第6話

 八束との夏休み登校は、残すところ後一週間となった。


八束は待ち合わせ場所に来なかった。寝坊しているのかもしれないし、行く気が無いのかもしれない。携帯に連絡があって、学校にいってろというメールに安心した。1人で歩く通学路は、冷夏の終わりということもあり、そこまで暑くはなかった。

昇降口から、教室へ。そこに続く階段の上の方から、話し声がした。


「八束君、二学期からはどうするの?」


みっちゃんの声だ。いつもより硬く感じる響きは、先生モードの、真剣な話をするときのものだった。


「父から聞いてますよね。」

「ええ。次の学校から課題が出ているそうだけれど、夏休みに登校している暇はあるの?あなたの意図がわからない。」

「ただのリハビリです。」


みっちゃんが、ため息をついた。


「……いったよね、中島君とは距離を置いた方がいいって。」


とつぜん、自分の名が出てきて、驚いた。みっちゃんは、俺と中島は距離を置いた方がいいと、なぜ、そんなことを思ったんだろう。大人から見れば、俺と八束はただの幼馴染だ。昔から、仲がいいなと肯定されてきた。


「お父さんにそっくりよ、あなた。」

「しっていますよ、知っているから、学校に来るのをやめたんじゃないですか。」


みっちゃんは、もう一度、大きなため息をついた。そして、さらに続けた。


「いい?あのね、自分の思い通りに、他人が動いてくれるっていうのは、確かに心地いいかもしれない。でも、人道的とは言えない。あなたは、自分の本性に気が付いている。自分を客観的に見ることができることは、強みよ。客観的に見て、自分が異常であると気が付くことができているのならば、正常に戻ることができるということよ。」


みっちゃんの言っている意味は、俺にはわからなかった。それより、みっちゃんが、そんな風に、生徒を突き放すような、そんな物言いをしていることが気になった。


「それは、僕の、セクシャリティを否定する言葉?」

「違う。もっと、別のところにあるもの。わかってて、意味を取り違えるようなことを言わないで。」


みっちゃんは、話にならないと思ったのか、階段を下ってきた。踵のある室内履きの、ヒールの音が、コツコツと鳴る。俺は、さも今来ましたよ、というようなそぶりをして、挨拶をした。


「おはよう、みっちゃん。」

「……中島君、いつ来たの?」

「なにが?今だよ。」


みっちゃんは、そう、と安心したように小さく呟いて、挨拶を返してくれた。俺の声に気が付いたのか、八束と目が合った。八束は、気まずそうに目をそらした。上履きが地面に擦れて小気味よい音を鳴らす。教室へと向かっていく八束の背中を追いかけるように足を速めれば、みっちゃんは、俺のことを呼び止めた。


「中島君、八束君と一緒にいて、つらくないの?」


柔らかな薄紅色の口紅が、心配の色をにじませるように歪む。孤を描いているときは、魅力的に映ったのに、今はいびつに見えた。八束と居て、つらいはずがない。八束は、俺のつらさや苦しさを無くしてくれる存在で、俺にとっては欠かせないものだ。

八束の家に向かうときに言っていた、教師は人の気持ちを図ることを教える職業だと。みっちゃんは、そう言った。八束の気持ちを知ろうとしたいと言っていたのに。


「そういうの、要らないです。三浦先生。」


静止の声を遮るように、教室へ向かった。

教室の席に、八束が座っているのを見て、ひどく安心した。八束は、俺にとって重要で、必要だ。他の席が空白だろうと、関係ない。八束の席が埋まっていれば、それでいい。そう思うには十分な景色だった。


「遅かったな。」

「悪い、三浦につかまってた。八束も話し込んでたみたいだけど、どうかしたのか?」


八束の、色素の薄い目が揺れたのは、一瞬だった。すぐに、いつものように表情を作る。


「別に。美術の作品提出、できるならしとけって話。」


三浦は、美術の担当教員だ。自然な言い訳だなと思ったが、八束の手には、美術室の鍵があった。完全な嘘ではないらしい。


「勝手に美術室使ってもいいって、鍵渡された。今日は残念ながら課題はお預けだな。」


美術室は、北側にあるせいか涼しい。木で作られた座席に腰掛けて、スケッチブックを広げた。作品のテーマは、静物画だった。俺は、一学期中に、七菜香が楽そうだという理由で選んだリンゴを一緒に描いた。八束は、俺の作品を見て、うまいもんだなと言った。


「八束は、何を書くんだ?」

「さあ。そこら辺の造花でも書くよ。」


美術部員が用意したんだろうモチーフを指さして、八束は下書きもせずに、薄く汚れたパレットに、絵の具を絞り出した。赤、黄色、緑。青。迷いなく出されていく色は、鮮やかだ。八束は、はっきりとした色を好む。水気を切った筆に、べっとりと絵の具を付けて、スケッチブックに色を乗せていく。


「相変わらす、独創的だな。」

「絵は描けなくても困ることはない。」


原色ばかりで、濃淡の一つもなく描かれていく花は、幼稚園児のお絵描きのようだった。モチーフの花はくすんだ赤をしているが、八束はお構いなしに、真っ赤を広げていく。


「あ、やべ。」

「どうした?」

「失敗した。」


絵の具の乾く速度なんかまったく気にせずに、隣同士の色を乗せたからだろう。花の赤と、茎の緑が混ざってしまったようだ。八束はそれが不服だったのか、何も書かれていない余白の部分に、赤をとって、散らした。緑が微かに混じった赤だった。


「あーあ……、もう。思い通りにならなかったからって、そういうことするなよ。」

「むかつく。」

「書き直すか?」

「いやだよ。三浦の課題ごときに、なんで僕が手を煩わせなきゃなんないんだ。」


八束は、美術室を適当に物色し始めた。絵の具がまとめておかれた所を荒らすようにかき分けて、油性の白い絵の具を手に取った。原色ばかりのパレットに絞り出された白は、ひときわ光って見える。それを筆にとって、赤の上を塗りつぶすように。八束は筆を走らせた。


「お前さ、小学校の図工の授業でも同じことしてたよな。赤をはみ出して塗った俺に、上から白を塗ればいいって、言った。」


赤の上に、白を塗りつぶす八束の手が頭によぎる時がある。

八束が、俺の代わりに選ぶたびに、真っ赤な白が出来上がるのを感じていた。


――赤の上に、白を塗りつぶしたら、それは白と言えるのか。赤は無かったことになるのだろうか。


「優介、俺がそれをしたときに、自分どんな反応をしたか、覚えているか?」


小学校の五年生の時だ。正直あまり覚えていない。俺が頭を左右に振ると、八束は笑った。真っ赤な白がこべりついた筆を置いて立ち上がると、座っていた俺の肩を押した。突然の出来事だった。美術室の椅子には背もたれがない。そのまま床に倒れ込んで、背中を床に強く打ち付けてしまった。


「怒ったんだ。こんな風に。」


俺の上に覆いかぶさって胸倉をつかむ八束を見て、遠い記憶が思い起こされる。そうだ、一度だけ、八束の胸倉をつかんで、怒鳴ったことがあった。今では考えられないような行為だ。


「母の日に向けた、カード作りか何かだった。お前が描いたのはカーネーションだったよ。」


だから、赤だったのかと妙に納得してしまう。母は、そのカードを喜んだのだろうか。うっすらと赤が滲む白は、綺麗とは言い難いものだったはず。そういえば、俺の母親は出来上がったカードを見て、ここはどうしたのと尋ねた気がする。八束がこの方法を教えてくれたと言えば、賢い子なのねと、きっと笑っていた。定かではないが。

ぐ、ぐ、と喉仏がせりあがる。

あの笑顔を奪ったのは、俺だ。俺が、あの笑顔を奪って、この世から消し去ってしまった。


「何してんの、お前。」


八束の手を、自分の首に導いた。八束の手は、夏だというのに冷たい。動脈が縮むような気がした。


「なあ、八束。殺してくれよ。」


もう、どうでもいい。八束が居なければ生きていけない俺だ。トラウマのせいで選ぶということができずに、従うことしかできない。生産性がない、くだらない人間だ。

そんな人間でも――八束が、自分のことを好きなんだろうということは知っている。

俺と八束の関係が周囲から見れば歪んでいるように見えることも、それを知った大人が引き離そうとしていることも。


――そして、八束が俺から離れていこうとしていること、現在は八束がしている別れの準備期間だということを、この夏休みに知った。

なあ、八束。殺してくれよ。

そう繰り返した俺の首にかけた手を、八束は、ゆっくりと頬に添えた。


「優介、耳の穴かっぽじって聞け。好きだ。」


知ってるよ、とは返せなかった。八束の手が震えていたから。


「お前は、俺を選べるのか? これは、俺が選べる選択じゃない。だから、お前は選ぶんだ。」


もう、俺は幼くない。このまま、一緒に居られないことくらいわかっている。八束に依存して、依存されたまま生きていけないことも、選ばないという安全地帯にいることはできないことも、誰かに言われずともわかっているのだ。

仰向けになったせいか、窓の外の空がよく見える。原色のような青空は、雲一つない快晴だった。飛行機の通る音が、ゴオオ……と勢いよく響いた。


「俺は、」


絵の具で塗ったような青い空を分かつように、白い一本の線が、くっきりと光った。


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