第5話

夏休み登校は、なお続いた。

ラーメン屋にいった次の登校日には、八束は不機嫌そうだった。七菜香と付き合ってたのかと尋ねられて、頷けば、舌打ちをされた。


「ヤドカリがなぜ貝殻を背負っていると思う?」


今回の問いかけは、ヤドカリらしい。そういえば、なぜだろうか。貝殻が巣なのではないかと考えて答えると、違うらしい。


「貝殻で、身体の柔らかい部分を保護しているんだ。柔らかくて、弱いところを。そして、身体がデカくなったら、収まりきらなくなったら、身体を移すんだよ。これまでの宿を捨てて。」


なぜか、責められているような気がしたのは、八束の語気が、淡々としながらも厳しさをもっていたからかもしれない。


「宿の気持ちは、どうなんだろうな。身体がデカくなったのなら、仕方ないと思えるだろう。が、何も変わらず、柔らかくて弱いまま、乗り換えられたのなら、たまったもんじゃない。」

「……坂本と付き合ったこと、怒ってんの。」

「どうせ、また選べなかったんだろう。付き合おうと言われて、その言葉に従ったんだろう。僕がいないから、判断を仰ぐ相手がいなかったから。」


なにも言い返せなかった。その通りでしかなかったからだ。

付き合おう、私たち合ってると思うと言われた。告白は、七菜香からだった。七菜香のことは嫌いではなかった。手入れが行き届いた髪は清潔感があると思った。垢ぬけた七菜香との交際は、誰も意義を唱えなかった。おめでとうと、お似合いだと、肯定される選択だった。

七菜香との交際は、楽だった。八束が学校に来ない間、学校では七菜香と居た。七菜香は、リードするのが好きらしく、わがままを聞いてくれてありがとうと、よく言っていた。最後には、つまらないと振られてしまったが。


「なあ、八束。」

「……なんだ。」

「俺を守る宿でいてよ。」


八束は、俺の柔らかいところをしっている。一番柔らかくて、弱いところを。

八束の手を取って、自分の首元へと導いた。そこには、第二次成長期を経て、一回りデカくなったような喉仏がある。男の体の、急所の一つだと、どこかの漫画で読んだ気がする。これを、喉に押し込むと器官が詰まって死ぬのだと。

あの人には、これはなかった。


「俺には、八束しかいない。」


蝉時雨がうるさく降っている。うるさいとは、五月蠅いと書くのだという。ハエよりも、蝉の方がうるさい気がする。ハエが五月蠅いのは、死体の周りで飛ぶときだけだ。




父と母が離婚したのは、小学校六年生の初夏だった。

理由はぼんやりとしか覚えていない。確か、父の不貞だったような気がするが、実情は違うと祖父母は言っていた。なぜなのか、高校生になった今でもつかみ切れていない。

 曖昧な理由と反対に、よく覚えているのは、親権という言葉と、テーブルの上の、緑色の字が並んだ紙だった。何度も話し合いがあった。話し合いがあるのは、父が帰ってきて、風呂と食事を終えた午後十一時頃。小学生の頃は、身長を伸ばすために九時に床についていた俺は、その時間になると起こされた。


「優介は、どっちがいい?」

「お父さんと、お母さんは、もう一緒にいられないの。どっちかに付いていかなくちゃいけない。」


 寝起きには、重たい話だった。母親の縋るような顔、父親の疲れ切った顔。それらを交互に見渡して、幼くて今よりもずっと素直だった俺は、選ぶことを躊躇した。そして、話し合いは、また明日にしよう、とまた床につく。そんな日々の繰り返しは、長く感じた。明日が来ないで、このままでいいと何度願っただろうか。

 平行線の話し合いが続く中で、習い事に送るという父の車に乗った時があった。


「俺は、お父さんについていった方がいい?」


 尋ねた俺に、父は車をそこらへんのコンビニで止めて、ソフトクリームを買ってくれた。エアコンが効ききっていない車内で、それは溶けやすく、必死になって舐めた。


「母さんは、心の病気になっているんだ。」

「じゃあ、俺がついててあげないと、」

「母さんは、実家に帰ると言っているけれど、母さんの実家には、母さんの居場所はないんだ。優介もつれていくと言っている。でも、連れていくことは難しいんじゃないかなと、父さんは、思ってる。母さんと父さんだったら、父さんの方がお金を持っていて、優介を育てることができる。」


父親の話を聞くと、状況的に、自分は父親についていくしかないように思えた。

母親だって、わからないはずがない。小学校も六年生になれば、生きていくためには、お金が必要だということはわかりきっている。八束に相談したら、子どもを育てるためには、養育費というものがかかるときいた。


「それなのに、なんでお母さんは、俺のことを連れていこうとするの?」

「優介が大好きで、大事だからだよ。」


そういった父親の顔は、慈愛に満ちていたが、俺にとっては残酷なものに思えた。

大好きで、大事に思われているのを知っていながら、その手を振り払わなければならない。

経験したことのない、気持ちの悪さが喉元を絞めつけていく。萎びたコーンに、垂れていくソフトクリームは、指に係った。べたべたと不快に張り付いたそれを、今もよく覚えている。


結果として、俺は父親についていくことにした。

母が病気を治すためにも、自分が負担にならないようにした方がいいと思った。病気が治ったら、一緒に暮らせばいい、そんな風に、子どもらしく思っていた。


母が亡くなったと聞いたのは、それから一週間後だった。

葬儀に参加して、母の死に顔をみた時には、絶句してしまった。穏やかな死に顔だった。微笑んでいるような死に化粧が施されていた。花を棺桶に入れる時に、顔に近いところに、母が好きだった色の花を置いて挙げようと思った。茎が、服の下にいってしまったから、このままじゃ首がちくちくとして痛いだろうと、わずかにタートルネックのような服をまくった。首筋には、化粧で塗られてはいるものの、かすかに縄の後が残っていた。まだ子供だった。けれど、その意味がわからないほど幼くはなかった。


「優介君のせいやけんね。あんたのせいや。」


母親は、実家の物置の中で、首をつって死んでいた。

母親を溺愛していたという、母の姉――俺にとっては叔母に、責めるように言われたのが、三回忌だった。第二次成長期を経て、母親の面影が失われ、父親にそっくりになってきた容姿をなじられた。父親と一緒に、妹を捨てたのは、お前だと。妹は、お前のせいで死んだのだ。選ばれなかった苦しみで死んだのだと、打算で選んだお前が悪いのだと、そう言われた。

――選択は、未来を容易く変えてしまう。

それを知ったその日から、俺にとって選ぶことは、恐怖だ。


「選ぶっていうことは、自分の選択に責任をもつことだ。選んだのは、俺なんだ。誰のせいにも出来ないんだ。俺のせいになるんだ。過去に戻ることができないから、なかったことにできないから、違う方を選びなおすことができないから……だから、こんなに苦しい。」


俺の異変に気が付いたのは、八束だった。八束から、吐けと言われて、自分よりも小さな八束の胸にすがるように、自分の中のものを吐いた。八束は、相槌の一つも打たずに、ただ黙って聞いていた。俺が何も言えなくなると、一言だけ言った。


「俺が、選んでやる。」


八束は、俺の選択を奪い去ってくれたのだ。

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