王立魔導院 第二話 遭遇

 ドーチェ小父さんが発した言葉は、十一歳の少女であるエイナには衝撃的なものであった。

 〝召喚士の女〟

 エイナは召喚士に女性がいるという事実を、この時初めて知ったのだ。


 彼女が暮らしているのはリスト王国である。

 大陸の東中部に位置し、温暖な気候と肥沃な大地に恵まれ、昔から農業生産が盛んな地として知られていた。

 豊富に産出される穀物は、東の果ての南カシル港から各国に移出されて、大きな富を生み出していた。


 東は海、西は峻厳なコルドラ大山脈という天然の要害に護られ、敵対する南のサラーム教国家群とは〝ハラル海〟と呼ばれる岩石砂漠で隔てられている。

 王国最大の脅威は、北の大河ボルゾ河の対岸に位置する強大な軍事国家、イゾルデル帝国であったが、王国は強力な幻獣を従える召喚士を戦力の中心に据え、その圧力に対抗していた。


 国の護りである召喚士の存在を知らない王国民はいない。

 王国では、その年に生まれた子の全員に対し、ある特殊な魔法具による検査を義務付けていた。

 それは、召喚士としての能力があるかどうかを測定するもので、もしその魔法具が反応すれば、その赤子は六歳になった時点で親から引き離され、強制的に王立魔導院に入学させられる。

 そして十二年に及ぶ英才教育を経て、召喚士として国家に尽くすことになるのだ。


 ただその確率は非常に低く、年間に数十万人出生する新生児で、召喚能力があると判定されるのは十人にも満たなかった。

 魔導院で学んだ子どもたちは、十八歳で卒業する際に召喚儀式を行い、異世界の幻獣を呼び出して契約を結ぶ。

 召喚士たちは、伝説でのみ語られる異形の怪物や精霊たちを意のままに操り、たった一人で数千の軍勢に対抗しうる力を手にする。

 まさに英雄であった。


 その英雄に女性がいる――それはごく当たり前の事実なのだが、辺境の寒村に暮らす無知なエイナには、想像もできないことだった。

 女は何もできない。ただ、男に従順に従い、言いつけられたことを守り、働きながら家事をこなし、同時に子を産み育てるだけの存在だと信じていたのだ。


 女性が召喚士様となり得る。

 その事実は、小さな少女の胸に希望の光を灯した。

 女性の召喚士様に会ってみたい。そしてその姿をこの目で見てみたい!

 抑えきれない欲求が、少女の胸に広がったのだ。


「その……ユニ様って、有名な人なの?」

 エイナはおずおずとドーチェに訊ねた。

 彼女が叔母の夫に自ら話しかけるなど、滅多にないことだったから、ドーチェは少し意外な顔をしてエイナの方を見た。


 彼はごつんとエイナの頭を殴った。

 いつものように目の奥で火花が散ったが、これは慣れっこだった。


「ああ、昔オークが今以上に多かったころは、各村々の間で奪い合いになるほど腕がよかったという話だ。

 大抵の召喚士は、オークが家畜を襲いに来るのを待ち伏せて倒すんだ。

 だが、その女が連れている幻獣は化け物みたいに大きなオオカミで、しかも何頭もいる群れなんだそうだ。

 オオカミたちは臭いをたどって、オークのねぐらを突き止めて倒す。噂じゃ、オークのとどめをさすのはユニの役目だって話だ。

 自分から敵を探しに行くから、駆除するまでの時間が早い。それだけ被害は軽減するし、経費がかからないっていう寸法だ」


 エイナは頭頂部のひりひりする痛みに耐えながら(きっとコブができているに違いない)、小父さんの言葉を一言洩らさず記憶した。

 そんな凄い女召喚士様が、まだ辺境に残っていて、困っている村を助けてくれるんだ!

 そう思うと、彼女を一目見てみたいという願望が、ますます膨れあがるのだった。


      *       *


 オークが出たからといって、毎日の農作業を休むわけにはいかなかった。

 中でも家畜の世話は、絶対に欠かしてはならない。

 山羊の乳搾りをしないと食卓は成り立たないし、今は五月の終わりで、これからだんだんと暑くなる。

 飼っている十五頭の羊の毛刈りをする時期であり、刈った羊毛を糸に紡ぐのは女たちの重要な仕事なのだ。


 村が依頼したユニが、いつ来るのかは分からない。

 だが、年寄りたちの話では、彼女はオオカミに乗って移動するため、ほかの召喚士とは比較にならないほど早く来てくれるらしい。

 村の者たちは、オークを警戒しながら日常の仕事をこなしていた。


 マロリー家も例外ではなく、ドーチェとアイリ、そしてエイナの三人は、早朝から専用の鋏を握り、自分たちの家の羊の毛刈りを行っていた。

 オークは夜に出ることが多いので、日が高いうちに作業を済ませ、夕方までには帰らなくてはならない。

 毛刈りは順調に進み、昼近くにはすべての羊が裸ん坊の情けない姿になって解放された。

 ドーチェは畑の水遣りと施肥に向かい、エイナは叔母とともに山羊の乳搾りと餌遣りのために放牧場に残った。それが終われば、刈った羊毛を運ぶという重労働が待っている。


「さて、こんなもんかね」

 アイリ叔母さんが額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら立ち上がった。

 彼女は空を見上げて太陽の位置を確認する。


「おや、もうお昼だね。

 ドーチェのところに弁当と山羊の乳を持って行かなくちゃならないわ。

 あたしたちも畑で一緒にお昼にしよう。

 エイナ、乳を持ってついておいで」


 声をかけられたエイナは、一瞬びくっと身体をすくませた。

 アイリの眉根に皺が寄り、唇の端がひくひくと震える。


 少女は慌てて立ち上がると、重い金属のミルク缶を持ち上げた。

 マロリー家の畑は何か所かに点在していたが、ドーチェが行ったのは一番新しい畑である。


 辺境の開発では、まず森の巨木を伐採し、根株を撤去するところから始まる。

 針葉樹林の森は土地が痩せているため、そのままでは畑にできず、いったんは村が共同管理する放牧場となる。

 羊や山羊が雑草を食べて土を掘り起こし、排泄物が肥料となって五、六年で土地が肥えてくる。

 そうなったら村人に公平に分配され、新たな畑として耕されるのである。


 そうした新開地は、当然森に近い。

 オークが出没している今、本来ならばあまり近寄りたくはない場所だった。

 だが、新しい畑は手間がかかる。こまめな世話をしてやらないと、思うように作物が育たないのだ。


 アイリとエイナは、それほどオークを恐れていなかった。

 一人ではないし、ドーチェと合流すれば三人になる。

 オークは獰猛だが、狡猾で用心深かった。人間を襲う場合は、相手が一人である場合が圧倒的に多いのだ。


 家畜たちの放牧場から、ドーチェのいる畑までは一キロ足らずだった。

 二人の女は、晩春の穏やかな風に吹かれながら、ゆっくりと歩を進めていた。

 掘り返された土と青草の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐり、空からはやかましいヒバリの鳴き声が聞こえていた。


 目的地の畑には、一時間足らずで着いた。もう昼は回っており、ドーチェは腹を空かせて待っているはずだった。

 だが、畑に到着しても、ドーチェのがっしりした姿は見当たらない。

 アイリは不思議そうな顔でつぶやいた。

「おかしいねぇ。用でも足しているのかしら」


 エイナは重いミルク缶を土の上に置き、痺れた腕を振って大きく息を吸い込んだ。

 その鼻に、妙な臭いを感じる。

 不審に思った彼女は、きょろきょろと辺りを見回した。

 そして、〝それ〟を見つけたのだ。


 何かの臓物に似た、柔らかそうで白っぽい物体。

 表面がわずかに薄い褐色で皺が寄っていて、てらてらと濡れて日の光を反射していた。

 そして、少し離れた所に、十センチほどの白い骨片が落ちていた。

 白いのは、それが内側だからだった。地面に接している裏側からは、人間のものと思われる髪の毛がはみ出ていた。


 黒っぽく長い髪の毛。それはドーチェ小父さんの特徴と一致している。

 さらに、あちこちの土が黒く湿っていた。

 畑の土は白っぽい褐色で、それは異様に目立っている。

 エイナはもはや確信していた。これは血だ。


 彼女は悲鳴をこらえて畑の周囲を見渡し、あるものを見つけた。

 そして止せばいいのに、叔母に向かって叫んでしまった。


「叔母さん、あれ!」


 アイリは姪が指さす方を、反射的に振り返って見た。

 その方向には、タブ大森林の圧倒的な質量が、黒々とした姿で立ちはだかっている。

 そして、巨木の根元の方に目を向けると、そこに大きな人影を見つけた。


 それは半裸で逞しい、巨大な男だった。

 右手に棍棒を握って、肩にかついでいる。

 そして、左手に人間らしい物体を引きずっていた。


 引きずられているのが誰なのかは分からなかった。

 遠かったからではない。顔の上半分が潰れて失われていたからである。

 かろうじて残っている下半分は血だらけで、顎が外れたようにぶら下がり、でろりと舌がはみ出していた。

 その服装は、妙に見覚えがあった。アイリの夫、ゴーチェの野良着にそっくりだったのだ。


 アイリは自分の顔を両手で覆い、金切声を上げた。


「叔母さん、駄目っ!」

 エイナが叫んだが、手遅れだった。

 巨体の男は女の叫び声に敏感に反応した。言うまでもなく、それはオークだった。

 オークはぴたりと動きを止め、後方を振り返った。


 低く潰れて幅の広い鼻がひくひくと動いた。

 オークの目はあまりよくないが、嗅覚は人間よりはるかに鋭い。

 柔らかい春風に乗って、微かな臭いが運ばれてくる。

 女の臭いだ。


 一人は成熟していない子どものようだった。

 もう一人は、完全に熟れた食べごろの女の臭いを撒き散らしている。

 濃密な腋毛から漂う香しい臭い、股の間から溢れるチーズのような体臭、酸っぱい汗と尿の臭い。


 獣の生皮で作った腰巻が、むくりと膨らんだ。

 オークの情欲に火がついたのだ。

 彼は、頭をかち割って殺した男を森の奥のねぐらに持ち帰り、ゆっくりと喰らうつもりでいたのだが、もうそんなことなどどうでもよくなった。

 肉の柔らかい子どもと、りごろの女が同時に出現したのである。これを逃す手はない。


 オークは引きずっていた獲物を放り投げると、恐ろしい勢いで走り出した。

 エイナは叔母に駆け寄り、彼女を連れて逃げようとした。

 だが、アイリはヒステリーの発作を起こし、その場にへたり込んでしまった。

 スカートに染みが広がり、彼女が失禁していることが分かった。


 エイナは必死で叔母の腕を取って連れ出そうとしたが、十一歳の少女に大人の女性を動かせるほどの力はない。

 それどころか、アイリは鬼のような形相で振り返ると、エイナを拳で殴り飛ばした。

 そして、獣じみた醜い表情で吼えたのだ。

「お前のせいだ! お前のせいでこんなことになったんだ!

 この疫病神!」


 畑のうねに吹っ飛ばされ、流れ出る鼻血を抑えながら、エイナは呆然として叔母の罵倒を聞いていた。

 何か答えるべきなのか、もう一度叔母を助けに行くべきなのか、それとも自分一人でも逃げるべきなのか――少女の混乱した頭では、その判断がつかなかった。

 もっとも、その答えを出す前に、オークが目の前に現れてしまったのであるが……。


 ご馳走を前にしたオークは、わずかに逡巡した。

 獲物は二人いる。

 彼の気持ちとしては、破裂しそうな股間をなだめるために、まず大人の女を犯したかった。

 だが、それをしていては、子どもの方に逃げられてしまいそうだ。

 女は半狂乱だが、子どもは怯えながらも正気を保っているらしい。


 小さな脳みそをフル回転させて、オークは結論を出した。

 女は取りあえず犯す前に逃げないように殴り殺してしまおう。

 そして逃げる子どもを捕まえて殺す。

 二人とも逃げる心配がなくなったところで、ゆっくり女を犯せばいい。


 死んでも穴は使える。まだ冷たくなるまで時間があるから、きっと気持ちがいいだろう。

 この世界に飛ばされてから、交合できる雌と会ったのは初めてである。

 二、三度股ぐらにたっぷりと出したら、尻の穴にも一発出してやろう。


 方針が決まると、オークは物も言わずにアイリの頭に棍棒を降り下ろした、

 甲高い悲鳴を上げ続けていたアイリは、ぐしゃっという音と血しぶきを最後に沈黙した。

 夫と同様に頭蓋を砕かれ、彼女の貧しい人生は終わったのだ。


 エイナは叔母の最期を見届けなかった。

 オークが動いた瞬間、脱兎のごとく走り出したのだ。

 それは理屈ではない。生きるために本能が命じた行動だった。


 だが、彼女は所詮十一歳の子どもである。

 身長は百四十センチにも届かず、同年代の少女に比べても小柄だった。

 それが体長二メートルのオークから逃げおおせるはずがない。

 分かっていながら、エイナは走ることを止めなかった。


 諦めたら確実に死ぬ。

 諦めなくても、わずか十数秒の時間が稼げるだけで、多分結局は死ぬだろう。

 それでも彼女は走り続けた。


 背後からは、重い地響きとともにオークが迫ってくる気配が感じられた。

 振り返ることに何の意味もない。むしろ、無駄な動きとなる。

 それは分かっていたが、エイナは自分に死をもたらす者の存在を、もう一度確かめずにいられなかった。


 彼女は走りながら振り返った。

 その途端に、畑の土から露出した木の根に足を引っかけ、ものの見事に頭から地面に突っ込んでしまった。


 自分の間抜けさを呪いながら、彼女は覚悟を決めた。

 両親と別れて以来、幸せだったとはとても言えず、辛く苦しい日々だった。

 だが、この苦しみから救われる日が来たのだ。

 ならば、オークは自分とって救世主であるはずだった。


 そう思い込もうとしたものの、黄色い乱杭歯を剥き出しにして、臭い息を吐きながら覆いかぶさってきたオークを間近に見た時、彼女は思わず叫んでいた。


「お母さん、助けて!」


 エイナは頑なに信じていた。

 自分の目の前から消えた母親は、きっとどこからか自分を見守っているのだと。

 会いに来てくれないのは、何かの事情があるからだ。

 だけど、どうしようもない事態になれば、必ず助けに来てくれるはずだった。


 少女はもう一度叫んだ。

「お母さん!!」


 オークの醜い顔が残忍そうに歪み、怪物は棍棒を持った右手を振り上げた。

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