王立魔導院 第三話 召喚士ユニ

 オークはエイナに追いつき、後ろからその服を掴まえると押し倒した。

 少女はうつ伏せに地面に叩きつけられ、口の中に畑の土が入った。

 彼女は激しく咳き込みながら、己の運命に絶望していた。


 どうして自分はこんなにも無力なのだろう?

 あたしに力があれば、この汚らわしい怪物をせめて一発でも殴ってやれるのに。

 そうすれば、天国に行った時にアイリ叔母さんとドーチェ小父さんに言い訳ができる。

 二人ともきっと分かってくれて、あたしを引っぱたくことを止めてくれるかもしれない。


 小さくやせ細った身体にのしかかったオークは、木の根で出来た棍棒を持った右手を振り上げた。

 叔母さんや小父さん同様、頭を叩き潰すつもりなのだろう。

 エイナは悔しさに涙を滲ませながら、暴君の動きを瞬きもせずに見詰めていた。

 意地でも目をつむるものかと決意していたのだ。


 ごつごつした棍棒が、もの凄い勢いで振り下ろされた。

『ああ、あたしはこれで死ぬんだ』


 そう思いながら、エイナは妙に冷静になってその瞬間を待ち構えていた。

 だが、無骨な棍棒は〝ぶんっ〟という風切り音を巻き起こして、彼女の頭のわずかに上を擦過した。

 髪の毛が数本巻き込まれて、ぶちっと千切れる音がした。


 エイナはその目ではっきりと見た。

 とてつもなく巨大なオオカミが、オークの腕に噛みついた瞬間をだ。

 獰猛なうなり声をあげ、白く鋭い牙ががっちりと肉に食い込んでいる。

 瘤のような筋肉が盛り上がったオークの太い二の腕からは、鮮血が飛び散った。


 バキッ! という、こもった嫌な音が響く。

 オオカミが噛み砕いた傷口から、折れた白い上腕骨が突き出ていた。


 次の瞬間、エイナの身体は後方に凄い力で引っ張られた。

 何者かが彼女の襟首を掴んで、思い切りその場から引き離したのだ。

 首筋にかかる生暖かく、荒い息で、それが別のオオカミの仕業だということが分かった。


 するずると地面を引きずられながら、オークから離されたことで、エイナはやっと事態の全貌を目にすることができた。

 最初に飛び込んでオークの腕に噛みついたオオカミは、改めて見ると信じられない大きさだった。

 田舎娘のエイナが見たことのある最も大きな生き物は、村人が飼っている黒い雄牛だった。

 その牛の体長は二メートル以上あり、立派な角を蓄え、体重はどれだけあるのか想像もつかない、堂々とした巨体だった。


 だが、このオオカミはその雄牛以上に大きかった。体長は優に三メートルを超していただろう。

 しかし、太った雄牛と違って身体は引き締まっており、いかにも俊敏そうだった。

 一撃でオークの腕を噛み砕いたオオカミは、次の瞬間には相手の喉笛に噛みついて地面に押し倒していた。


 仰向けにされたオークはじたばたともがいていたが、別のオオカミたちが左腕、脚、腹に噛みつきながら、次々に身体の上にのしかかり、完全に自由を奪っていた。

 オークは苦しそうに暴れていたが、叫び声ひとつ上げることができなかった。その口からは、よだれと血泡だけが溢れ出している。

 喉笛を万力のような圧力で噛み潰され、呼吸ができないのだろう。


 オークから十メートル以上距離を取ったところで、エイナはやっと解放された。

 顔を上げて振り向くと、やはり巨大で真っ白な毛並みをした若いオオカミが、少し心配そうな瞳で彼女を覗き込んでいた。


 不思議と〝怖い〟という感覚が起きなかった。

 オオカミたちが、自分を救ってくれたという事実が、じわじわと全身に染みわたってきたのだ。

 白いオオカミは、少女が落ち着いていることを確認すると、大きな舌でぺろりと彼女の頬を舐めた。


「……ありがとう」

 エイナは呆けたような表情で、思わずお礼の言葉を口にしていた。

 白いオオカミは、彼女の言葉を理解したようにうなずくと、エイナを庇って自分の身体の後ろに隠してくれた。

 何だか母犬に守られる仔犬の気分のような気分で、エイナの胸がぽっと暖かくなった。


 オークはオオカミたちに完全に抑え込まれ、窒息して気を失ったのか、ほとんど動かなくなっていた。

 そして、どこからか現れた小柄な女性が、無造作にオークに近づいてきた。

 女なのに男のようなズボン姿で、明るい栗色の髪を緩い三つ編みにして背中に垂らしていた。それが歩くたびに犬の尻尾のように左右に揺れている。


 彼女は微塵の恐れも見せず、怪物の頭の脇に片膝をついた。

 そして、腰から包丁のような形をしたなたを引き抜いた。

 その刃物は切っ先が鋭く尖り、心なしか青く光っているように見えた。

 女は物騒な刃物をオークの首筋にあてがうと、何の躊躇ためらいもなく刃を肉に潜り込ませ、一気に引き切った。


 噴水のような鮮血が噴き出し、勢いを減じながら数回続いた。

 オークは身体をびくびくと引き攣らせたが、すぐに静かになった。

 あんなにも恐ろしい怪物の、あまりにもあっけない最期だった。


 女は立ち上がると、腕を振って刃物についた血を振り飛ばし、ぼろきれで拭ってから腰の鞘に収めた。

 そして、エイナの方にゆっくりと近寄ってきた。

 お陰で女性の顔がよく見えた。


 年齢は三十歳を過ぎたくらいだろうか、落ち着いた大人の女性の雰囲気を漂わせていたが、大きなはしばみ色の瞳には、悪戯いたずらっぽい光が宿っている。

 エイナの前で四肢を踏ん張り、番犬のように守っていてくれた白いオオカミは、その女性が近寄ると尻尾を振って脇にどいた。


 エイナは震える声でおずおずと訊ねた。

「あの……召喚士様ですか?」


 すると、その女性は人懐っこい笑顔を浮かべてうなずいた。

「ええ、そうよ。

 でも〝様〟っていうほど偉くはないの。

 あたしのことはユニって呼んで。ただのユニでいいわ」


 そう言うと、ユニという召喚士は両膝を地面につけ、いきなりエイナを抱きしめた。

 その瞬間、いつもの癖でエイナは〝びくっ〟と身体を硬直させた。怖くはないのに身体が小さく震えて止まらなかった。

 女召喚士はエイナに頬ずりし、耳もとに唇を寄せてささやいた。


「ごめんなさい。もう少し早く来れれば間に合っていたのに、あなたのご両親を助けられなかった……。

 本当に……ごめんなさい」


 エイナの頬に熱いものが流れた。

 この女召喚士は、自分のために泣いてくれているのだと思うと、エイナは何だか申し訳ない気持ちになった。


「あの……ごめんなさい。

 そうじゃないんです」


「え?」


「あの人たちは、私の両親じゃないんです。

 叔母とその連れ合いで……あたしを養ってくれていた人たちです」


 女召喚士は、少し戸惑ったような表情を浮かべた。

 さまざまな事情があるにせよ、叔母で養い親というなら家族には違いはない。

 それなのに、この少女は取り乱すことなく説明し、涙の一粒も浮かべていないのだ。


「……そう。

 とにかく、ここはいったん離れて村に報せにいきましょう」

 ユニと名乗った召喚士は、エイナを守っていた白いオオカミの方を振り向いた。

「ロキ、このの面倒を見てあげてちょうだい」


 そして再びエイナに向かって話しかけた。

「あなた、何ていう名前なの?」

「エイナ……、エイナ・フローリーです。えとえと、ユニさん」


「そう、エイナね。

 村まで走るから、オオカミに乗ってくれる?

 この子たちは見た目は怖いけど、頭もいいし優しいから安心していいわ」


 そう言うと、ユニはエイナの細い体を抱き上げて、ロキの背中に跨らせた。

「首のあたりの毛を、両手でぎゅっと掴んで落ちないようにしてちょうだい」

「えと……そんなことをして、オオカミさんが痛がりませんか?」


 そう少女が訊ねると、白いオオカミがくるりと振り返って〝ふんっ!〟と鼻を鳴らした。

『大丈夫だ!』

 そう言って、威張っているようだった。


      *       *


 ユニはエイナをロキの背中に乗せ、村に連れ帰った。

 オークの側には、数頭のオオカミを残して現場の保全に当たらせた。


 突然現れた召喚士と巨大なオオカミたちに、村はたちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

 ユニの到着は村の予想より半日も早く、しかも着いた早々にオークを倒したというのだ。


 そして、オークに襲われていたエイナの救出には成功したが、ドーチェとアイリの夫妻は殺されてしまったという話も、村人たちに大きな衝撃を与えた。

 オークの出現自体が十二年ぶりだというのに、人死まで出たのは二十年も昔のことである。


 非常事態を報せる鐘が狂ったように打ち鳴らされた。遠い畑には子どもたちが使いに走り、農作業に出ていた村人たちは全員が呼び戻された。

 そして、ユニの案内で凄惨な殺害現場に案内されると、悲鳴と怒号、嗚咽が飛び交うことになった。

 もちろん、エイナは村の役屋に止め置かれ、村の女衆によって蜂蜜入りの温かい山羊の乳を飲まされていた。


 ユニはやるべき事務手続きをこなしていった。

 オークの腹を裂き、人や家畜をどれだけ喰っているのかを確認する。

 体長や重さを計って、外見上の特徴をスケッチとともに記録する。

 オークの耳を切り取り、インクをつけて皺の文様を報告書に転写する――等々である。


 村人たちは、オークによって殺された気の毒な夫婦の死体を収容し、翌日村葬として埋葬することに決めた。検死の終わったオークは穴を掘って蹴り落した。

 ユニはこうした作業を淡々と指示していた。

 その過程で、人々が犠牲者夫婦をあまり快く思っていないということを、敏感に感じ取っていた。


 慌ただしい一日が終わった夕暮れ時、ユニは役屋で肝煎きもいり(村長に相当する村役人)からお茶をご馳走になっていた。

 すでに約束の報酬は受け取り、親郷と軍に提出する報告書への署名ももらっている。


「いやいや、さすが辺境に並ぶもののないオーク狩り名人ですな。

 ここまで素早く駆除してくださるとは、あなたに頼んだ甲斐があったというものです!」


 肝煎はにこにこ顔だった。

 オークの討伐を召喚士に依頼した場合、その滞在費は村の負担となる。

 早くて三、四日。場合によっては一週間以上、召喚士が滞在することもあり、その間の食事の世話だけでも、馬鹿にならない経費がかかる。

 それが、ユニは到着したその日のうちにオークを倒してしまったのだから、余計な経費を一銭も出さずに済んだのである。


「いえ、人的な被害を出してしまったのは、私の落ち度です。

 あのエイナという娘さんに、申し開きのできない結果となりました」


 ユニの表情は暗かった。どんなに素早くオークを駆除しようが、村から犠牲者を出したのでは大きな顔ができない。


「肝煎、エイナはどうなるのですか?」

 ユニは気になっていたことを訊ねてみた。

 肝煎の表情がたちまち曇る。


「ああ。エイナは両親を数年前に失くしていましてな。

 幸いこの村に、父親の妹夫妻がおりましたので引き取らせたのです。

 ところが今回はお手上げですわ。

 家や畑、家畜はいったん村が買い上げる形となりましょう。

 エイナには埋葬費を差し引いた残りを渡して、どこぞの孤児院に入ってもらうよりないでしょうな」

「そうですか……。まぁ、止むを得ないでしょうね」


 ユニはそう答えるしかなかった。

 両親が事故や流行病はやりやまいで亡くなった場合、残された子どもの境遇は悲惨なものとなる場合が多い。

 親戚がいればまだましだが、開拓村に入植してくる者たちは、故郷を捨てていることが多い。


 最近は辺境でも、規模の大きな親郷には孤児院が建てられているのが救いだった。

 院は救済教という宗教集団が経営しているのだが、どこも孤児たちで溢れているという噂だった。

 昔だったら、彼らは浮浪児として生きるしかなかっただろう。そして数年後にはひっそりと姿を消すことになるのだ。

 空腹で野垂れ死ぬか、人買いにさらわれるのである。


 ユニは立ち上ると、肝煎にお茶の礼を述べた。

「エイナの養い親を助けられなかったことでは、私も責任を感じています。

 今夜はエイナの家に泊まって、彼女の様子を見たいと思います。

 そして、しかるべき孤児院までエイナを送り届けようと思うのですが……」


 肝煎の顔がぱあっと明るくなった。

「おお! そうしていただけると、村としても大変にありがたいです。

 是非ともお願いいたしたいですな!」


      *       *


 その夜、ユニはエイナを連れて彼女の叔母の家に泊まった。

 この家は明日には人手に渡り、エイナは孤児院へと向かわなくてはならない。

 ユニはエイナに身支度をさせようとしたが、彼女には自分の部屋などはなく、自身の私物は着替え以外に何もなかった。


 ユニは家に残っていた食材を惜しげもなく使い、でき得る限りの豪華な夕食を作ってくれた。

 食卓を囲みながら、二人の年の離れた女たちは、いろいろなことを話し合った。

 そうした会話の中から、ユニはエイナという少女が叔母の家で、あまり幸せに過ごしていなかったことを聞き出していた。


「ねえ、エイナ。

 あなた、勉強は好きなの?」


 大きな角切りの塩蔵肉がたっぷり入った山羊乳のシチュー(大変な贅沢だった)を頬張りながら、少女はうなずいた。

「好きです。巡回学校の先生は、小学校を卒業したら高等小学校に進みなさいって言ってくれたの」


「へえ。エイナは十一歳だったわよね?

 じゃあ、再来年から高等小学校か。

 あ、もちろん孤児院からも学校に通えるのよ。そこは心配しないで」


 だが、エイナは寂しそうな顔でかぶりを振った。

「駄目なの。

 あたしが小学校に通えていたのは三年生まで。お母さんとお父さんがいた頃の話よ。

 叔母さんに引き取られてからは、学校に通わせてもらえなかったわ」


 ユニは一瞬言葉に詰まったが、すぐに明るい笑顔を見せた。

 そんな話は辺境では珍しくはないのだ。


「だったらエイナは幸運よ。

 孤児院を運営している救済教は、子どもの教育に熱心なの。

 先生が高等行きを勧めるくらいエイナが優秀なら、すぐに後れを取り戻せるわ」

「でもユニさん、それでどうなるんでしょう?

 私は詳しいことまで知らないけど、孤児院を出た子って、あまりいい働き口がないって聞いているわ」


「……」


 エイナのいうことは事実だった。

 王国でも弱い者の立場に立つ教団、救済教の孤児院でも、孤児が在籍できるのは十五歳までである。

 そして孤児院出身者――特に女子の場合、例え十分な基礎教育を身につけていたとしても、社会の底辺に属する職業に就くのがやっと。それが、この国の現実だった。


「だけど世の中なんて、ちょっとしたきっかけでどう転ぶか分からないわよ。

 〝按ずるより産むが易し〟って言うでしょう? あんたも女なんだから、どーんと構えなさい!」

 ユニは努めて明るく振る舞っているように見えた。

 そして、思いついたようにこう付け加えた。


「エイナが勉強好きだって言うなら……そうだ! 親郷じゃなくて、都会の孤児院に行ってみない?

 そうね、蒼城市が近くていいかしら。

 あそこなら辺境とは比べ物にならない教育が受けられるし、都会の方が働き口が多いのよ。

 蒼城市にはあたしの親友がいるから、いい所を世話してくれるように頼んであげるわ」


 都会に出るという提案は、エイナがまったく予想もしていないものだった。

 そして彼女の将来を大きく変えることになるのだが、この小さな少女が知る由もなかった。

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