまま村で彼女を待つことにした。
結局その判断は正しく、シルヴィアとカー君はその日の午前中のうちに、カイラ村に到着した。
彼女たちもまた、かなりの無理をして飛んできたらしい。
へとへとになっているカー君を村で一番賑やかな広場に残し(精気を回復するため)、二人は氷室亭という居酒屋に入った。
ここはユニが贔屓にしている店で、エイナも偶然彼女と会ったことがある。
シルヴィアは飢えたオオカミのように料理を詰め込んだ後、ようやく一息ついて、マリウスの指示をエイナに伝えた。
「おおよそはシド様の予想どおりよ。
あたしとエイナは、カーン少将の行方を追ってその身柄を確保せよ――ってのが、まず第一の命令ね」
「やっぱりあたしたちだけか……。
参謀本部は、軍を動かす気がないのかしら?」
「あるわけないわ。ちょっと考えたら分かるでしょ、これからタブ大森林に入るのよ。森の中を徒歩でぞろぞろ向かったら、何日かかると思う?
あたしとエイナだけだったら、カー君に乗って空を飛べるわ。
それに、捕まえる相手はネームドの魔導士よ。一般兵なんか足手まといにしかならないでしょ」
「まぁ、それはそうだけど……、でも大佐の情報に従って、経路や野営地に残る痕跡を、
結局は、徒歩が主体になるんじゃない?」
「それが、そうじゃないのよ」
「えと、あの……どういうこと?」
エイナはきょとんとした。
シルヴィアは店の女の子を呼んで、空になった皿を下げさせ、ついでに二人分のケーキを注文した。
給仕の娘がいなくなると、彼女は飛行服の内側から、油紙に包まれた書類を取り出し、片付けられたテーブルの上に広げた。
それは、かなり精密なタブ大森林の地図であった。
マグス大佐から渡されたのは、地図とも呼べない大まかな概略図で、いま目の前に広げられたものとは、精度が段違いであった。
大森林には集落も道もないが、その地図には様々な川の流れや池沼、等高線で描かれた高低、植生の違いまでもが書き込まれていた。
それはアラン少佐とロック鳥が、十年以上もかけて隅々まで測量した成果であった。もちろん、王国にとっては最重要の軍事機密である。
地図の端の方には、一部辺境地区も含まれていて、カイラ村も載っていた。
シルヴィアは村を指先で示し、そのまますっと横に動かした。
「あたしたちは村からこの方向に飛ぶの。まぁ、方向としては大佐の情報とそう変わらないわ。
そして真っ直ぐ五十キロほど進み、この位置で降りる」
「何でここだけ色が黄色いの?」
エイナが訊ねたとおり、ほとんどが濃淡のある緑色で塗られている中で、シルヴィアが指さした地点だけが黄色く塗られている。
「よく見て。小さい文字だけど、何か書いてあるでしょ?」
「えーと、アオ……ヤジロ?」
「そう。大森林を構成する樹木は、ほとんどが針葉樹で、その八割近くがスギ類なのよ。
この緑色で塗られているのは皆そう。
で、この黄色い部分もスギなんだけど、ここだけアオヤジロっていうのが生えているらしいの」
「普通のスギと何か違うの?」
「ほとんど同じらしいわ。
ただ、先の方、まぁ梢に近いあたりの葉が黄色くて、上空から見ても分かる目印みたくなっているそうなの。
とっても香りのいい木で高く売れるから、辺境の近くでは伐り尽くされて、もう見つからないそうよ」
「それは分かったけど、どうしてここで降りるの?」
「ここが境界線なんだって。
安全なのはここまでで、その先に進むのは危険らしいわ。
マリウス様は、『カーン少将たちは、それを知らずに入ったんだろう』っておっしゃってたわ」
「えと、あの……話が全然見えないんだけど?」
「つまり、帝国の連中はこの境界を冒した結果、襲われて殺されたか、捕虜になったんじゃないかってことよ」
「ちょっとまって! つまりその境界って、国境みたいなもの?
でも、ここって大森林のまっただ中よ。人が住んでいるなんて、聞いたこともないわ」
シルヴィアは素早く周囲を見回し、エイナの腕を掴んで引っ張っり、エイナの耳に唇を寄せた。
「いい? これは最高機密に属する話だから、絶対に洩らすなって厳命された話よ!
実はこの境界の先にはね……」
シルヴィアが一段と声を落としてささやいた言葉に、エイナは驚いて目を剥いた。
「そんなの信じられないわ! だって、だって……!」
「しっ!」
シルヴィアはエイナの耳をつねって黙らせる。
「あたしだって、信じられなかったわよ! でも、本当らしいわ。
ただ、それって三年前の話で、まだ凄く不安定なんだって。
だから、あたしたちはこの境界点に降りたら、狼煙を上げて彼らと接触を取らなきゃならないの」
「接触って……まさか、話が通じるの?」
「ねっ、びっくりでしょ? でも、それも本当らしいわ。
マリウス様も詳しくは教えて下さらなかったけど、ちゃんと決められた手順を踏めば、安全に彼らの領域に入れるし、意志の疎通も可能らしいの。
彼らに確認すれば、帝国の奴らの安否も分かるだろうって、マリウス様はおっしゃっていたわ」
「何だか話が突飛すぎて、まだ信じられないわ。
安否が分かるって……、あ、そうだ!
帝国の公館に少将の安否を報せるっていう、大佐の要望は伝えてくれたの!?」
「安心して、その点はマリウス様も確約してくれたわ。
ただね……」
「何? 条件付きなの?」
「そうじゃないわ。
あたし、エイナが言ったとおりのことをお伝えしたの。
ただ、マリウス様はエイナにこう伝えなさいっておっしゃったわ。
ただ一言、『甘い!』ですって」
* *
「そんなことまで、王国に教えたのですか!」
さすがに声は抑えていたが、外交官の唇は、怒りと驚きに細かく震えていた。
時は四日前に戻る。
ボルゾ川を遡るチャーター船の豪華な特別室には、マグス大佐とベネディクト外交官が向かい合って座っていた。
「それくらい構わんだろう。
カメリアの安否を確認する方が、重要に決まっている」
「しかし、人跡未踏の森の中、安全な侵入路を確保するのに、現地工作員がどれほどの労力を費やしたとお思いですか!」
「一本の経路が使えなくても、代替は用意されているはずだ。
情報部はそれほど間抜けではあるまい?」
「それはそうですが……!」
「いいか、カメリアがくたばったのなら、別に問題はない。
あいつは任務を果たして首尾よく脱出したまではいいが、大森林に入ったところで王国軍の追手に捕捉されたのだ。
詳細は不明だが、追跡隊には国家召喚士が加わっていたと推測され、少将は奮戦敵わず名誉の戦死をした――ということにすればいい。
カメリアは二階級特進して大将待遇だ。たんまり慰労金が出るから、旦那と息子は一生遊んで暮らせるはずだ。
悪いのは脱出経路を易々と嗅ぎつけられた、情報部の不手際になる。
私に責任が及ぶことはあるまい」
ベネディクトは鼻白んだ表情で、溜息をついた。
「では、カーン少将が生きていたとしたら?」
「それなら心配いらん。あの女のことは、私が一番よく知っている。
例え一時的に捕虜になったとしても、生きているなら必ず脱走する。
あいつは並みの魔導士と桁が違うのだ。王国軍が束になっても、蹴散らしてみせるだろう。
それこそ複数の国家召喚士を動員するか、神獣でも出さない限り、カメリアを止めることは不可能だ。
まぁ、そのクラスの幻獣なら、カメリアを殺すことで逃走を阻止できるだろうな。
つまり、生きているなら自力で戻ってくるか、殺されて二階級特進かの二択となる。
どっちに転がっても、問題なかろう」
「それなら、わざわざ王国に機密を洩らしてまで、少将の安否を確認することはないでしょう?」
「馬鹿か、お前は? 消息不明なのが一番まずいのだ」
マグス大佐は外交官の胸倉を掴み、ぐいと引き寄せた。
男のような、もの凄い力だった。
「カメリアが、あの大森林のどこにいるかも分からんのだぞ?
こちらが大規模な捜索隊を送り込むことが不可能なことぐらい、貴様のご大層な頭でも分かるだろう。
だが、事情も行方も分からないとなれば、責任の所在はどこになる? あの女は、将官にまでなった魔導士だぞ?
周りの反対を押し切って、それを王国に押し込んだ、私のせいになるに決まっているだろう!」
「で、ですが、大佐殿に人選を一任したのは、皇帝陛下ではありませんか?」
「貴様、陛下に責任を取れと言うつもりか?」
「そ、そんな、滅相もない!」
「当たり前だ! だからこそ、私が余計に非難される。
私が陛下に目をかけられていることを、苦々しく思っている連中は多い。
そんな奴らに口実を与えてみろ。いつ足もとを掬われるか、分かったもんじゃない!
いいか、最善のシナリオはカメリアが死んでいて、責任を情報部に押しつけることだ。
あの女の生還が次善、最悪は消息不明のままだ! 覚えておけ!」
マグス大佐は、胸倉を掴んでいた外交官を突き飛ばした。
そして、吐き捨てるように、こう言い放った。
「カメリアの捜索は、王国にやらせておけばいい!
それを考えれば、洩らした情報なんぞ安いものだ。
後は情に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます