魔導士物語
湖南 恵
第一章 王立魔導院
王立魔導院 第一話 オーク
粗末な木のテーブルの上には、湯気を立てた夕食が並んでいた。
塩味のキャベツのスープには、ちょっぴりだが塩蔵肉の欠片が入っている。
ジャガイモとくず野菜の煮物が副菜として並び、アケビの蔓で編んだ籠には、切った黒パンが盛られ、小さな皿にわずかばかりの山羊バターが盛られている。
辺境の貧しい開拓村にしては、十分に豪華なメニューである。
だが、テーブルについた二人の女は、そのご馳走に手を付けようとはしなかった。
汚れたエプロンを着けたくたびれた中年女が、テーブルに肘をつき、小さな溜め息を洩らした。
「遅いわね、
それは明らかに独り言だったが、向かいに座っている痩せた少女は、何か答えなければいけないと思ったらしく、少し焦りながら言葉を発した。
「羊が産気づいたとか、牛が言う事を聞かないとか何かで、寄り合いに遅れた人がいたのかもしれないわ」
中年女は、じろりと少女を睨んだ。
その途端、少女はびくりと身体をすくませた。
女の眉がぴくりと上がり、口元が苛々したように歪む。
「ごめんなさい」
少女は下を向き、消え入りそうなそうな声でつぶやいた。
少女は内心で『しまった』と思う。
自分が怯えたように身体をすくませることを、叔母さんは何より嫌うのだ。
だが、分かってはいても、反射的に身体が動いてしまうので、彼女にはどうしようもなかった。
叔母さんは決して悪い人ではない。
孤児となった姉の子どもである自分を引き取り、今日まで育ててくれたのだから、感謝しなくてはならない。
少女はもう十一歳になっていたから、それくらいの道理はわきまえている。
* *
少女の名はエイナ・フローリーといった。
辺境にあるソドルという小さな開拓村で生まれ育った、ごく普通の田舎娘に過ぎない。
彼女の両親は、貧しいが真面目に働く農民だった。
二人は晩婚で、ともに三十代の半ばを越していた。
十代で結婚し、若いうちに多くの子を産むのが当たり前の土地柄だったから、一人娘であるエイナの存在は、何かと噂話の対象にされていた。
そんなことはお構いなしに、なかなか子が授からなかった夫妻はエイナに愛情を注ぎ、大切に育てていた。
不幸が訪れたのは、エイナが七歳の時だった。父親のエリクが、森の伐採作業で事故死したのである。
開拓民は、辺境の東に広がるタブ大森林を切り拓き、畑と放牧地を拡大することに村を挙げて没頭した。そうしなければ、貧しい暮らしから抜け出せないからだ。
そのためには、森の主である巨大な針葉樹を伐り倒すことから始めなくてはならない。
これは村の男たちが共同で行う定期的な作業だったが、危険を伴うものだった。
まず木を倒す方向を決め、その方向から斧で切れ込み(受け口)を入れる。
そして、反対側から斧を深く打ち込んでいくと(これを追い口という)、受け口の方へ木が倒れていく。
木の傾き具合を見ながら、
エリクと仲間たちが、数人がかりで倒そうとしていた巨木もそうだった。内部に腐った
そのため、予想より早く倒れ始めた木は思いがけない方向に傾き、隣の立ち木に衝突した挙句、反動で跳ね返り、エリクたちに向かって倒れてきたのだ。
あっという間のことで、逃げる暇もなかった。下敷きとなったエリクが即死し、もう一人の若者も下半身を潰されて、一生歩けない身体となった。
エイナの母クロエは嘆き悲しんだが、どうにもならなかった。しばらくは夫が遺した畑を耕し、わずかな家畜の世話をして暮らしていたが、事故から半年ほど経ったある日、忽然と姿をくらまし、行方不明となった。
村人たちは周辺を捜索したが、手がかりはまったく掴めなかった。口さがない者たちは、クロエが男をつくって逃げたのだと噂した。
残されたエイナは途方に暮れた。まだ七歳の少女に畑を継げるはずがない。
彼女に身寄りがなければ、親郷のクリル村に送られて孤児院に入ることになっただろう。
だが、幸か不幸かソドル村には母クロエの妹で、エイナには叔母に当たるアイリが住んでいた。
アイリとその夫のゴーチェ・マロリーには子どもがなかったが、村人たちはフローリー家のささやかな畑と家畜を相続させる代わりに、エイナをこの夫妻に押しつけたのである。
アイリはごく普通の主婦であったが、亭主のゴーチェは酒飲みで、あまり評判のよい男ではなかった。
夫妻は子どもを育てた経験がなく、渋々といった体でエイナを引き取った。
エリクとアイリの兄妹は、あまり仲がよくなかったらしく、同じ村に住みながらエイナはこの叔母のことをよく知らなかった。
ただ、アイリは自分の姪であるエイナに対し、決して愛情深くはなかったが、きちんと面倒を見てくれた。
少なくともちゃんとした食事を与えてくれたし、古着をほぐして服を作ってくれた。少女のベッドはなかったが、その代わりに土間の片隅に麦藁を集め、ささやかな寝床も作ってくれた。
もちろん貧しい開拓民であるから、子どもであろうと家の手伝いはしなければならない。
そうした仕事で失敗をした時は、容赦なく引っぱたかれた。
今まで両親から手を上げられたことのなかったエイナは驚いたが、その原因が自分にあることを理解していたから、涙を零しながらも謝ることで、それ以上の折檻は受けなかった。
ただ、ゴーチェの方は話が違った。
彼はエイナにほとんど興味を示さなかったが、何の理由もなく少女を殴った。
平手ではたくのではない。酒焼けした赤ら顔に笑みを浮かべたまま、拳骨で頭を〝ごんっ〟と音が出るくらいに殴るのだ。
どうやらこの男は、〝子どもは殴るものだ〟と思い込んでいるようだった。自分がそうやって育ったからだろう。
だから、手が届くところにエイナがいれば、それが当たり前だという顔をして彼女を殴った。
エイナは頭の良い子だったので、すぐにそのことを理解した。
ゴーチェの側には、できるだけ近寄らないようにする。何か言いつけられて物を持っていく時でも、手の届かないぎりぎりの場所に置いて、素早く逃れればいい。
そんな態度を取るエイナに対し、ゴーチェは別に腹を立てるでもなかった。
エイナが困ったのは、むしろアイリ叔母さんの方だった。
彼女は月に一度くらい、発作を起こすことがあった。
別にエイナが何かのヘマをしたわけでもなく、ごく普通に話をしていただけなのに、突然機嫌が悪くなるのだ。
いきなり目が吊り上がり、口の端が痙攣したかと思うと、エイナの胸倉を掴んで引き寄せ、激しく平手で叩く。
あまりの衝撃で目の前が真っ暗になり、ちかちか火花が散るのだが、それだけでは済まない。
張り倒され床に倒れたエイナに、大人であるアイリが馬乗りになり、何度も何度も頬を叩くのだ。
なぜ叩かれるのかわけが分からず、逃れたい一心で少女は泣き叫んだ。
「ごめんなさい!」
「許してください!」
だが、それがアイリをますます興奮させるのか、「黙れ!」と怒鳴られ、さらに激しく叩かれた。
頬が腫れ、唇が切れ、鼻血が噴き出しても、
エイナがぐったりとして動かなくなると、ようやく暴力の嵐は収まり、アイリはわっと声を上げて泣き出すのが常であった。
気を失ったエイナは、いつの間にか藁の上の〝しべ布団〟に寝かされており、翌朝目を覚ますと、叔母さんは何事もなかったかのような顔をしている。
エイナの顔や唇は紫色に変色して腫れあがり、目も糸のようになってうまく開けない。酷い人相になっているのだから、暴力の痕跡がありありとしているのだが、アイリ叔母さんもゴーチェ小父さんも何も言わなかった。
そんな生活が何年も続くうちに、エイナはちょっとしたことでも〝びくり〟と身体をすくませるのが癖になっていたのである。
* *
その晩、ゴーチェ小父さんが夕食に遅れているのは、村で寄り合いが開かれているからだ。
昨夜、村が共同で管理している放牧場から、羊が二頭消えたのである。
それは、数軒先のライリーさんの家の羊だった。
開拓民にとって、家畜は大きな財産だったから、当然大騒ぎになった。
大森林には熊、オオカミ、大山猫といった肉食獣が棲んでおり、それらが放牧場の柵を超えて羊を襲うことは、稀ではあるが起こり得ることだった。
だが、今回放牧場で発見された足跡は、明らかにそれら害獣とは異なるものだった。
「こいつは……オークだな」
「ああ、間違いねえ! この足跡、俺も昔見たことがある」
「くそっ、ついてねえ! 何だって俺らの村に出やがったんだ」
「前に出たのは何年前だ?」
「確か十二年は経っているぞ」
村の男たちは頭を抱えた。
オークは森に棲む獣とは、桁違いに危険な存在だった。
体長は二メートルに近く、姿は人間に似ている。違うのは下あごから牙が生えていることと、耳が豚のように大きく、垂れさがっていることだった。
腰巻のみの半裸で棍棒を武器にすることが多く、多少の知恵も持っていた。
オークは凶暴で、家畜だけではなく人間も襲って喰った。特に肉の柔らかい女や子どもを好み、女の場合は散々に犯してから喰った。
四、五年前までは、辺境でもオークの被害が多く、異形の怪物を従えた召喚士が討伐に当たっていたが、最近ではめっきり数が減っていたのだ。
オークが出現した場合、村人ではとても対処できない。親郷に連絡して召喚士を呼ばなければならなかった。
村でも当然、親郷であるクリル村に至急の使いを出した。
ただ、当たり前の話だが、召喚士を雇うには金が要った。
今日の夕方から始まった寄り合いでは、その金を各家がどう負担するかが話し合われていたのである。
* *
「話が難しくなっているのかしら……」
アイリ叔母さんが曇った顔つきでつぶやいた。
「仕方ないね、料理が冷めちまう。あたしたちで先に食べることにしよう」
叔母さんの提案に、エイナが異議を挟むことなどできるはずがない。
それでも少女は上目遣いで叔母の様子をそっと窺う。腹は減っているが、先に動いてはいけないのだ。
その視線に気づいたのか、アイリは顔をしかめた。
だが、何も言わずに木のスプーンに手を伸ばしかけた。
すると、まるでその動きを待っていたかのように、扉の外で〝ごとり〟という音がした。ゴーチェが帰ってきたのだ。
エイナが素早く椅子から滑り降り、扉に駆け寄って内側の
粗末な木の扉が開き、ゴーチェが入ってくる。
薄汚れた野良着の上に重そうな外套を羽織っているが、手ぶらだった。
もう農具は外の小屋に片付けてきたのだろう。
彼は背は高くないが体格はよく、でっぷりとした腹をしていた。どこで引っかけたのか、その息からは甘い酒の匂いがした。
ゴーチェもアイリもまだ三十代の前半のはずだが、貧しい暮らしのためか、くたびれた中年夫婦にしか見えなかった。
ゴーチェは外套を脱いでエイナに渡すと、ついでに少女の頭をごつんと殴った。
目の奥から火花が散ってくらくらしたが、エイナは黙って外套の埃を払い、壁に下がっているハンガーにかけた。
小父さんは土間で靴の泥を落とすと、居間に上がってきて、自分の椅子にどかりと腰をおろす。
「遅かったじゃない」
アイリは皿にスープをよそいながら、心配そうに訊ねた。
男はそれには答えず、まだ湯気の立つスープを何匙か飲み込んだ。そして籠から黒パンを取り、ちぎってスープに浸ししてから口に放り込んだ。
そして食べ物を頬張ったままで、やっと言葉を出した。
「ああ、どっちの暮らしが苦しいか、妙な自慢大会になってな。まったくくだらねえ。
とにかく、うちの割り当ては銅貨三枚で決まった。これでも村の中じゃ安い方だから、まぁ仕方がねえだろう。
貧乏なのも、たまには役に立つな」
アイリの表情が少し明るくなった。
「あら、思ったより安いじゃないか。
でも、大丈夫なのかい?
安いってことは、駆け出しの若造かもしれないじゃない」
「いや、その辺は問題ない。
親郷から戻ってきたアルフの話じゃ、腕がいい奴にちょうど空きがあったらしい。
あまりがめつくないみたいで、うちみたいな貧乏村にも来てくれるらしい」
エイナは目を見開き、何一つ聞き逃すまいと耳をそばだてていた。
少女は噂を聞いているだけで、召喚士という人を見たことがない。
恐ろしい怪物や、不思議な妖精を異世界から呼び出し、手足のように使うという召喚士は、この国独特の職業だった。
『絶対にこの目で見てみたい!』
エイナはそう心に決めていた。
「へえ、そんな腕のいい召喚士が、まだ辺境に残っているのかしら?
オークが減ってから、そうした腕利きはみんな都会に戻っていったと聞いていたけどね」
アイリは黒パンに薄くバターを塗りながら、少し疑わしそうな声音を出した。
ゴーチェはそれを聞いて、にやりと笑ってみせた。
「ふん、変わり者なのさ。
一応、辺境でオーク狩りといったら、そいつが一番だと言われている。
お前だって名前くらい聞いたことがあるだろう?
〝オオカミ使いのユニ〟って女だ」
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