2章 第1話 乾いたミイラは蘇らない 八束千博

雨が降る前特有の湿っぽいにおいは、父親の手のひらを想起させ、僕をえずかせる。


父の手はいつも湿っていた。神経質な性格をしているせいか、手汗が尋常ではない。父に頬を叩かれるとき、腕を強引に引かれるとき、激しい痛みよりもわずかな湿り気が嫌だった。


「千博さん、お帰りなさい。お昼は食べました?」

「食べた。」

「今日は、お父さんはお帰りにならないそうだから、お夕飯は、少し早めでもいいかしら。」

「部屋に。」

「……では、十八時頃にお部屋の前に置いておきますね。」


女は、ゆっくりと僕に頭を下げた。

腹部に行儀よく組んだ手の震えは隠せていない。実の息子に、何をそんなに怯えることがあるのだろう。礼の角度、手の震え、それを僕はそれほど気に留めはしないが、神経質な父であれば、良くて小言、悪くて平手が飛んできたと思う。階段を上がりながら、また父の手のひらを思い出して、吐き気がした。


 やっとの思いで自室にたどり着いて鍵をかける。ドアから振り返れば、あるのは教育熱心な父の買った勉強机だけ。クローゼットの中にある最低限の衣服は、トランクケースに入るくらいの量だ。寝床はない。クローゼットにしまった毛布を一枚、寝るときに引っ張り出すだけだ。夏は、それすらも出さないために、子ども部屋にしては広いらしい部屋は、一際広く見える。

できるだけ、この部屋にはものを置きたくなかった。


それなりに小さなころには、もう少しものがあって、子どもらしい子ども部屋だったと思う。しかし、自分の家庭が他とは違うということや、世の中の貨幣と売買の仕組みを知り始めたころから、ものは減っていった。未成年で、働くこともできない。アルバイトが許されるわけでも無い。そんな暇があったら英単語の一つでも暗記しろ、数式を解けと言われるのがオチだ。


自分の使用できる金は、すべて父から与えられたものだ。何を買っても、その基には、父がある。その不変な、覆らない事実が、どうしようもなく苦手だった。冬は体調管理のために毛布をかぶって眠りにつくが、その毛布すらも、父の、いや父の稼いだ金に包まれているような心地になって苦手だった。


 女は、「お父さんに食べさせてもらっているのだから。」というのが口癖だ。父親は女を殴るものでは無いらしいと他の家庭から得た知識を言ったとき、僕が父に反抗をしようとしたとき、僕が殴られたとき、どんなときにも「お父さんに食べさせてもらっているのだから。」という。お父さんに食べさせてもらっているのだから、僕らは生きているらしい。


だから、僕らはお父さんに絶対に従わなくてはならない。お父さんに支配されなければならない。そういう常識で生きていく内に、僕には、ある願望が生まれた。


――支配したい。

弱者に回るよりも、強者に回る方が、生きやすいに決まっている。

そんな世の中の理を理解し始めたころ、僕は中島優介に出会った。

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