第4話

湿った手が、僕の腕をつかむ。書斎へと引きずるように連れられるときは、叱られる前兆だ。


「千博、こっちに来なさい。」

「はい。」


テーブルに叩きつけるように出された父の手元には、模試の成績表があった。模試の成績には、問題はないはずだ。いつもと同じように、それなりに良い成績は取っていたはずだ。父に呼び出された理由は、きっと成績についてではない。志望校の選択についてだ。


「千博、なぜ志望校を空欄にした。」

「……近所の公立に進学しようと思いました。」


平手が飛んできた。バシッと大きな音と、首が振れるほどの衝撃が僕を襲った。頬ではなく、頭を叩くあたり、父らしいと感じる。父は、老人たちの信頼から成り立つような商売をしている。だから、決して見えるところには手を振るわない。跡が残りそうなくらいに殴ったときには、自ら手当をする。服の下、きっちりと丁寧に腹部に巻かれた包帯は、父の手汗がしみ込んでいるように思えて、汚れ切ったものに思える。


「理由は、なんだ。言ってみろ。」


聞く気があることに驚いた。しかし、努めて冷静に声を作った。


「もう、中学の範囲までは勉強を終えています。遠くの私立に進学して、通学や課外活動に力を注ぐよりも、近所の公立に行って、高校までの範囲を終えてしまおうと考えました。また、僕の将来は、お父さんの病院を継ぐことです。近所の方々との関係をうまく築くことの方が、メリットが大きいかと。」


正直無理があるかと思ったが、父の平手は飛んでこなかった。後から知ったことだが、少し車で行った先に新設された内科の院長は、この街から初めて出た東大の医学部出身で、街の公立学校の星だとあがめられていた。街の人との関係のよさから、評判が上々だったことが関係していたらしい。

父は、今住んでいる街は縁もゆかりもない。三浪して地方国立の医学部に入ったらしく、コンプレックスを刺激されていたのかもしれない。


「……きちんと考えがあるなら構わない。しかし、大学は名門の医学部じゃないと許さない。」

「わかっています。お父さんのおかげで食わせてもらっているだけでなく、勉学に励むことができていますから。感謝しています。」


嘘もすらすらと出てくるものだ。優介の傍にいるためだと思えば、本来最も口にしたくない言葉だって、簡単に口にできた。

もう、この時には、完全に優介のことが好きだった。

第二次成長が訪れて、ホルモンの影響で身体つきが若干変わろうと、優介への気持ちは変わらなかった。別に、優介とどうこうなりたい訳では無い。優介の恋愛対象は、僕が持っている性別とは違う。優介は、僕がどれだけ足掻いても、絶対に僕を好きにはならない。ただ、優介が、僕の気持ちに気が付かないまま、友人として隣においてくれれば、それでよかった。優介が誰かと結ばれてもそれでいい。医者になった僕が、優介の死に際を見届けることができればいい。

――そんな気持ちが変わってしまったのは、中学の最後の年だった。


中学に入ると、苗字で呼びあおうと提案された。

優介は、僕のことを八束と呼ぶようになった。一丁前に思春期か、と思った。

優介は、中学に入るとすぐに体躯が大きくなり、骨が目立ち、母親似だった目元は父親に似てきた。声変わりをして、大きくなった喉仏が邪魔なのか、学ランのホックを留めるのを極端に嫌がる。成長期が来ても、あまり身体も顔も変わらなかった僕からすれば、優介の外見の変化は大きく思える。

しかし、それよりも、優介の中身の方の変化が気になった。


少し影を感じるようになった性格。母親が亡くなったから、という理由だけでは片付かない何かがあるように思えて、気がかりだった。そして、優介がクールだと女子に評されているのを聞いて、なぜ優介のSOSに気が付くことさえできない、しようとしない奴らが、性別だけで僕が超えられない壁を超える可能性を持っているんだろうと悔しさを感じていた。


「最近、なんか変わったな。」

「顔だろ。親戚に言われたよ、父さんにそっくりだって。」


目を細めて優介が笑う。笑うと目尻に浮かぶ皺は、変わらない。無理をして笑うときに、やけに綺麗に口角が上がって、綺麗に八つの歯が見えるところも。


「愛想笑いするなよ、何があった。」


僕は一歩にじり寄って、優介の首元にあるホックに触れた。すると優介は、勢いよく僕の手を振り払った。


「……ごめん、」

「謝罪なんか要らない。いいから、吐け。」


何を隠している。何におびえている。それを、僕は知りたかった。


「俺に選ばれなかったせいで、母さんは首に縄をかけて死んだ。俺は選択を間違った。」


優介は、消えそうな声でそう言うと、ヒューヒューと喉を鳴らし、肩で呼吸をし始めた。喉仏がせせりあがって、口の中から胃液が飛び出た。酸っぱい臭いがして、固形物がほとんどない中身に、僕は戸惑った。できたことは、自分より大きな身体を引き寄せて抱きしめ、背中をさするkとだけ。優介は、繰り返し謝っていて、いまにも壊れてしまいそうだった。別にゲロくらいなんともない。中身ごとでいい、全部吐いてくれ。


「選んだのは俺だ。誰のせいにも出来ないんだ。俺のせいになるんだ。過去に戻ることもできない、なかったことにできない、違う方を選びなおすことができない……俺は、どうしたらよかったの、大切にするために、大切だから選んだのに、どうして……」


最後の方は嗚咽になって、聞き取れなかった。ただ、優介が、もう何も選びたくないことだけはわかった。


「わかった。全部、僕が選んでやる。」


その言葉に優介が力なく頷いた途端、得体のしれない快感が、うねるように沸き上がった。鳩尾あたりを圧迫されているような感覚がした。不気味な何かが、僕の中に確かにあった。その何かのせいで打ち震えないように、拳を握りしめたその日から、全てが変わってしまった。

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