第5話
桜の花が、ガクごと落ちていく。これは鳥が花の蜜を吸うことによって、花の付け根が弱ることが原因らしい。それを知ってからは、甘いところを吸い上げられて、打ち首にあったように落ちていく花を見ると、気持ちが萎えるようになった。祝いの花と言われるような桜が、ツバキみたいに不吉な姿で落ちていくのは、皮肉なものだと思う。
「八束君、何を見てるの?」
声をかけてきたのは、一年の時は副担任、二年では担任になった三浦だった。三浦は、口元が印象的で、安川さんに雰囲気が似ているような気がする。色素が薄い瞳も、カラーコンタクトをしているみたいだと女子に評判らしいが、僕は口元の方が気になる。
「窓の外?桜が綺麗ね。」
「そうですね。」
ここで、さっき感じていたことを言えば、中二病だとか痛いやつと思われるんだろう。適当に言葉を返すと、三浦は隣に並んだ。世間話なんか求めていないのに、なんでわざわざ隣にくるのか。人一人分の距離を取って口を噤むと、三浦は、お話しようよと拗ねるように言った。
「何か話すことありますか。」
「……中島君のこととか。」
僕が一瞬目を見開いたのを、三浦は見逃さなかったのだろう。もう一度、お話しようよと言った。緩く孤を描いた口元に、光る艶が気持ち悪い。僕は目を桜の枝にやって、動揺を悟られまいとした。
「支配と従属。それがもたらすのは、なんだろうね。」
――支配。
「私の、個人的な話をしてもいい?私ね、父親が居たの。今は離婚して、母一人子一人なんだけど。父は、お前達のためだ、そう言って金を稼いでくる。ここまではいい父親だよね。お前達のためだ、そう言って私たちの行動を強制する。お前達のためだ、そう言って手を、暴力をふるう。神経質な父の機嫌を損ねると、手を付けられなくなるの。一通り暴れた後で、私達に感謝の言葉を言わせるのよ。お前達のためだと言ってね。そう、父は、支配するのが上手かった。私達は従属するしかなかった。」
違う、僕と優介は、支配と従属なんかじゃない。
僕は選んでいるだけだ。優介のために、という自分の内言が、僕の手を湿らせていく。僕の身体の中から、沸騰した蒸気が手に集まっているように思えた。その癖に手先は冷たくなって、震える。
「私の父は、私が十歳くらいの時に再婚したらしいわ。授かり婚、だったらしいと、憔悴しきった母に知らされた。この学校に就職したときに、父親の名前の病院がかかりつけだと知ったーーねえ、もうわかるでしょう。」
春なのに、かじかんだ手は上手く動かなかった。
「八束君、あなた、お父さんにそっくりね。」
僕は学校に行くのを辞めた。
指先が冷たかった。僕の中にある70%の水分が、じわりじわりと手のひらに集まる。冷夏と言われる今年は、雨が降った後には、風が冷たい。余計に指先が冷えて仕方なかった。
学校に行かなくなった僕のことを、当然父は糾弾した。初めて、服から出る出ないを考えずに手を振るわれた。頬は、顔の一部で脳に近いせいか、感覚が鋭敏だった。わずかに触れた父の手の湿り気は、本当に本当に気持ち悪かった。
「なぜ、学校にいかない。落ちぶれるつもりか、底辺の猿が集まるような高校に通っておいて、そこで落ちぶれるなんて……!」
次は平手ではなく、拳が頬骨に鈍い音を立てる。一気に血液が集まって、これは内出血をするだろうなと思った。腹にも一発お見舞いされて、胃が震えて、生理的な涙がでた。また包帯を巻かれるのかとげんなりする。湿布の固定や圧迫して腫れを抑えるために巻くらしいが、父はそんな効果は対して気にしていない。ただ、傷を隠すことができればいいのだ。
「ふざけるな!馬鹿にしやがって!!お前は、そうやって反抗しているつもりかもしれないが!俺は絶対に逃がさないからな!」
こめかみ、胸元、脛。殴られ、蹴られ。声を上げたくなくて噛みしめていた唇が、ブチ、と音を立てて切れた。その刹那、三浦千佳の淡い赤をした唇が頭に浮かんだ。
包帯に覆うように、父が隠してきたものの一つ。
「……逃げられないのは、あなただ。あなたの娘が、教師として学校にいる。」
暴力の雨が止んだ。拳を振るっていた父は、所在なさげに拳をほどく。DVが原因で別れた元妻。とっくに成人した娘は、父にとって恐怖だろう。自分の過去が周囲にばれるかもしれない。すでに息子にはばらされている。いつ復讐されるかわからない。おびえる父は支配者とは程遠いものに思えた。
支配、なんて長くは続かない。支配される側が白けてしまったら終わりだ。支配では、駄目だ。優介の選択を塗りつぶして得ていた快感は、俺の一方的なものにすぎなくて、血が滲む傷の上に、白い包帯を巻いてなかったことにする父の行為と同じものだ。
「前の家族が、あなたにとって一番怖いものだったんですね。」
僕の言葉にカッとなったのか、父は僕の額から前髪を毟るように掴んだ。汗で湿り気を帯びた手が、べたっとした。その気持ち悪さを耐えるために握り込んだ僕の手のひらも、湿気ている。気持ち悪いと思っている相手に、気持ち悪いくらいに似ていることに、血の気が引いて、心が乾いていった。
僕にとって、一番怖いものはなんだろう。そんなものは考えなくてもすぐにわかった。僕にとっての恐怖は、優介だ。優介が僕から離れていくのは、何にも勝る恐怖がある。
家族を嫌悪し、対して誰かに好かれているわけでもない。居てもいなくても良い存在の僕に、初めての居場所をくれた存在。僕にすべてを委ねて、僕を信頼してくれている存在。それがいなくなってしまうことは、怖い。
優介が離れていくかもしれないなら、僕から離れてしまえばいい。そう思って、学校に行くのを辞めたのに。
夏休みの前日、優介は僕の前に現れた。
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