王立魔導院 第六話 口頭試問
「その口ぶりだと、マリウスは元気そうね」
「気になるんだったら、たまには参謀本部に顔を出してください。
ユニさんが来ると、マリウス様の機嫌がよくなるんですから、お願いします」
「あら、あいつはいつもヘラヘラしているじゃない。
機嫌なんか気にすることはないでしょう?」
「そうでもないんです。マリウス様は軍の頭脳なんですから、滅茶苦茶な激務なんですよ。
いくらあの方でも、たまには気を休める時間が必要だと思いますわ」
横で聞いているエイナは、会話の内容が理解できずにぽかんとしていた。
この女性士官は誰なのだろう?
ずいぶん若くてきれいな人だけど、何となく身分が高そうな感じがする。
ユニさんとは知り合いのようだということは分かる。
話題に上っている〝マリウス様〟は、きっとこの女の人の上司か誰か――それもかなり偉い人のような気がする。
でも、ユニさんはその偉そうな人を〝あいつ〟呼ばわりしていた。
マリウスという人物が、王国軍のトップに立つ〝首席参謀副総長〟だと知ったら、エイナはさぞかし驚いたことだろう。
「あなたたちが旧交を温めるのは一向に構いませんが、そこの女の子が当惑していますわよ。
ユニさん、私に彼女を紹介してくださらないのですか?」
院長が穏やかな口調で
「ああ、ごめんなさいシスター。
この
辺境の開拓村で暮らしていたのですが、保護者の夫妻がオークに殺されてしまい、身寄りがなくなってしまったのです。
それで、こちらの孤児院にお世話になりたいと思って連れてきました。
もう手続きの方は済ませたので、院長先生にお引き合わせしたくてお邪魔した次第です」
院長は笑顔でうなずき、立ち上がってエイナの前に歩み寄った。
そして、
「そうでしたか。
エイナ、あなたは辛い目に遭ったのですね。
ここは神の御名のもと、すべての子どもたちが安心して暮らせる所です。
私たちと一緒によく遊び、よく学び、楽しい毎日を過ごしていきましょう」
エイナは、ぽかんとして院長の言葉を聞いていた。
どうしてこの見知らぬ婦人が、こんなに優しい言葉をかけてくるのか、不思議で仕方がなかったのだ。
「ユニさんは保護者の夫妻とおっしゃいましたが、ご両親は早くに亡くなられたのですか?」
エイナはぶんぶんと首を横に振った。
「お父さんは、私が七歳の時に事故で亡くなりました。
でも、お母さんは生きています!
ただ……どこに行ったのか分からないだけで……。
だから、私は早く立派な大人になってお母さんを探したいです!
村に残っていたら、すぐに結婚させられて、一生あの土地から出ることを許してもらえなかったと思います。
もしもここに置いてくださるなら、私、一生懸命働きます!
気に入らないことがあったら、殴ってくださって構いません。絶対に口答えはしませんから!」
院長は必死で訴える少女を、いきなり抱き寄せた。
「あなたはここで働く必要などありません。誰もあなたをぶったりはしないのですよ。
たくさんお友だちを作って、学校でお勉強してくれればいいのです」
「学校に……行かせてもらえるのですか?」
院長先生はエイナの両頬をふっくらとした両手で挟み、その顔を覗き込んだ。
「学校には行ったことがあるのですか?」
少女はこくんとうなずいた。
「三年生までは。それから先は、叔母さんも小父さんも許してくれませんでした……ごめんなさい」
「謝る必要はないのですよ。
ここに来る子どもたちは、一度も学校に行ったことがない方が多いのですから。
エイナはお勉強が好きでしたか?」
「はい。巡回の先生も褒めてくださいました。
小学校を卒業したら、上の学校に行かせるようにって、お父さんに話してくれたんです」
「まぁ、そうなの。それは凄いわね。
どの教科が得意だったの?」
「算数です! それと国語も……私、本を読むのがとても好きだったんです。
社会は……ちょっと苦手かもしれません」
「それなら大丈夫」
院長先生はエイナに微笑むと、立ち上がって膝の汚れを払った。
「本が好きなことは良いことです。
あなたはすぐ、皆に追いつけるでしょう」
そしてユニの方を見た。
「ユニさんがお連れになった子ですから、何も問題はありません。
とてもしっかりした、頭のよさそうなお嬢さんですから、私どもとしても歓迎いたしますわ」
ユニは安堵して表情を緩めた。
「ありがとうございます。
それでは、そちらの受け容れ準備が整ったら、エイナを連れてまいります。
お話の途中なのに、お邪魔して済みませんでした。
さぁ、エイナ。帰りましょう」
ユニが院長に対して軽くお辞儀をすると、エイナも慌ててぴょこんと頭を下げた。
そして二人は院長室を退出しようとした。
「あ、ちょっと待ってください!」
思いがけずにケイトが呼び止めた。
「どうしたの、ケイト?」
「少し、その子と話をさせてもらえませんか?」
「別に構わないけど……。
エイナ、この人はケイト――えっと、ごめん。
ケイトの姓って何だっけ?」
若い女性士官はくすりと笑った。
「モーリスですよ」
「ああ、そうだった。
いい、エイナ。この
「はい。
モーリス中尉、ごきげんよう」
エイナはどこで覚えたのか、スカートを摘まんで軽く膝を折る仕草を見せた。
「あら、とても礼儀正しいのね、お嬢さん。
でも、私のことはただのケイトでいいわ。
それで、あなたはさっき、院長先生に算数が得意だって言ってたわよね?」
エイナはぴくりと身体を硬直させた。
「ごっ、ごめんなさい!」
ケイトは首を
「どうして謝るの?」
ユニは素早くケイトに目くばせを送り、小さく首を振った。
それだけでケイトは察してくれた。このエイナという少女は、虐待されていたということをである。
と言うのも、ケイト自身が孤児であったからだ。
南カシルという王国東部の港町で生まれ、浮浪児として暮らしていたのだが、ここと同じ救済教の孤児院に救われたのである。
孤児院に収容される子どもの中には虐待を受け、心に傷を負った者が珍しくなかったのだ。
「確か三年生まで学校に通ってたのよね。
算数で掛け算や割り算を習ったの?」
「はい」
エイナは恐るおそるといった様子で答えた。
「では、二×五はいくつ?」
「十です」
いきなりの質問だったが、エイナは即答した。
「八×九は?」
「七二です」
今度も即答だったが、少女の表情には『馬鹿にしないで』という感情がちらりと浮かんだ。
「うん、正解。それじゃあ、十三×六七」
「八七一」
エイナは間髪入れずに答えた。
これにはユニも院長も驚いた。
もちろん二人とも同じ問題を解ける自信はあるが、それは何かに数字を書いた上でのことだ。暗算で、しかも瞬時に答えることなど、とてもできなかった。
「凄いわね。じゃあ今度はかなり難しいわよ。
二五八×七四六÷三四」
それまですべて即答だったエイナが、ちらりと天井を見上げ、ほんのわずかの間を置いた。
「五六六〇と……余りです」
ケイトは微笑んだ。
「またまた正解。でもごめんなさい。ちょっと意地悪だったわね。
小学三年だと、まだ小数点のことまでは教わらないんだっけ。
それにしても見事なものだわ――と言うより、ここまでくれば異常ね。どうやって計算が得意になったの?」
「えと、叔母さんの家ではその……本を買ってもらえなかったんです。
それで、夜眠れない時とか、退屈な仕事をしている時は、頭の中で計算問題を作って自分で解いて遊んでいました。そのせいだと思います。
あの……正解が分かるってことは、ケイトさんも暗算ができるのですか?」
「八二三五二九四一……。もっと続けましょうか?」
ケイトはさらりと答えた。それは、さっきエイナが答えた「余り」、割り切れない数字の続きだった。
そして彼女はエイナの両手を取った。
院長先生と違い、ほっそりとして長く、白い指だった。
「もう少し確かめさせてね。そのまま目を閉じてみて」
ケイトに言われたエイナは素直に目をつぶった。
「どんなことでもいいわ。何かを感じたら、正直に話してちょうだい」
しばらく間、沈黙が流れた。
やがて集中したエイナの顔に、「おや?」という表情が浮かんだ。
「何だか……ケイトさんの手から温かいものが流れ込んでくる気がします」
「流れ込んできたものは、どこに向かっていますか?」
「手首から腕を上って……心臓のあたりに。
とても胸がどきどきしています。
それから……お腹の方へ下りていきます。
ええと……おへその下あたりで止まりました。
そこにどんどん溜まっていくような感じがして、お腹が熱いです。
あ、ケイトさんの手からの流れが止まりました」
ユニはまったく同じやり取りを見たことがある。
四年前、まだ十六歳のケイトが働いていた暴力団幹部の邸宅でのことだ。
ユニとともに屋敷に招かれたマリウスが、ケイトに魔導士としての資質があるかどうかを確かめたのである。
当時のマリウスは、まだ参謀本部に使われる私兵に過ぎなかった。
彼はリスト王国と対立する北の帝国軍に所属する魔導士だったが、ある事件で王国に亡命したのだった。
それが今は、王国の軍を
魔導士としての稀有な素質が認められたケイトは、その後もマリウスの指導を受けていたが、十八歳で王都に出て本格的な修行に入った。
そして、王国出身者としては初の魔導士となり、軍に入隊したのである。
「エイナさん、私は今、あなたの体の中に自分の魔力を流し込んでみました。
その感覚を思い出して、自分の身体の中から同じ力を集めることができるかしら?」
「魔力? えと、よく分かりませんが、やってみます」
少女は少し混乱しながらも、小さくうなずいた。
エイナは再び目を閉じ、眉間に皺を寄せて精神を集中した。
彼女の下腹部はまだ熱を持っており、そこに流れ込んだ魔力の経路は、明確な地図となって身体に刻まれていた。
お腹だけでなく、今では身体全体が火照り、
その不思議な力に意識を集中し、まだ記憶に新しい経路に導いてやる。
雨上がりのように、小さな流れがあちこちから血管に流れ込み、荒々しい濁流となって下腹部に集まってきた。
「もうお腹がいっぱいで――溢れそうです!」
エイナは恐怖を感じ、ケイトの顔を見上げて助けを求めた。
ケイトは少女の下腹部に手の平を当てたが、すぐに顔色を変えた
「エイナ、もういいわ! 力を集めるのは止めなさい!」
「できません! どうやって止めればいいのか、分かりません!」
「仕方ないわね。ちょっとびっくりするかもしれないけど、がまんして!」
ケイトは少女の顔を両手で抑え、口を無理やり開けさせると、その上から覆いかぶさった。
「え!?」
驚いたのはエイナだけではない。
どうなることかと見守っていた、院長とユニも同時に口を押さえ声を上げていた。
ケイトはエイナに口づけをしていたのだ。
それもただのキスではない。明らかに舌をねじ入れて少女の口を吸っていた。
「ちょっ、ケイト! あんた子ども相手に何やってんの!」
ユニが慌てたように叫んだが、行為は止まらなかった。
突然、ケイトに抱きしめられていたエイナの全身が、がくんと力が抜けたように崩れ、少女は気を失ったようだった。
ケイトはやっと唇を離すと、ほうっと深い息をついた。
「もう大丈夫です。エイナの身体から魔力を吸い出しました。
まだ制御の仕方を知らないのに、いきなり力を扱わせた私の失態です。
この子には申し訳ないことをしました」
ぐったりした少女を抱きかかえながら、ケイトは二人に向けて謝罪した。
「ケイトは想像以上に強い魔力を持っています。しかも常人離れした計算能力まで備えている。
まるで魔導士になるために生まれてきたような子です。彼女をこの孤児院に入れるわけにはいきません。
何としてでも王都に連れ帰り、王立魔導院に入学させなければ!」
ケイトの手に力が入り、少女の腕に指が食い込んだ。その痛みのせいか、エイナが意識を取り戻した。
「えと……あの、私は孤児院に入れてもらえないんでしょうか?
って言うか、私……どうしちゃったんですか?」
「そうよね。いきなりそんなことを言われても困るわね。
分かったわ。最初からちゃんと説明します。自分で立てる?」
エイナはケイトの身体につかまりながら、自分の力で立ってみた。
膝が細かく震えて、ふわふわした感じがする。
「平気なようです……けど、座ってもいいですか?」
ケイトはちらりと院長の方を見た。
シスターが目でうなずいたのを確認して、エイナに微笑みかけた。
「ええ、そこのソファに座って」
少女はさっきまで院長とケイトが座っていた応接のソファに向かおうとして、一歩踏み出した。
「あっ!」
その途端、エイナは小さく叫んでその場にしゃがみ込んでしまった。
「どうしたの? もう魔力は抜いたから大丈夫なはずだけど……。
どこか痛い?」
ケイトが心配そうに少女の肩を抱き、その顔を覗き込んだ。
エイナは、小さく首を横に振った。その顔は真っ赤で、涙がぽろぽろと零れている。
ケイトはすぐに立ち上がった。
「院長先生、ここには医務室のような所がありますか?」
院長は心配そうな顔でうなずいた。
「少し離れていますが、保健室があります。
お医者様はおりませんが、看護師のシスターなら在室のはずです」
「それで十分です。エイナを連れて行きますので、案内してください」
ケイトはそう言うと、自分の軍服の上着を脱いだ。
そして立たせたエイナの腰に巻き付けると、そのまま少女の細い身体を抱き上げた。
「では、私がご案内します」
職員室から付いてきてくれた年輩のシスターが先に立って扉を開けてくれた。
もうその時には、院長もユニもエイナの身に何が起きたのか、おおよそ理解していたのである。
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