王立魔導院 第四話 初めての旅

 翌朝、ユニは簡単な朝食を作ってエイナに食べさせると、彼女にこの家を出る支度をするように伝えた。


「ああ、その前に膏薬を貼りかえないとね。どう、まだ傷は痛む?」


 エイナはオークに襲われた際、地面に押し倒されたので、体中に擦り傷や打ち身ができていた。

 ユニは彼女を村に連れ帰る前に、その場で応急手当をしてくれたのだ。

 召喚士はくすの技術を持っていることが多いらしく、ユニは自分で調合したという傷薬や湿布薬を、背負っている背嚢はいのうに入れて、常に持ち歩いているのだという。


 ユニはエイナを叔母のベッドに連れて行くと、服を脱がせてズロースだけの裸にしたが、彼女は従順で嫌がる様子を見せなかった。

 少女が養い親の死にあまりショックを受けていないこと、ふいに話しかけると反射的に身をすくませること、年齢の割に発育が悪いことなどから、ユニは密かに叔母夫妻の虐待を疑い始めていた。


 だが、服を脱がせてじっくり調べても、古いあざや傷跡などはどこにも見られず、その身体はきれいなものだった。

 はっきり確かめたわけではないが、性的な虐待も受けていないだろう……ユニはそう判断した。その辺は、素肌に触った時の反応で何となく分かる。


 エイナの傷や打ち身は、見た目こそ酷いものだったが、幸い骨折はしておらず、深刻なものではなかった。

 だが、数日は身動きするのも辛いほどの痛みがあるだろう――ひょっとすると、夜に発熱するかもしれない。手当てをした時点で、ユニはそう見ていた。

 ところが、昨夜のエイナは特別痛みを訴えることもなく、すやすやと眠りについた。ユニは寝息を立てている少女の額に手を当ててみたが、体温も平熱のままだった。


 昨日巻いた包帯を解き、薬をたっぷりと塗ったガーゼを剥がしてみると、ユニは目をみはった。

 擦り傷には茶色い瘡蓋かさぶたができていたが、傷の範囲は大幅に減少しており、治りかけの状態に近かった。

 昨日の今日である、打撲箇所は青黒く内出血を起こしているはずなのに、うっすらと赤いあざが浮いているだけなのだ。

 まるで怪我をしたのが、一週間も前だったようにしか見えない。


「さすがだわ、あたし!

 自慢の薬がこうまで劇的に効くとはね――なんてわけあるか!

 ねえ、エイナ。これはどういうこと? 傷の治り方が異常に早いんだけど、何かの魔法でも使ったの?」


 ユニが問いただすと、下着一枚の少女は〝びくっ〟と身体をすくませた。

「ごっ、ごめんなさい!」


「別に怒ってないわよ?」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」


 少女は必死で謝り続けている。

 ユニは解いた包帯をくるくると巻きながら、苦笑いを浮かべた。

「えーと、お願いだから落ち着いて。

 どうしてそんなに怯えているの? 何だかあたしがいじめているみたいじゃない」


 エイナは恐るおそるユニの顔色を窺った。そして、この女召喚士が本当に怒っていないのだということを確認すると、ぼそぼそと話し出した。


「私、生まれつき傷の治りがすごく早くて……どうしてなのかは、自分でも分からないんです。

 お母さんは、神様の祝福だって言ってました。

 でも、絶対にそのことを人に話しては駄目よ、とも言われていたんです。

 もしそんなことが知られたら、酷いことをされるからって……」


「まぁ、田舎だとあなたのお母さんの言うことが正しいかもね。

 でも、あたしは別に驚かないし、気味が悪いとも思わないわ。あたしの知り合いに、あなたと同じくらいに頑丈な女がいるのよ。

 全身骨折で一か月は絶対安静と言われたのに、三日後にはベッドを抜け出して、剣の稽古を始めてたの。お医者さんが自信をなくして、涙目になっていたわ。

 世の中にはそういう人もいるんだから、そんなに気にすることはないわよ。

 むしろ神様の祝福とやらに感謝すべきね」


 彼女はそう言って、エイナに服を渡した。

「その様子じゃ、もう包帯も薬もいらないでしょう。直接服を着てもいいわ」


 少女はうなずき、粗末なベッドに座って、もそもそと服を着た。

 エイナの隣に座ったユニは、黙って少女の着替えを見守っていた。


 彼女の服は、いかにも開拓村の貧しい女の子が着るような、実用一点張りの飾り気のない野良着だった。

 多分、叔母が自分のお古をほぐして仕立てたのだろう。

 あちこちに当ててある継ぎはぎは、自分で縫ったものらしく、縫い目が不揃いだった。


「お出かけ用の服はないの?」

 ユニは無駄と知りつつ、一応訊ねてみる。

 案の定、少女はびくつきながら、小さく首を横に振った。


「そう。それじゃ親郷に寄ったら、服を買ってあげるわ」

「でも、私お金を持っていません。

 それに、そんな贅沢をしたら……生意気だってぶたれます」


 ユニは明るい笑顔で訊ねた。

「あら、誰にぶたれるの?

 少なくとも、あたしはあなたをぶったりしないわよ」


「えとえと……」


 エイナは言葉に詰まった。

 その時、初めて少女は実感したのだ。もう叔母さんも小父さんもいないのだと。

 そして、彼女を意味もなく引っぱたいたり、殴る人もいないのだということを。


 エイナは言葉を詰まらせたまま下を向き、ぼろぼろと涙を零した。

 その涙の意味が、時間を置いて襲ってきた恐怖なのか、悲しみなのか、それとも安堵なのか、エイナ自身にも分からなかった。


 叩かれるのは、自分が悪いからだとずっと思ってきた。

 アイリ叔母さんとドーチェ小父さんは悪い人ではなく、身寄りのない自分の面倒を見てくれる立派な大人だ。ちょっとくらい機嫌が悪い時だってあるから、我慢しなければならない。

 ――そう自分に言い聞かせ、それを信じ込んでいたのだ。


 たった一晩、ユニという女性と過ごしたことで、エイナはその呪縛から抜け出したのかもしれない。

 ユニは瘦せ細った少女の身体をそっと抱きしめ、彼女が泣き止むまで、ずっと背中をさすり続けた。


      *       *


 エイナの荷物は驚くほどに少なかった。

 粗末な野良着の替えが一着、そして洗濯を繰り返して摺り切れそうな下着が三枚。

 それだけが彼女の私物だった。

 女の子らしい人形だとか、可愛らしい栞や絵本、絵入り新聞の切り抜き、きれいなお菓子の缶といった宝物は、何一つなかった。


 それについて、ユニは何も訊ねなかった。

 そもそも、エイナが暮らしていたこの家には彼女のベッドすらなく、寝床は土間の隅に積まれた干し草だった。

 ユニも辺境に暮らす女である。口先だけの同情が何の役にも立たないことなど、十分に理解していたのだ。

 彼女は叔母夫妻の寝室を遠慮なく漁り、櫛と小さな手鏡、そしていくばくかの銅貨とバラ銭(粗悪な私鋳銭)を見つけ出した。

 それらは着替えと一緒に帆布製の手提げ袋に入れ、エイナに持たせた。どれも死人には必要のない物だ。


 午前十時過ぎ、ユニはエイナを連れて、村の役屋に顔を出した。

 村の肝煎は、ユニが身寄りのない少女の始末をつけてくれることを歓迎していた。

 そして「これは自分が特別に立て替えるのだ」ということを強調して、三枚の銀貨と八枚の銅貨が入った小さな革袋を差し出した。


 家畜と畑、それに叔母夫妻の家を処分した金額にしては、ずいぶんと少ないように思えたが、ユニは黙ってそれを受け取り、エイナに手渡した。

 ここは貧しい開拓村なのだ。家畜だけは別だが、家も畑もまともな買い手が見つかる可能性は薄い。肝煎は彼なりに厚意を示してくれたと受け取るべきだろう。


「しかし、何と言うか……タイミングが悪かったなぁ」

 肝煎は別れ際、気の毒そうな表情でそう洩らした。


「何がですか?」

 ユニが訊ねると、肝煎は薄くなった頭を左右に振ってみせた。


「エイナはあと二年もしたら、婿を迎える予定だったんだよ。

 ドーチェが酔うたびに言っていたんだよ。隣村にあいつの友達がいて、五人の子がみんな男で持て余しているから、一人もらう約束をしているってな。

 エイナより三つ上だって言ってたから、婿入りしていたら家も畑もすんなり継げたんだが……こればっかりは仕方がないな」


 ユニは首をかしげた。

「この子はまだ十一歳でしたよね?

 二年経っても十三歳、まだ子どもですよ。それで婿を取るのは早過ぎるでしょう」


「いや、ドーチェとアイリはそのつもりだったよ。アイリは『そのくらいになれば、女になっているさ』って言ってたからな。

 まぁ、あの夫婦のことだから、エイナも婿も奴隷のようにこき使うつもりだったんだろう。

 だから今回のことは、残念だが二年早かったってわけだ」


「それで……この子は幸せになるとお思いですか?」

 ユニはそう訊き返さずにはいられなかった。

 肝煎に悪意がないことは分かっていたが、反吐へどが出そうなくらいに胸糞の悪い話だったからだ。


 だが、ユニの問いに対して、肝煎は肩をすくめるだけであった。


      *       *


 エイナは全身が白い若いオオカミ、ロキに乗ることになった。

 鞍もないオオカミに人間が乗るのは難しいのだが、エイナは子どもなだけに飲み込みが早く、少し練習するだけで、あっという間にコツを掴んでしまった。


 誰の見送りも受けず、昼前に村を出た彼女たちは、慣れないエイナを気遣ってゆっくりと歩を進めた。

 それでも、夕方には親郷のクリル村に着いていた。

 クリルは親郷としてはそう大きな村ではないが、小さな枝郷から出たことのないエイナにとっては、夢のような大都会に思えた。


 見たこともないお店が目抜き通りに建ち並び、行き交う人の多さは目がくらむほどだった――というのはエイナの印象で、実際には道幅は広いが舗装もしていない道路に、五、六軒の商店が並んでいただけだった。

 ユニはその店の一軒にエイナを連れて行き、彼女に二着の服と真新しい下着を何枚か買ってくれた。


 ユニにしてみれば大した出費ではなく、エイナを本当の都会である蒼龍市に連れて行くに当たって、恥ずかしくない程度の外見にしただけである。


 だが、田舎育ちの少女にとって、明るい色の生地にリボンまでついたワンピースは、お伽噺で聞いたお姫様のドレスのように思えた。

 両親が健在だった時でも、こんな可愛らしい服は着ていなかった気がする。


 すっかりのぼせ上ったエイナの興奮は、村の宿屋に泊まったことで最高潮に達した。

 ふかふかのベッドに目が痛くなるような白いシーツ、贅沢にもお湯の張られた風呂、名前も知らない料理に柔らかな白いパン。

 どれもこれも、夢ではないかと思えた。


 それなのに、ユニはこの豪華な待遇を、ごく当たり前のこととして受け取っていた(普通の宿屋だから当然だ)。

 エイナは、ユニが貴族の娘か何かで、きっとお城のような凄いお屋敷に住んでいるのだろうと、勝手に思い込んでしまった。


 翌日の早朝、親郷を発つと、ユニとエイナは蒼城市に向かって北西に進路を取った。

 女召喚士は、九頭のオオカミの群れを率いていた。

 いずれも体長二~三メートルを超す怪物のような大きさである。


 そんな巨獣が街道を通るのでは、行き交う人々や馬を驚かすことになるので、ユニとオオカミたちは、街道から少し離れた原野を進んで行った。

 日が傾くと、オオカミたちが水場に近い木立を探してきて、そこで野宿をする。

 ユニが慣れた様子で火をおこし、水を張った鍋を火にかけ、オオカミたちが獲ってきた野ウサギの肉と、どこからか摘んできた山菜を放り込んだ。


 叔母の家では肉と言えば塩蔵肉を戻したもので、それもわずかな量しか出なかった。

 柔らかな生肉をたっぷり使ったシチューは、宿屋で出された料理よりもずっと美味しく、エイナは夢中で頬張った。

 ユニは微笑んで、空になったお椀にお代わりをよそってくれた。

 今までなら「もっと欲しい」などと言えば、間違いなくぶたれていたから、エイナは目を丸くして熱々のシチューが入った椀を受け取った。


 満腹で食事を終え、小川で食器を洗うのを手伝っているうちに、周囲はすっかり暗くなる。

 ユニはエイナに寝るように言いつけ、親郷で買い求めた毛布を渡してくれた。


 大きな木の根元で毛布にくるまって横になると、ロキが側に寄ってきて彼女を守るように寝そべった。

 白いオオカミは、自分の腹にエイナを抱えるように引き寄せてくれた。

 さらにロキの母親だという、ヨーコというオオカミもやってきて、少女を挟み込むように横たわった。


 ユニは小さくなった焚火の炎をいじりながら、ライガを話し相手に酒を飲んでいるようだった。

 毛布にくるまった上に、オオカミたちの体温が伝わってきて、とてもぽかぽかした。

 あまりの心地よさに、少女はすぐに眠りに落ちた。


 その翌日も、同じような時間を過ごした。

 昼間の移動はとてもゆっくりとしたもので、オオカミの背で揺られながら、ユニはさまざまな話をしてくれた。

 周囲の村々の名や名産品、これから行こうとする蒼城市のことなどである。


 蒼城市が王国の〝四古都〟と言われる大都会であることは、エイナも知っていた。

 だが、その巨大な城塞都市の威容や、そこを治める蒼龍帝フロイア・メイナードという美しい女性のこと、守り神である蒼龍グァンダオの話はとても面白かった。

 そうした話を、ユニはまるで実際に見たかように、生き生きと語るのであった。


 エイナはユニの話を遮りたくなかったのだが、どうしても訊かずにはいられなかった。

「あの……、ユニさんはフロイア様や蒼龍様に会ったことがあるのですか?」


 ユニはこともなげに答えた。

「あるわよ」


 エイナが息は呑み、驚きと尊敬の眼差しでユニを凝視した。

 ユニは苦笑を洩らした。この少女が、何かとんでもない誤解をしていることに気づいたのだ。

 現実は厳しいのである。ユニは釘を刺しておくことにした。


「エイナ、あなたは蒼城市の孤児院に入って、そこで暮らすってことを忘れないでね。都会だからといって、夢のような贅沢ができるわけじゃないわ。

 そして、あたしがしてあげられるのは、孤児院に連れていくまで。そこでおしまいよ」

「……はい」


 しゅんとなった少女の表情を見たユニは、たちまち罪悪感にかられてしまった。

「ま、まぁ、蒼城市で暮らすことには変わりないんだから、年に何度かは蒼龍帝の姿を見られると思うわ。

 運がよければ、蒼龍にだって会えるかもしれないわよ」


 少女はしばらくユニの言葉を噛みしめていたが、ふいに顔を上げた。

 その表情は明るく、大きな瞳はきらきらと輝いていた。

 そして、ユニに向かって元気な声を出した。


「私、この旅が楽しくて、ずっと続けばいいと思ってたの。

 でも、今は早く蒼城市に行ってみたいし、学校でお勉強もしたいです。

 大丈夫、私、頑張ります!」


 ユニはにこりと笑った。

 エイナが自分から希望を口にしたのは、これが初めてだったからだ。

 身体をびくつかせたり、おどおどした上目遣いもなく、声も大きかった。

 これはいい傾向だと思ったのだ。


「よかったわ。明日には着くから、楽しみにしていてね」

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